「その時私は」物語: 私の入社試験

はじめに
 現在まで,無機材会では大学修士学生を対象に,大学のOB・OGにお願いして,会社の概要,仕事内容,日々の生活の話をしてもらうセミナーを開催してきました。大学生が得れる情報は限られており,特に無機材料の会社は,B-to-Bの会社が多く,なかなか情報が入ってきません。そんな学生への不安解消のためにも,長期間にわたり無機材会の企画行事として続けてきました。最近ではネットを使った就職情報収集,特にコロナ禍で就職の方法自体がネットを多用した方法に変化してきています。今まで会として行ってきた「企業セミナー」も環境変化に合わせ変革するタイミングになってきたようです。
 自分の頃のことを思い返すと,工場見学ツアーはあったもののそもそもこのような就職後の生活の理解を先輩方に説明してもらうような機会を同窓会がしてくれるというような活動はまだありませんでした。そこで当時の自分の就職のころの話を思い出し書いてみたく思います。もう半世紀近く昔の話となります。

【無機材料工学科4年生】
 このころの無機材料工学は,学業をもう少し勉強したいと思い留年した人を含め計21名が無機材料工学科の学生でした。私は,ガラスの研究室,通称ガラ研に所属し,フォトクロミックガラスの研究がテーマでした。かなりの人が大学院に進む中,すれすれの低空飛行,現代のトマホーク並みに地形に合わせ飛ぶことをモットーに勉学に励んできた手前,大学院に行くよりも社会にでて親にたよらず生活できたらとの思いを強く持ち,学部4年での就職を早くから決めていました。

【1976年入社の採用】
 第四次中東戦争に端を発したオイルショックによる不況で1975年に内定取り消しが続出したことから1976年入社の採用は前年の10月解禁となりました。当時の就職担当の先生は宇田川重和先生で,ルール順守の観点から10月以前の就職活動は御法度でした。就職には大学からの推薦状がいりますので,下手なことはできません。ただ,この1976年は就職活動解禁時期だけでなく大学への求人自体が大幅に減少しました。ちょうどバブル崩壊により就職難が続いたと同じような状況が1976年に起き1980年ころまで続きました。大学に送付される就職募集要綱の書類は,積み上げられて就職担当の先生の事務室に保管されますが,その書類の高さが1975年の半分しかないという状況で,その話を聞いただけで心配になります。

【就職活動】
 前述のように就職活動解禁日前の活動はいっさい禁止です。就職担当の先生の「安売りするんじゃない」との強い言葉を聞きながら,「だけど就職できなかったらどうするんだ」との思いを胸にいだき,事前の情報収集は就職担当の先生の事務の方にお願いし,先生が不在の時を見計らってこそっと募集要項を見せてもらうことでした。ガラ研なのに,ガラス会社の筆頭の旭硝子,今のAGCの求人がなかった年です。後の話になりますが,入社試験を受けに行って落ちることもあった年で,前年の1975年とは大違いでした。

【どこの会社に決める】
 父が東京都の公務員であったので,会社の業界のことは情報として持っていません。ガラス業界を代表する旭硝子も就職募集がないのですから,どこでも就職できればいいと結婚を考えていた人の実家が鶴見なので鶴見のとなりの川崎にある会社,川崎製鉄がいいと思い,募集要項を調べると募集は修士卒業学生が対象。この就職難で,求人の条件も修士課程に限るとの条件が厳しくなっていました。ただ,川崎製鉄は川崎にあるのではなく,川崎にあるのは日本鋼管だとあとで知りました。日本鋼管は,学部卒業も求人対象です。鉄鋼会社では,日本鋼管以外はすべて修士卒の募集です。当時の新日鉄,今の日本製鉄はあとで,学部卒も可と連絡がありましたが,最初から学部OKとの方が受かりやすいのではとの考えから「日本鋼管」に決めました。一社だけです。

 当時の日本の鉄鋼会社は,新日本製鐵 (新日鉄),日本鋼管 (NKK),川崎製鉄 (川鉄),住友金属工業 (住金),神戸製鋼所 (神鋼),日新製鋼 (日新)の六社でした。現在は統合が進み,日本製鉄,JFEスチール,神戸製鋼の三社になっています。日本鋼管は,川崎製鉄と2003年に統合し,JFEスチールとなりました。日本鋼管は素材製造メーカーなので一般にはは馴染みが薄くテレビでのCMもないので,町の人の中には社会人スポーツで有名だったバレーボールの会社と思っていた人も多くいました。

【入社試験】
 以前の日本鋼管の入社試験は,面接だけだとの情報で安心していましたし,募集要項にも筆記試験があるとは書いてありませんでした。ところが入社試験の通知には,なんと筆記試験があることと,計算尺 (今の電卓の前の計算機) を持参するようにとのことです。え~~!! えらいことです。

 当時は,そろばん,計算尺が電卓 (電子式卓上計算機) に変わるまさに端境期にありました。カシオ,オムロンといった関数卓上計算機が1万円程度の値段で売られていて,これがないと卒業できないと親にねだって買ってもらいました。メモリーが一つついたものをです。一番高級な関数電卓はヒューレッドパッカードの関数電卓で7~8万円しました。

 (筆記試験)
 筆記試験があるからと今更,志望会社も変えるわけにもいかず,諦めて準備するしかないと準備を始めました。それにしても,募集要項と異なる筆記試験の追加は,応募者が多く,落とすための理由作りと想像がつきます。準備をしっかりしないといけません。研究室の先生にお願いして,試験前に一週間の準備のための休みをもらいました。
 無機材料工学科は,学科として珍しく当時は,東工大と名工大にしかありませんでした。その後にセラミックスブームがあり,セラミックスのネーミングの方がわかりやすいかもしれません。そのため,数の少ない無機材料工学科の学生は応用化学の分野の学生として,試験を受けます。しかも計算尺持参ということは,計算問題があると判断し,応用化学では,熱力学の計算だろうとあたりをつけこれがほぼ的中しました。昔からヤマカンは得意でしたのでよかったです。

 (口頭試問)
 筆記試験はすぐに採点され,口頭試問で使われます。試験官から「今日の試験はどうだった」との問いに,「専攻が無機材料で専門外の試験だったので難しかったです」と答えました。この時の成績は70点だったとあとで聞きました。思ったより良い出来です。結構,悪い点数の受験生も多かったこともあとで知りました。
 それ以外,具体的な技術的質問はありませんでした。「勤務先は,京浜地区だけでなく,広島の福山もあるが大丈夫か」の質問に,試験に落ちてきた先輩の顔を思い浮かべ,「どこでも大丈夫です」と答え入社試験は終わりました。

【結果とその後】
 幸いなことに結果は合格でしたが,勤務地は関東から遠く800kmも離れた広島県福山市の製鉄所に隣接する研究所,ワークスラボです。当時は福山と福島の地名をごちゃにしている人は多くいました。東海道新幹線が新大阪から伸延し博多まで山陽本線として全通したのが入社した前年の1975年で,はじめて降り立った福山駅はできたての真新しい駅でした。
 一方,結婚を考えていた人は,横浜市立の中学校の国語の教員としての採用が決まっていて,当初の計画とは異なるストリートとなってしまいました。

続く

「その時私は」物語 目次

高橋達人 tatsudoc@nifty.com