権力に奉仕する大学の歴史とその変容

独裁権力を維持・強化するには地位を脅かすものを排除した統治機構の構築は重要だ.後継者の候補がいなければ独裁権力者がその地位を脅かされることもないからだ.他方,下層階級に属するものにとっては,統治機構の一翼に参入することは上流階級に移行するまたとない機会だ.したがって,独裁者以外の有力者の権力を弱め,一部の下層階級に属する者を抜擢して社会的な可動性を高めることは,独裁者と下層階級にとってのWin-Winの関係となる.

Win-Winの社会制度は古代から中世にかけて世界各地で発達した.科挙は隋の文帝が始め清朝まで続いた君主独裁体制を支える官吏登用制度だ[注1].特徴は試験による登用であり,貴族の優遇を排することで皇帝の権力を強化したのだ.中世ヨーロッパに始まる大学制度も,後述するように,困窮した下層階級に学位取得による恩恵をもたらした.

日本では名目的な最高権力者である天皇の実権が弱い時代が長く続いたため強大な独裁者の出現は抑制され,下層階級に属するものが統治機構に登用されることは封建制社会では稀だった[注2].奈良・平安時代の権力は天皇の座に就くことのできない藤原氏などの貴族階級,江戸時代の実質的な権力も将軍の座に就くことのできない譜代大名が担ってきた.したがって,菅原道真や新井白石などの例はあるが,才能を認められて抜擢された登用例はどちらかと言うと少ない.

菅原道真は才能を認められて右大臣に昇進したが,その後.太宰府に左遷された.新井白石も才能を認められて,6代将軍・徳川家宣,7代将軍・徳川家継に仕えたが,享保の改革を進める8代将軍・徳川吉宗によって罷免された.藤原氏は天皇家の家臣,譜代大名は徳川家の家臣の出自だから,クーデターを遂行する可能性は低く権力者に忠誠を誓うと信じられていたのかもしれない[注3].

欧州の大学の系譜
欧州で総合大学が設立されたのは12世紀ルネサンスの時代だった[1].1158年設立のヨーロッパ最古の総合大学であるボローニャ大学では自治都市の法制度を整備するために法学が重視された.法学を学ぶ学生は個別に教師との契約を結んでいたが,学生たちの互助組織が大学団に発展すると学生の払う聴講料によって大学団が教師を雇用するようになった[2, 3, 4, 5].これが大学を運営するウニベルシタス(Universitas)の始まりとされる.教師は学生にサービスを提供することで生活の糧を得ていたのだから,講師を招いて謝礼を払うシステムが恒久化したことになる.実態としては現代のカルチャーセンターや学習塾を生徒が運営していたもののようだ[注4].

この図式が変更されるのは,教会や国家権力が大学に介入してからだ.1231年設立のパリ大学はローマ教皇に庇護された神学部中心の大学だ.パリ大学が神学中心となったのは1219年に教皇がパリでのローマ法の研究を禁止したことにも関係する[1].大学はカトリック教会との結びつきが強く,聖職者を中心にスコラ哲学を研究する場でもあった.そして下層階級出身の学生でも学位を取得すれば貴族階級と同列に扱われる恩恵を得ていたことが大学の人気を支えていた.学位(教授免許:Licentia Docendi)を取得して教える資格を得れば,その実践によって生活の糧を得ることができるだけでなく,身分も高まったのだ.その一方で資格認定の効用が高まれば大学の価値も高まるので,総合大学教師にとっての学位授与権は打ち出の小槌だった.

中世の大学では下級学部でリベラル・アーツを学び,上級学部で神学,法学,医学を学んでいた.神学は教会に需要があり,法学は行政のため,医学は侍医として国家や権力者に需要があった.なお,医学部の卒業生は医学の理論には通じていたものの医療の素養はなく,医療の実践は風呂屋,香油屋,床屋,産婆,羊飼い,絞首刑吏などを兼務する経験医が担っていた[2].

