アカデミーの変遷と学問の自由
ピタゴラス教団を率いたピタゴラス,原子論のデモクリトス,そしてソクラテス,プラトン,アリストテレスなど古代ギリシャで活躍した多くの哲学者の名は知られているが,その思想の詳細には不明な部分が多い[1a, 1b].現存する資料が少なく,しかも多くは後世の人の記述だからだ.
このなかでソクラテスの思想についてはクセノポンとプラトンが書き残し,プラトンとアリストテレスの著作は現存するので比較的よく知られている.プラトンは紀元前387年ごろ,アテネの北西部(アカデメイア: Ακαδημίας)に学園を開設した.その場所は現在,公園(Plato's Academy Park)となっている[2].
ギリシャ時代のアカデミーの実態を汲み取れる資料は少ないが,奴隷制が発達していた時代だから市民の自由時間はたっぷりあり,思索に費やす時間に不足があったとは考えにくい.自然哲学と言っても,実験や観察によってデータ収集を行うのではないから,研究に高額な費用を必要とすることもなかっただろう[注1].想像するに,幕末の志士が集まった松下村塾や適塾のようなものだろうか.
いずれにしても,その後にギリシャの地が再び学問や技術の中心地に返り咲くことはなかった.古代ギリシャの哲学はローマからイスラム哲学へと引き継がれ,12世紀ルネサンスの時代に西欧に導入されてスコラ哲学へと進化した[3].スコラ哲学は西欧の中世の大学で行われた聖書やギリシャ哲学を論拠とする研究方法だ.中世の大学は法学,神学,医学の専門家養成機関だから,論拠を実験や観察に求めるような研究手法の発達は望めなかった.
私的交流会としてのアカデミー
時代は下ってルネサンスの頃のイタリアでの話だ.プラトン・アカデミー(Accademica Platonica)はプラトン研究の私的なサークルだった.コジモ・デ・メディチ(Cosimo de' Medici)の支援で,ギリシャ語文献をラテン語に翻訳するマルシリオ・フィチーノ(Marsilio Ficino)を中心とする活動が行われたのだ.1484年にはプラトン全集を翻訳して出版したが,コジモの孫のロレンツォ・デ・メディチ(Lorenzo de' Medici)の1492年の死とともに活動は不活発になった.
山猫学会(Accademia dei Lincei)は裕福な名門の子息フェデリコ・チェージ(Federico Angelo Cesi)が設立した科学アカデミーで,1611年にガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei)が会員となったが,1630年のチェージの死とともに活動は停滞した[4].実験のアカデミー(Accademia del Cimento)は1657年にメディチ家の庇護のもとで設立され,1667年に解散するまで気象観測やさまざまな実験が行われた[4].イタリアでは翻訳,実験,観察に経費を要する近代科学への脱皮が図られた時代に,パトロンの経済的援助による科学振興が進められたが,財政基盤が脆弱で組織は持続的ではなかったようだ.個人の資金力に依存する活動は資金供給が途絶えれば活動を停止する消費活動だからだ.
フランスでも学者が自由に研究に勤しんだのはアカデミーであり,スコラ哲学の牙城である大学ではなかった[5].マラン・メルセンヌ(Marin Mersenne)が1635年頃に創始したメルセンヌ・アカデミーは主として書簡の回し読みによって結ばれたネットワークだ.ホッブズ(Thomas Hobbes)やデカルト(René Descartes)らとの文通を通じた交流も行われ,私的な場で開かれた講演会や研究会が定期的に開催されるようになるとアカデミーと呼ばれるようになったのだ[注2].
1660年にロンドンで設立されたのは王立学会(The Royal Society of London for Improving Natural Knowledge)だ.会員の納める会費によって運営されることが特徴で,フック(Robert Hooke)やニュートン(Isaac Newton)が活躍し,光学や力学の発展に寄与した[注3].そしてバーミンガムには1766年ころから1800年ころまで月光協会(The Lunar Society of Birmingham)という私的な会合が開かれていた[注4].プリーストリー(Joseph Priestley)やワット(James Watt)も参加していた満月の夜の非公式の集会だ.
