「その時私は」物語: 合気道 米谷守正先生

合気道エッセイ その2

【出会い】
 1988年に米国から帰国して,佃島にあった社宅に住むことになりました。そこから歩いて通える深川にある合気道の道場で,指導されていたのが米谷守正 よねたにもりまさ 先生です。米国の大学の合気道部では,それまで習得してきた合気道がほぼ通じ満足していた私にとって,米谷先生の技はまったく違っていておおいに戸惑いました。まだまだ合気道は奥深いものだと知ったのはその時です。この時まで,合気道に極意技 ごくいわざ があるとは知りませんでした。それも一教や入身投げといった合気道の普通の技,その中での合気動作,それが極意技なのでした。米国で合気道を教えてきて,そこそこ形になっていて,合気道はこんなものと慢心した気持ちが吹っ飛んでしまいました。米谷先生に会うことができなかったら,今日まで合気道を続けていたか自信がありません。本当に感謝です。

【米谷守正先生の生い立ち】
 米谷先生は,昭和20年8月7日(火),広島に原爆が落とされたまさにその次の日のお生まれです。先生のお母様の希望で米谷先生のお姉様が生まれた広島の街中の病院でなく,実家の近くの柳井やない市の病院で出産することになり原爆の難をのがれることができました。柳井市は山口県で初めて合気道の道場ができたところで,ビルマから帰国した村重有利 むらしげありとし 先生により昭和35年に開かれました。そのことで合気道のことを高校時代から身近に感じていたとのことでした。大学へ入るために東京に上京し,当初空手をやろうと訪れた道場が閉まっていて,その時にたまたま入った町の本屋で合気道の本が目に留まり,次の日さっそく新宿若松町にある合気道の本部道場の門をたたきました。昭和39年のことです。

【米谷先生と合気道】
 本部入門当時から毎日午後3時に始まる開祖かいそ植芝盛平うえしばもりへいおうの稽古に月曜から毎日出席し,4時から5時までは自主稽古,5時からは日ごとの先生の稽古を受け,これを開祖が他界されるまで続けました。ちょうど東工大合気道同好会が合気道部に昇格したころにあたります。「その時私は」物語 東工大合気道部のところで書きましたが,当時の先生方の合気道はそれぞれ個性的な技で,米谷先生は自分自身で自分の合気道を作り上げていかなければならなかったとの話をお聞きしました。開祖が昇神されるまで翁先生のクラスを年間200回以上受け続けたことが,米谷先生の合気道を作り上げたとのことでした。

 

【米谷先生の技】
 米谷先生に技をご指導いただいたと言っても少し内容が異なります。稽古では目の前で技を何度も見せてくれます。ただ先生の技を先生の説明通りに行っても再現することができません。理解できる時が来たのは先生とお会いしてから18年がたっていました。この時のことは「合気道エッセイ その1:③ 合気道の合気って」に書きました。赤穂道場にきていた体重100kgの体格のよい大学合気道部の学生に,技でなく両手で持たれた前腕を通じて自分の体重をゆっくり掛けていったとき,相手は床にゴロンと倒れ「高橋さん,今なにしたんですか」と。
 これが,米谷先生の技を理解し始めるきっかけとなりました。その後,前腕の使い方,体の移動など,今まで理解できなかった先生の技を少しずつ体現できるようになりました。

 米谷先生の技の原理の説明をまとめ,合気道に触れたこともない人にもわかるようにと 合気道エッセイ を書きました。ここに書いた内容で先生の技が体現でき私としては大いに満足しています。実際先生の技で豪州での6年間は,100kg超,2m近くの大柄なオーストラリアの人たちをきちっと捌き,投げ,制することができたのですから,本当に感謝です。

ではでは。

皆さんの「その時私は」物語への投稿をお待ちしています。今回も「その時私は」物語合気道エッセイのコラボでした。

 高橋達人 tatsuaiki7@gmail.com