当時のリベラル・アーツは文法,修辞学.弁証学の三学(Trivium)と算術,幾何学,天文学,音楽の四科(Quadrivium)からなる自由学芸七科(Seven Liberal Arts)であった.三学の文法とは当時の共通語であったラテン語のことだ.教師はラテン語の口述によって学生に知識を授けたのだ.弁証学(Dialectic)は弁論術の論理で,修辞学(Rhetorica)は古代ローマの演説から書簡に対象は変化していたものの,文章表現の技術だ.大学でまず演説や討論の技法を学んだのは,紙がないから筆記試験は行われず,能力は討論で評価されたからだ,そのため学位を取得するには議論に勝つスキルの訓練が不可欠だった.四科については,算術は大きさそのものを扱い,幾何学は動かない大きさ,天文学は動く大きさ,そして音楽は大きさ相互の釣り合いを取り扱うものと位置づけされていた[2].

工学・技術は身分の低い人が携わる商工業関連の仕事だったから,大学教育で取り上げられることはなかった[注5].そこでフランスではグランゼコールを1747年に新たに設置して職業人を育成し,ドイツでは研究と教育を一体化したフンボルトの理念を実現する近代的なベルリン大学が1810年に設立され,そしてジョンズ・ホプキンズ大学には世界初の大学院が1876年に設置されて科学技術振興体制が整えられた.

日本の大学の系譜
1871年に工部省が設置されると,1872年に技術学校の建設を計画した.明治初頭の高等教育の中心は大学ではなく,官立専門学校だったのだ[5].1873年に工部省工学寮として開校した工部大学校(現在の東京大学工学部.跡地は虎ノ門の文部科学省),1871年に設置された司法省明法寮から始まった東京法学校(現在の東京大学法学部に吸収合併),アメリカ式農法を導入した1876年開校の北海道開拓使札幌農学校(現在の北海道大学),1878年に開校したドイツ農法の農商務省駒場農学校(東京大学農学部などの前身),そして1874年開校の陸軍士官学校や1876年開設の海軍兵学校などのことだ.

官立専門学校はグランゼコールと同じ官費制・全寮制の学校だから,困窮した士族の子弟が学ぶには好都合だ[5].政府としても,高給で雇用していた外国人技師を安価な日本人に置き換える経費節減のための悪くない投資だ.なお,フランスのグランゼコールは生徒に給与を支払って雇用し,国家に貢献する科学技術者を育成する富国強兵政策の一環だ.

1873年に開校した工学寮では,9名の教師をイギリスから呼び寄せて初年度には32人が入学した[6].学校の実質的な指揮をとっていたのはグラスゴー大学から派遣された25歳のヘンリー・ダイアー (Henry Dyer)だった.開校後は受験生を集めるために官費制度を主体とし,官費で学んだ学生には工部省で卒業後7年間働く義務を課していた.英語で学ぶ6年制の学校だ.なお,明法寮ではフランス語で8年学び,卒業者には15年の奉職が義務付けられていた.私費制度を検討しはじめたのは,1874年を境目に工部省の予算が激減してからだ.名称を工部大学校に変更した1878年の入校生46人のうち13人が私費生だが,1879年の入校生は26人全員が私費入学となった.

1883年には卒業生が増加して工部省でも全員を雇いきれなくなったので,官費で学んだ者も民間に出てよいということになったが,就職口はなかった.少なくとも1891年の段階では,企業が高給を払うことができるほど産業は成熟しておらず,ようやく1896年頃に産業が発達して就職ができるようになったようだ[注6].工部省が高給で雇用していた外国人技師を日本人に置き換えることは1883年にはほぼ完了したのだが,工部大学校で学んだ学生が産業界で受け入れられるようになるまでさらに10年以上の歳月が必要だったのだ.結局,民営事業の発展にはあまり貢献しなかったことが課題として残った.

明治時代の帝国大学も殖産興業政策の一環だ.お雇い外国人を雇用して日本人に西洋の先進技術などを学ばせるのだが,官立専門学校との違いは生徒に給与を支払うことが不要なことだ.フンボルト理念に基づいて設立されたベルリン大学が,従来の中世の大学制度と決別した研究と教育の一体化を進めたのに対し,日本の帝国大学は西洋の先進技術の習得に注力したのだ[注7].

