染井を歩いて手島精一に出会う
JR駒込駅の北口を出たところに桜のポストがある.駒込駅から染井霊園に向かう駒込一帯はソメイヨシノ発祥の地だ.オオシマザクラとエドヒガンの交配からつくられたといわれ,幕末から明治初期に全国に広まった.ソメイヨシノは地名の染井に因んだものだ[注1].
染井は巣鴨とともに江戸時代の花卉・植木の一大生産地であった.伊藤伊兵衛は当時の植木屋の第一人者だったと北尾政美画の「染井之植木屋」に書かれている.染井通りには「花咲か 七軒町 植木の里」と記された石碑がある.江戸期の町名「駒込七軒町」に因んだものだ.1657年の振袖大火の復興で染井通りがつくられ,川越藩主だった柳澤家(柳澤吉保)・津幡藤堂家・林田藩建部家の下屋敷が軒を重ねるようになり,その庭園の手入れに駆り出されたその北側の農民が染井植木屋の始まりとされる[注2].
染井霊園に隣接する専修院は伊藤伊兵衛の屋敷跡だと伝えられている.伊藤家は代々伊兵衛を名乗り,津幡藤堂家の下屋敷に出入りする植木屋となった[注3].四代目の伊藤伊兵衛政武は種苗目録「地錦抄」などを著し,徳川将軍吉宗の御用植木師を務めた.1727年には吉宗が伊兵衛の園を訪れ,その後,トウカエデを繁殖させ世に広めるように命じた[1].現在,公園や街路樹にトウカエデが見られるのは,吉宗が政武に命じたその成り行きだ.政武の園芸植物に関する著書には,草花絵前集,増補地錦抄,広益地錦抄などがある.西福寺には伊藤伊兵衛政武の墓がある.染井の植木屋として活躍した丹羽家の遺構は「門と蔵のある広場」となっている.そこには門と蔵がある.旧丹羽家腕木門は津幡藤堂家の下屋敷の裏門を移設したものだと言われている.そして旧丹羽家住宅蔵は1936年に建て直した鉄筋コンクリート造りの蔵である.
染井霊園には東京職工学校の校長を務めた手島精一が眠る手島家の墓がある.そして染井霊園を通り抜けたところにあるのは慈眼寺だ.そこには司馬江漢や芥川龍之介の墓がある.
六義園は山部赤人に「わかの浦に 潮満ちくれば 潟をなみ 芦辺をさして 鶴鳴き渡る」とうたわれた和歌山市にある和歌の浦を模した庭園だ.徳川綱吉の側用人であった柳澤吉保は,与えられた下屋敷に回遊式築山泉水の大名庭園を1702年に築園した.六義園の名は中国の詩の分類法(詩の六義)に由来する.園内には和歌の浦の景勝や和歌に詠まれた名勝,中国古典の景観が八十八景として映し出されている.明治になると,1874年に岩崎彌太郎の別邸となり,1886年には庭園の復旧工事が行われた.その後,庭園以外を売却して,1938年に残った庭園部分を東京市に寄贈して現在の六義園となった.
ロバート・フォーチュン(Robert Fortune)は東インド会社によって中国・日本に派遣されたプラントハンターだ.1846年に中国からチャノキを持ち出したことで知られている[2].その頃にはガラス製のテラリウム(ウォードの箱)が実用化され,生きた植物の苗を船で長期間,輸送することが可能となっていたのだ.チャノキはインドの冷涼な高原ダージリンで栽培に成功し,現在のダージリンティーとなった.なお,アッサムティーはインドに自生するツバキに似た葉の大きなチャノキ(アッサム種)だ.葉の小さな中国のチャノキはインドの暑さが苦手だが,アッサム種は暑さに強い.アッサム種は発見当初はツバキと考えられていたが,発見から10年ほどの時間がかかってチャノキであることが判明した.ロバート・フォーチュンは1860年と1861年に日本を訪れて団子坂の菊人形や王子の茶屋をめぐり,観葉植物が豊富な染井の植木屋で観賞用の樹木・灌木類を多数購入した[3].
ロバート・フォーチュンの日本滞在記には,日本人の著しい特色は生来の花好きだということだと書かれている[3].どこの家も裏庭に花壇を作り,それは小規模だが清楚に整っている.もしも花を愛する国民性が人間の文化生活の高さを証明するものならば,日本の低い階級の人々はイギリスの同じ階級の人たちに比べるとずっと優って見えるとも記している.
オランダの花好きは1637年にチューリップ・バブルを引き起こした.モザイク病に感染して鮮やかな縞模様の花びらになった球根が高値で取引されたのだ.ソメイヨシノもそうだが,変化朝顔や坂本元蔵の久留米つつじは品種改良によって創出された新品種だ.キンギョ,ジュウシマツ,白文鳥やオナガドリなど観賞用への品種改良は平安な江戸時代に盛んに育まれた.権威主義体制の下で花開いた江戸文化は貪欲な資本主義経済とは無縁の存在だったのだろう.救荒作物としてのサツマイモの普及に尽力した青木昆陽,朝鮮人参の国産化を成し遂げた田村藍水らによる栽培技術の開発などは当時の特筆すべき社会貢献であったが,彼らの文化生活水準は高くても,階級制社会の中で社会的身分は低く,経済生活水準も高くなかったようだ.江戸時代のような権威主義社会のなかで河村瑞賢や奈良屋茂左衛門のように幕府に取り入って御用商人となることが経済的利益を得る近道だった時代に,権力者の意向を忖度せず市場経済によって富を築くことはあってはならないことだったのだろう.権力者の正義を貫くことで平和が維持されていた時代のことだ.文化生活水準は経済的豊かさや社会階級と必ずしも関連しないことを,ロバート・フォーチュンは染井の人々の暮らしなどに見出していたのかもしれない.
[注1] 江戸期の駒込七軒町と上駒込村の小名染井が合併して,明治2年に駒込染井町となった.
[注2] 染井通りの南側に津藩藤堂和泉守の下屋敷があり,その通りの北側に植木屋が並んでいた.藤堂家の西隣は林田藩建部家で,東隣が柳澤吉保の柳澤家だった[4].
[注3] 津藩藤堂家は藤堂高虎を初代藩主とする外様大名だが,家康の信任は厚かった.下屋敷にあった石造物は乗蓮寺に移設されて現在でも残っている[5].
文献
1. 木村陽二郎,江戸期のナチュラリスト,朝日新聞社 (1988).
2. サラ・ローズ,紅茶スパイ,原書房 (2011).
3. ロバート・フォーチュン,幕末日本探訪記 江戸と北京,講談社 (1997).
4. 1854年の江戸切絵図が人文学オープンデータ共同利用センターのホームページに掲載されている (江戸マップβ版): http://codh.rois.ac.jp/edo-maps/owariya/23/georef/
5. 徳丸原の高島秋帆: https://ceramni.matrix.jp/?p=8720