組織化されたアカデミー
1666年に創立されたフランス科学アカデミー(Académie des sciences)は国家事業だ.創設者はルイ14世で,アカデミー会員には22名が任命され,潤沢な基金のもとでの様々な実験プログラムが行われた.フランス人のデカルト,フェルマー(Pierre de Fermat),パスカル(Blaise Pascal)は既に世を去っていたので,ホイヘンス(Christiaan Huygens)をオランダから招聘した.そしてルイ15世の時代には,地球の形状を明らかするための調査隊を北極と赤道に送っている.この事業は1799年のメートル法制定に繋がったが,フランス科学アカデミーが実施した最も効果的な事業は発明への懸賞金だったろう[6].1775年の賞金は投資として功を奏し,ルブラン法によるソーダ工業の発展につながったからだ[注5].
ダランベール(Jean le Rond d'Alembert),ラグランジュ(Joseph-Louis Lagrange),ラヴォアジエ(Antoine-Laurent de Lavoisier),ラプラス(Pierre-Simon Laplace)らは18世紀のフランスの科学を支えたのだが,これらの人材を輩出したことが,国家の管理統制のもとで少数の会員に資金を提供する選択と集中による科学振興政策の成果かどうかは疑問だ.
捨て子だったダランベールは1743年の動力学論(Traité de Dynamique)で,ニュートンの運動方程式(動力学)を力のつり合い(静力学)に還元するアイデアを披露した.実母には捨てられたが,父親から養育費を送られてガラス職人の養父母のもとで成長し,1739年以降に科学アカデミーに多くの論文を提出して1742年に科学アカデミーの補助会員に選ばれた.フランス科学アカデミーの会員となったラヴォアジエも資産を十分に持っているにもかかわらず,徴税請負人の仕事から研究資金を得ていた.結局,フランス科学アカデミーの最も効果的な投資活動は,ルブラン法を生みだした発明への懸賞金だったようだ.競争原理による資金提供事業だが,国家がベンチャーキャピタルとして,有力な特許取得者にその事業化資金を提供して殖産興業を図ったのだ.
1725年にはサンクトペテルブルク科学アカデミーがピョートル大帝によって計画され,ダニエル・ベルヌーイ(Daniel Bernoulli)やオイラー(Leonhard Euler)らの外国人科学者が招聘されて会員となった[注6].後進国のロシアが西欧に科学技術や芸術の分野で追いつくための国外からのヘッドハンティングだ.明治政府のお雇い外国人に比べると,規模は遥かに小さいものの時期は100年以上早かった.19世紀になってサンクトペテルブルク大学からメンデレーエフ(Dmitrij Mendelejev)やパブロフ(Ivan Pavlov)が輩出したから,国外の科学者をヘッドハンティングしたことで一定の成果はあったのだろう.
ルイ15世の勅命によって,最古のグランゼコール(Grandes Écoles)である国立土木学校(École Nationale des Ponts et Chaussées 別名 École des Ponts ParisTech)が1747年に創設された.エコール・ポリテクニーク(École Polytechnique)は1794年の創設だ[注7].フランスが化学や数学などの分野で19世紀前半の科学の覇権を握ることになったのは,これらの卒業生の活躍による[4].
1799年には民間の寄付でロンドンに王立研究所(Royal Institution of Great Britain)が設置され,19世紀になるとボルタ電池を用いた研究が,デービー(Humphry Davy)やファラデー(Michael Faraday)によって進められた.イギリスでは18世紀から産業革命が始まって,製鉄技術,繊維機械,蒸気機関などの進歩が起こり,19世紀にもケルビン卿(William Thomson, Baron Kelvin)やマクスウェル(James Clerk Maxwell)による科学研究は世界をリードしていたが,次第に科学技術の中心はドイツとアメリカに移行した.
19世紀後半の科学の覇権はドイツが握った.1810年に創設されたベルリン大学の特色は,大学の自治と学問の自由が体現されたことだ[7a, 7b 7c, 7d, 7e].1825年になるとギーセン大学に化学実験室が設けられ,ドイツの重化学工業は発展を遂げることになった.
12世紀ルネサンスにおける知的活動は教会の外にできた大学で行われ,ルネサンスの時代には教会と大学の外にアカデミーを設置して学会活動が行われていたのだが,知的活動の場として出現したドイツの大学は従来の大学から袂を分かった新機軸だった.グランゼコールでは雇用されて勉学に励んだのだが,ベルリン大学の建学の精神は学問の自由なのだ.19世紀後半のドイツの科学と工業の隆盛はベルリン大学の建学の精神が寄与したようだ.