しがらみのない日本では西南戦争の起きた1877年に,文部省が神学部のない東京大学(法・理・医・文の4学部)を設置した.東京大学では外国人教師が外国語(法・理・文は英語,医では独語)で教えていたから,学生はその準備教育を3年にわたって受けねばならず,1877年には77人の外国人教師の給料に教育予算の3分の1が費やされていた[4].東京大学は1886年の帝国大学令で工部大学校を併合して帝国大学となった.省庁ではなく,国家への奉仕を目的とする大学の誕生だ.

工部大学校が実務的な工業教育よりも学理研究へと傾斜していったことが東京職工学校の設立の動機となったのだが,東京大学工芸学部との合併で文部省傘下の帝国大学工科大学となったことはこの傾斜をさらに加速した.工部省の日本人技師の採用が一巡し産業界への就職が困難な状況では,実務的な工業教育を行うより教師として就職するための学理研究が重視されたのかもしれない.なお,司法省の法学校は文部省の東京法学校となり,その前年1885年に法政学部に吸収合併されて帝国大学法科大学となった.帝国大学はこの2つに加え,医科大学,文科大学,理科大学の合計5つの分科大学から構成されていた.官費を投入して官僚の人材育成を急ぐ官立専門学校の設立時における緊急の課題はほぼ達成されていた.

ワグネルは現場技術者とその指導者を育成するため,1874年に東京開成学校内に「製作学教場」を設置したが,3年後の1877年には廃止された.中等程度の技術を教育することが目的だったが,「卑近実用」との理由で廃止になったのだ[7].政府が行う技術者教育は産業や工業に直接つながるものではなく高尚な分野が優先された時代だった.

東京職工学校の設立は1881年だった.教員となったのは東京大学理学部を卒業した日本人だ.伝統的な徒弟制度の下での技術伝承から近代的・科学的な技術教育への転換を図ったのだが,官立専門学校とは異なり官費制ではなかったので,開学当初には生徒がなかなか集まらず,学校運営の困難な時期が続いた.しかも,学科は午前中のみで午後は実習という教育内容に不満で途中で転校するものも後を絶たず,機械工芸科では40名の第1回入学生のうち,予科1年,本科3年の課程を卒業したものはわずか10名であった[7].建学の目的が卒業生によって工業を興すことだから,当然ながら卒業生の産業界への就職先もない.1886年4月29日から1887年10月4日まで帝国大学の付属となったのは,存続の危機を生き抜く苦肉の策だった.

技手や職工といった中級の技術者の必要性が産業界において認識されるようになったのは1887年前後だった.1890年に校長となった手島精一は生徒たちに評判の悪かった「職工学校」の校名を「東京工業学校」に改称し,学校はようやく安定期に入って入学者数も増加した[7].しかし,当初の目的だった中級の技術者育成にはあまり貢献せず,実践的技術者の人材供給源として工科大学に対する差別化が図られた時期もあったが,次第に工部大学校の系譜と似通ったものになってしまったようだ.結局,金属加工等に係る現場の技術者を輩出して,日本を工業立国の地位に高めた役割は工業高等学校と旧来の徒弟制の貢献が大きかったように思われる.大学の研究室や医局で行われる技術の継承は現代の徒弟制だ.会社ではこれをOJT(On-the-Job Training)と呼んでいる.

おわりに
12世紀の西欧に出現した大学は教会と行政に卒業生を送り出した.技術者への需要が発生したのは産業革命以降だ.ルイ14世はフランス科学アカデミーを設置し,ルイ15世はグランゼコールを創設した.民間が担ってきた科学知識の創出に国家が組織的に関与し始めたのは,1810年に設立されたベルリン大学だ.教育を行う大学で研究も行うようになったのだ.

明治初頭に設立された工部省工学寮は,明らかに富国強兵政策を担うグランゼコールがモデルだ.殖産興業政策の実現には技術官僚の養成が不可欠だったからだ.そして農業の近代化には札幌農学校と駒場農学校,司法の専門職養成には司法省明法寮を設置した.軍人養成の陸軍士官学校や海軍兵学校は,軍が存続する限り卒業生の需要が尽きることはないが,官立専門学校の目的は外国人技師や教師を安価な日本人に置き換えることが目的だったから,それが達成されれば存立意義を失う.官立専門学校は,文部省の傘下となって帝国大学に統合された.

ワグネルは産業発展に寄与する現場の技術者養成が急務と考えて東京職工学校の設立に繋がったのだが,開設当時は産業界の人材需要がなかったので学校運営には苦労が絶えなかった.建学の目的を卒業生によって工業を興すこととしたが,そう簡単にことが進む訳もない.学校運営が軌道に乗ってきたのは,産業界からの工業技術者への需要が高まった日清戦争のあたりからだった.

母校の卒業生は現場の技術者養成という点では多いに貢献したが,昨今の卒業生には産業界の研究開発部門に配属されて新たな事業を興すことも期待されている.既存の技術や製品が陳腐化して製品のライフサイクルが衰退期に突入する前に,新規な商品開発とその市場への投入が必要だからだ.現場の技術者を養成して製品の漸進的改良を行うことも重要だが,事業革新への挑戦も欠かせない.ワグネルの時代から時代は変わったのだ.

東京職工学校から東京工業学校,東京高等工業学校から東京工業大学となり,東京科学大学に至る流れの意義は何だろう.工学寮から工部大学校そして帝国大学工科大学に至る迷走に意義を唱えたワグネルが構想した産業に役立つ教育機関に源を発した母校の漂流先は不明だが,創設時の理念から変容したことはボローニャ大学に始まる欧州の大学の系譜とも共通することだ.

[注1] 明を建国した朱元璋は洪武帝となって,独裁権力の強化に努めた.紅巾の乱は白蓮教徒らによる元朝に対する反乱だから,朱元璋は反乱軍の有力者のなかで頭角を現して皇帝に就任したのであり,建国時には朱元璋が絶対的な権力を保持していたのではなかったことに間違いはない.そこで,1381年には文字の獄と呼ばれる知識人への大弾圧を行い,功臣の大粛清も並行して行った.その結果,科挙による官僚の補充は急務となって,明代には科挙の試験の難易度が下がったと言われている.

[注2] 日本の歴史上の最高権力者は天皇だが,実権を伴った天皇は稀だ.飛鳥時代には蘇我氏が権力を掌握し,天皇は傀儡だった.645年に蘇我入鹿を暗殺して中大兄皇子は権力を掌握したが,天皇が実権を掌握したのは天智天皇から天武天皇に至る短い期間であり,白河上皇らが行っていた院政の時代は例外的に天皇家が実権を握っていたものの天皇を擁立した外戚が権力を掌握する時代が長く続いたのだ.飛鳥時代の中臣鎌足を祖とする藤原氏は平安時代の藤原道長を始めとする有力貴族として摂政・関白の地位を永らく占めた.天皇を傀儡とする有力貴族が権力を掌握した時代が奈良・平安時代とすれば,鎌倉時代から江戸時代に至る武家政権では天皇から権力を移譲された形式が採用された.武家政権では統治を幕閣に委ねて,外戚を含む有力者が権力に介入することを阻んだことも武家政権を維持する工夫だったのだろう.例えば,新井白石は独学で儒学を学び,1686年になって朱子学者・木下順庵に入門した.順庵の推挙によって甲府徳川家(藩主・徳川綱豊)に仕官し,綱豊が6代将軍・徳川家宣となると白石は正徳の治と呼ばれる政治改革を行ったのだったが,権力の座を狙うクーデターの危険性を徳川家はまったく懸念していなかったようだ.このように日本の政治システムの中では独裁権力の行使には限界があり,安政の大獄のような例はあるが,知識人への弾圧や功臣の粛清は比較的穏やかだったようだ.