科学振興とアカデミー
富豪の財力に頼る科学振興は持続性に欠ける.個人の気まぐれに依存するからだ.国家事業としての科学振興はフランス革命のような体制崩壊が起これば存続が危ぶまれるが,個人の気まぐれよりは持続可能な方式だ.寄付や会員の納める会費による英国方式も19世紀半ばまでは機能したが,20世紀以降まで継続するものではなかった.
科学振興の社会的な位置づけは手段であるが,その適切な戦略は何だろうか[注8].少なくとも,フランス科学アカデミーが行った選択と集中方式とサンクトペテルブルク科学アカデミーが行った国外からのヘッドハンティングの効果は疑わしい.直接的な投資効果を狙ったにもかかわらず,殖産興業への波及効果が限定的だからだ.逆に,英国の民間科学団体である王立協会や王立研究所,そしてフランスのグランゼコールとドイツのベルリン大学などでの学校教育は科学振興のみならず産業発展にも波及した.目的を達成するための手段は,後付けで理由をこじつけることはできても,効果が確認される前に凡人に分かり易い説明をすることは困難だ.フランス科学アカデミーが行った発明への懸賞金も,少なくともソーダ工業に関しては効果的だったことには疑いはない.これらは自由な研究を推進することで,目的を達成するための手段としての機能を果たしたようだ.
長期的な戦略を策定するには,波及的展開を読むことが重要だ.素人が行う将棋では三手先まで読めればまずは合格だが,何らかの行動をするときにもそれに対する応答としての二手目を予測する能力は必須だ.行動への応答を予測し,応答の連鎖が好ましい結果に繋がる行動を選択することが賢い選択だからだ.軽薄な思い付きを実行して想定外の展開になったと言うのなら,二手目すら予測する能力に欠けた凡人以下の浅知恵か猿知恵のいずれかであったことに疑念はない.
[注1] 古代ギリシャの自然哲学において,理論は重視されたが実験は行われなかった.理論は観察と経験から導かれたのだ.しかし,16世紀の終わりごろから実験に近づく人々が現れ始め,17世紀になれば実験は珍しいものではなくなった.17世紀の代表的な実験家はトリチェリ(Evangelista Torricelli),パスカル,ニュートンだ.なお,ガリレイが実際に実験を行ったかについては疑問がある.具体的な実験の結果を記述していないからだ[4].
[注2] メルセンヌ・アカデミーでは,エティエンヌ(Étienne Pascal)およびブレーズ・パスカル父子とは対面での交流,ホッブズ,デカルト,フェルマー,トリチェリ,ホイヘンスなどとは書簡での交流があった.自由な研究活動の系譜はメルセンヌ・アカデミーからモンモール・アカデミーに引き継がれ,フランス科学アカデミーの発足に至ったとされる.当時の大学のような公的学問機関はスコラ学派の牙城であったから自由な研究は困難で,アカデミーの活動では検閲を逃れるために地下写本が流通し,人目を忍ぶ会合のためにキャバレーが利用された.
[注3] イギリスの科学研究は富裕層の道楽として始まった.ボイル(Robert Boyle)やキャベンディッシュ(Henry Cavendish)には財産があり,ニュートンやデービーらが研究資金の工面に苦労することもなかったようだ.フックはボイルに,ファラデーはデービーによって見いだされてチャンスを掴んだ.他方,フランスでの科学研究には趣味の側面があった.フェルマーは法律家が本業だ.ラヴォアジエは十分な財産がありながら科学研究に費やす時間を自ら制限し,徴税請負人として勤労に励み断頭台の露と消えたのだ.いずれにしても,この時代の科学研究は生計を立てる職業として目指すべき対象ではなかった.
[注4] 月光協会は金属工場主のボールトン(Matthew Boulton)と医者のエラズマス・ダーウィン(Erasmus Darwin)の交友から生まれた私的な会合で,会員たちは満月の夜に集会を開いていた.酸素を発見した牧師のプリーストリー(Joseph Priestley),蒸気機関のワット(James Watt),陶芸家のジョサイア・ウェッジウッド(Josiah Wedgwood)ら少なくとも14名が参加していた.ボールトンは1775年に結成されたボールトン・アンド・ワット商会の共同経営者,空気の断熱膨張を発見したエラズマス・ダーウィンとジョサイア・ウェッジウッドは共にチャールズ・ダーウィン(Charles Darwin)の祖父だ.