[注3] 古くからの家臣がクーデターで政権を簒奪する例は多々見られる.メロヴィング朝のピピン(宮宰カール・マルテルの子)は751年にクーデターによって王位を簒奪し(カロリング朝の始まり),ファーティマ朝の宰相だったサラディンはクーデターでアイユーブ朝を樹立,高麗の李成桂は1388年にクーデターで李氏朝鮮を建国した.日本では北条早雲の下剋上や明智光秀が主君の織田信長を討った例が知られている.

[注4] カルチャーセンターや学習塾,英会話やピアノの個人レッスンなどの共通点は教師と生徒の存在だ.生徒が教師を雇用し,教師はサービスを提供する.生徒はさまざまなスキルの習得や知識を得ることが目的で,教師の主な目的は賃金の獲得だ.生活を豊かにする知識や技能の習得は成人にとっての生涯学習の一環であるが,成長期にある青少年にとっては能力の伸長によって将来の就業機会を高め,高い所得を得るための投資の意味合いが強い.生徒が教師を雇用する教育システムは,賃金を支払う生徒あるいはその保護者が意欲的であることが前提となる.

[注5] 職業に必要な専門的なスキルを習得するには労働者の努力が重要だが,国家が国威発揚や富国強兵政策を実施するには専門家養成に関与することが効果的だ.国家の関与が強まったのは重商主義思考が発達してから,雇用者の関与は資本主義経済が発達してから強まったようだ.貧しい労働者はスキルの取得に多額の費用をかけられないが,生徒が教師に使い走りや雑役サービスなどの労働力を提供して,その見返りに教師から見よう見まねで技能を習得すれば,生徒は無料でスキルの習得や知識を得ることができる.教師が師匠,生徒は見習いや弟子と呼ばれるこの制度は,商家では丁稚奉公,職人のもとでは徒弟制として中世に普及した制度だ.領邦国家から絶対主義国家に移行し重商主義も進化した18世紀頃になると,行政や司法官僚の登用に国家試験が課されるようになった.専門的技能が重視されるようになって専門職の養成施設が作られるようになったものこの頃だ.軍医や獣医および鉱山技師や建設官僚などの養成施設として,例えば,ドイツでは軍医の養成を目指したベルリンの医師養成所が1724年に,鉱山アカデミーはベルリンに1770年,クラウスタールに1775年,フライベルクには1776年に設立された[2].大学制度の近代化は真理の探究を目指す啓蒙主義の発展と関係がある.書物からではなく,理性の働きによって実験や観察から真理を学ぶ方向への路線変更だが,実際に大学制度の近代化が成し遂げられたのは1810年設立のベルリン大学に始まる.なお,その前から専門職の養成施設などから発展した専門単科大学では実用の能力を付与する近代的教育が行われていた.伝統を継承する総合大学は単科大学の学位授与権を認めるのを渋ったが,1899年に皇帝の特許状が下されて工科大学が「工学博士」の称号を与えることが許され,商科大学などによる学位授与権がそれに続いた[2].従業員教育は生徒に賃金を支払いながら技能や知識を学ばせる方式だ.資本主義経済では採用した従業員に数日から数か月に及ぶ従業員教育によって必要な知識を与え,技能を訓練してから業務を始めることが一般的だ.職業に必要なスキルの習得には,労働者,国家および企業が関与してきたが,その関与の程度は需要に応じて変化してきたようだ.

[注6] 第13回生として明治1885年に工部大学校に入学し,1891年に帝国大学工科大学土木科を卒業した門野重九郎は,卒業時に就職口がなかったと証言している.門野は仕方なく留学したが,帰国した1896年には産業が発達していて誘い口が三つあったという[6].1894年に始まった日清戦争が既に終結した時代のことだ.工業化は日清戦争を経て本格的に進み,工業技術者への需要は急増したのだ.それは経営不振に陥った官営模範工場の民間払下げによって[8a, 8b],財閥を中心とした民間産業が活況を呈するようになり始めていたころだった.民間企業への実践的技術者の人材供給源として,東京工業学校が積極的に対応するようになったのはこの時代だった.官立の工業学校の設置も加速され,1896年に大阪工業学校(現在の大阪大学工学部),1902年に京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学),1905年に名古屋高等工業学校(現在の名古屋工業大学)が設置された.そして実践的な技術人材の養成を目的とする学校の設立については,1888年には工手学校(現在の工学院大学),1907年には東京工科学校(現在の日本工業大学)と電機学校(現在の東京電機大学)が開校した.なお,1900年開校の東京府職工学校は現在の東京都立墨田工科高等学校だ.

[注7] 1877年に創設された東京大学は明治時代の初期に存在した大学南校(幕府の蕃書調所・開成所がルーツ.その跡地は現在の学士会館や一橋講堂など)と大学東校(ルーツとなるお玉ヶ池種痘所の記念碑が岩本町にあるが,火事で津藩藤堂家の上屋敷跡,現在の神田和泉町に移転した)の合併によるものだった[5, 9a, 9b, 9c, 9d].南校は江戸幕府の幕府天文方が起源で,九段下にあった幕府の蕃書調所が護持院ヶ原に移って開成所となり,それが明治政府の開成学校となって再開された後に改称されたものだ.正確には,南校の合併前の名称は東京開成学校で,東校の合併前の名称は東京医学校だ.南校では西洋の理学,人文学,法学が教えられ,東校では西洋医学が教えられていた.幕府の開成所では洋書の翻訳事業と日本人教師による洋学教育が行われていたのに対し,明治政府の開成学校ではフルベッキ(Guido Verbeck)が教頭に就任して,外国人教師から外国語によって洋学を学ぶ教育機関に変貌していた.なお,幕府の昌平黌(昌平坂学問所:跡地は湯島聖堂と東京医科歯科大学)をルーツとする大学本校では儒学が教えられていたが,東京大学に取り込まれることはなく1870年に廃止となり,儒学は1847年に光格天皇の構想によって京都御所内に設置された学習院に引き継がれた.国学と神道は幕末の京都に設置された皇学所(古代律令制のもとでの大学寮に替わる新たな組織)に引き継がれたが,明治維新で廃止となった.神仏習合を廃し廃仏毀釈への道を歩む神道国教化は既定路線で,1870年には大教宣布の詔が発布されていたのだから国学者には不満が残った.そこで1882年に明治政府は神職養成機関として皇典講究所を設置し,1890年に誕生した付属の國學院は1906年に私立國學院大學となった.皇學館は久邇宮朝彦親王が1882年に設置したもので,これは内務省管轄の官立学校(神宮皇學館)を経て皇學館大学となった.大学寮は唐の制度がもとになっている.日本の「大学」の名称は古代律令制の制度が王政復古によって復活したのだが,明治時代にリニューアルされた大学の実態はお雇い外国人教師から学ぶ洋語大学校だった.

文献
1. チャールズ・H.ハスキンズ,十二世紀ルネサンス,みすず書房 (1997).
2. ハンス=ヴェルナー・プラール,大学制度の社会史,法政大学出版局 (1988).
3. 児玉善仁,イタリアの中世大学,名古屋大学出版会 (2007).
4. クリストフ・シャルル,ジャック・ヴェルジェ,大学の歴史,白水社 (2009).   
5. 吉見俊哉,大学とは何か,岩波新書 (2011).
6. 和田正法,工部大学校と日本の工学形成,科学史研究,55 [278] 178-182 (2016).
7. 和田正法,工部大学校の終焉と帝国大学への移行をめぐる評価,科学史研究,57 [287] 186-200 (2018).
8. 例えば,(a) 小林正彬,日本の工業化と官業払下げ,経営史学,6 [1] 69-90 (1971).  
 (b) 小林正彬,日本の工業化と官業払下げ,東洋経済新報社 (1977).
9. 例えば,(a) 中山茂,帝国大学の誕生,中央公論社 (1978).
 (b) 天野郁夫,大学の誕生,中央公論新社 (2009).
 (c) 高橋誠,日本の大学の系譜,ジアース教育新社 (2015).
 (d) 天野郁夫,帝国大学,中央公論新社 (2017).

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