[注5] 1775年にフランス科学アカデミーは食塩からソーダを得る方法の発明に12,000フランの賞金をかけた[6].ルブラン(Nicolas Leblanc)が1789年に成功させた方法は,食塩と硫酸から硫酸ソーダを製造し,それを木炭と石灰とともに加熱して炭酸ソーダとする方法だ.ルブランのソーダ工場はフランス革命の最中に没収され,ルブランは1806年に自殺した.それにもかかわらずルブラン法によるソーダ工業は発展したので,その副産物の塩化水素,硫化水素や亜硫酸ガスの放出による公害が問題となった.アンモニア・ソーダ法に移行したのはベルギーのソルヴェー(Ernest Solvay)が1861年に特許を取得して工業化に成功したからだが,基礎となる化学反応は1811年にエコール・ポリテクニークの卒業生のフレネル(Augustin Fresnel)が成し遂げたものだった.なお,フレネルは光の波動説を唱えたことで知られている.
[注6] スイス・バーゼル出身のダニエル・ベルヌーイは科学の道を歩むため,1725年にサンクトペテルブルクの科学アカデミーに赴任したが,1734年にポストを得てバーゼル大学に戻った.スイス・バーゼル出身のオイラーは数学の道を歩むため,1727年にサンクトペテルブルクに赴任,1741年にはベルリン・アカデミーの会員となってドイツに転勤,1766年には再びサンクトペテルブルクに戻って1783年に没した.18世紀は財産や本業がなくても,科学の道を歩むことが可能となる過渡期だった.スイスは傭兵部隊の輸出だけでなく,科学者も輸出していたのだった.
[注7] エコール・ポリテクニークのようなグランゼコールは大学ではない.学生は入学時に少尉に任官され,給与が支給されて軍事教練を受けながら勉学に励むのだ.防衛大学校,防衛医科大学校,気象大学校,海上保安大学校および航空保安大学校は日本のグランゼコールに相当する.採用試験によって入学し,在学中は給与が支給され,卒業すれば業務に励むのだ.19世紀前半のフランスの科学を発展させたのは,エコール・ポリテクニークの卒業生のゲイリュサック(Joseph Louis Gay-Lussac),サディ・カルノー(Nicolas Léonard Sadi Carnot),フレネル(Augustin Jean Fresnel),ポアソン(Siméon Denis Poisson),コーシー(Augustin Louis Cauchy),および高等師範学校の卒業生のフーリエ(Joseph Fourier),ガロア(Évariste Galois)らだ.そして19世紀のフランスでは銀塩写真(ダゲレオタイプ)や内燃機関(ルノアール・エンジン)の技術が進歩した.
[注8] 目的を達成するための手段は必ずしも明確ではない.プリンストン高等研究所の初代所長のフレクスナ―(Abraham Flexner)が1939年に発表したエッセイの題名は「役に立たない知識の有用性(The Usefulness of Useless Knowledge)」だ[8].フレクスナ―は目的を意図しない好奇心を満たそうとする研究が実務的問題を解決する有用な技術を生みだした例を挙げて,精神と知性の自由の重要性を指摘している.
文献
1. 例えば,(a) ディオゲネス・ラエルティオス,ギリシア哲学者列伝,岩波書店 (1984).
(b) 湯浅赳男,面白いほどよくわかる哲学・思想のすべて,日本文芸社 (2008).
2. Plato's Academy Centre:https://platosacademy.org/history/
3. チャールズ・H.ハスキンズ,十二世紀ルネサンス,みすず書房 (1997).
4. 広重徹,物理学史Ⅰ,培風館 (1968).
5. 筒井一穂,近世ヨーロッパにおける学問の公共性 その一事例としてのメルセンヌ・アカデミーと彼の思想,人文×社会,1 [1] 431-450 (2021).
6. 加藤邦興,化学の技術史,オーム社 (1980).
7. 例えば,(a) 椎名万吉,創立期におけるベルリン大学の制度的諸側面 その大学自治を中心とした歴史的考察,教育学研究,29 [1] 63-68 (1962).
(b) ハンス=ヴェルナー・プラール,大学制度の社会史,法政大学出版局 (1988).
(c) 河野眞,ドイツにおける近代的大学の成立 ベルリン大学をめぐって,愛知大学史研究,[2] 47-52 (2008).
(d) クリストフ・シャルル,ジャック・ヴェルジェ,大学の歴史,白水社 (2009).
(e) 吉見俊哉,大学とは何か,岩波新書 (2011).
8. エイブラハム・フレクスナー,ロベルト・ダイクラーフ,「役に立たない」科学が役に立つ,東京大学出版会 (2020).