窯業の時代を回顧する

日本セラミックス協会の始まりは1891年に設立された窯工会だ.翌1892年には大日本窯業協会に名称変更され,1893年には代表者として品川弥二郎が初代会頭に就任した[1].品川弥二郎が死去した1900年には榎本武揚が第2代目の会頭に就任,1909年には榎本武揚の死去に伴い金子堅太郎が第3代会頭となって死去する1942年まで務めた.会頭はいずれも政治家だ.

大日本窯業協會雑誌の最初のページには設立の主意書が掲載されている[2].そこには大日本窯業協会の前身となる窯工会は窯業知識と技術の発達によって産業の発展を図るために設けたもので,そのためには学術と実業の連携が重要だから同業者間の交流推進を図る以外の良策はないと述べられている[注1].研究者と企業の交流を通じて産業導入と技術発展を目指すものだが,実際にはこの交流の部分については後述するように窯業同窓会が補完する役割を果たしていたように思われる.

1927年に社団法人として認可されると,大日本窯業協会の代表者は理事長となった.その後,1944年からは代表者が会長となって現在まで続いている.1946年には大日本窯業協会から窯業協会への名称変更があり,1987年には日本セラミックス協会に名称変更された.表1表2に示すように,初期の理事長・会長の所属は会社が主だったが,時代が下るにつれて大学も増えてきた[注2].

表1.大日本窯業協会の歴代代表者*

就任年 氏 名 所 属 備考(本会との関係)
1927石川久羅四郎東京電気(株)東京高等工業学校窯業科卒
1928大野 政吉旭硝子(株)東京高等工業学校窯業科卒
1930倉田 昌侾三保舎東京高等工業学校窯業科卒
1932阿部 謹爾日本煉瓦製造(株)東京高等工業学校窯業科卒
1934梅田音五郎南満鉱業(株)東京工業学校陶器玻璃工科卒
1936熊沢治郎吉東京工業試験所東京工業学校窯業科卒
1938山田清太郎陶磁器卸商 
1940近藤 清治東京工業大学本会会員(6月25日に急逝)
1940黒田 泰造八幡製鉄所本会会員
1944黒田 泰造八幡製鉄所本会会員
1945山内 俊吉東京工業大学東京高等工業学校窯業科卒
*代表者は理事長.ただし,1944年以降の代表者は会長.

表2.窯業協会の歴代会長

就任年 氏 名 所 属 備考(本会との関係)
1947山内 俊吉東京工業大学東京高等工業学校窯業科卒
1948末野 悌六大東製作所本会会員
1949山内 俊吉東京工業大学東京高等工業学校窯業科卒
1950徳根 吉郎日本セメント(株) 
1951中村 能一旭硝子(株)本会会員
1952永井彰一郎東京大学 
1954安藤 豊禄小野田セメント(株) 
1955森谷 太郎東京工業大学東京工業大学窯業学科卒
1956江副孫右衛門東洋陶器(株)東京高等工業学校窯業科卒
1958河嶋 千尋東京工業大学本会会員
1959久保 季吉日本板硝子(株)東京高等工業学校窯業科卒
1960大野 政吉旭硝子(株)東京高等工業学校窯業科卒
1964山内 俊吉東京工業大学東京高等工業学校窯業科卒
1966森谷 太郎東京理科大学東京工業大学窯業学科卒
1967秋吉  致東洋陶器(株) 
1969倉田 元治旭硝子(株)東京高等工業学校窯業科卒
1977田賀井秀夫東京工業大学東京工業大学窯業学科卒
1979大友 恒夫秩父セメント(株) 
1980素木 洋一東京工業大学東京工業大学窯業学科卒
1983田端 精一佐々木硝子(株)東京工業大学窯業学科卒
1985齋藤 進六長岡技術科学大学本会会員

特筆すべきは代表者の多くは本会会員であることだ.大日本窯業協会の理事長を務めた9名中8名が本会会員で6名は卒業生だ.大日本窯業協会および窯業協会の会長の多くもそうだ.延23名中,18名は本会会員で13名は卒業生だ.1944年から1986年までの43年間のなかで36年間は本会会員が会長を務めているのだ.この理由は創設の経緯に関係する.

1928年から1930年にかけて掲載された6編の窯業協会四十年史[3, 4, 5, 6, 7, 8]によれば,窯工会は東京工業学校陶器玻璃工科の関係者が1888年に設立したもので,会誌を1891年12月から1992年6月までに4回発行した.そして大日本窯業協会の会誌第1号が発行されたのは1892年9月であり,会の活動は1893年に品川弥二郎子爵が会頭に就任してから盛んになったと記されている.

創立70周年を迎えた1961年には歴代会長10名の寄稿文が窯業協会誌に掲載されている[9].1945年から1947年及び1949年に会長を務めた山内俊吉の思い出によれば,1945年5月25日に空襲で銀座商館にあった窯業協会の事務所は焼失し,その地下室に保管していた重要書類も焼けてしまった.そこで仮事務所を東京工業大学窯業学科内に設けて再建を図ったとされる.仮事務所からの移転に際しては,旭硝子の支援が極めて大きかった.事務所はいくつか転々とした後,中村能一会長の追想によれば,窯業連盟の事務所を窯業協会に譲る話が1952年に持ち上がり,それが現在の事務所となったとされる.そして1961年の創立70周年事業として新窯業会館が建設され,その資金は募金によって賄われたとされる.

他方,無機材会は蔵前東京高工窯業科の同窓親睦の会として発足した同窓会を母体として発展してきた.したがって,始まりは東京高等工業学校になった1901年以降のことのようだが,戦時中に活動を中断したためだろうか,それ以前の活動内容は今となっては確認困難だ.活動を再開したのは1947年からで,それ以降の会報は電子データに変換して本ホームページに掲載されている[注3].さらに「東京工業大学無機材料分野同窓会の活動記録集 : 1948年~2022年」として書籍にもまとめてあるから,本学図書館での閲覧も可能だ.表3には1999年までの窯業同窓会の歴代会長を示す.就任期間の長い会長が多く,第6代は17年,第7代は7年,第10代は8年,第11代は5年だ.いずれも窯業協会の会長にも就任している.

表3.窯業同窓会の歴代会長(1999年までを記載)

  氏 名 備 考
初 代倉田昌僑幹事長*
第2代八代 保幹事長*
第3代飯塚誠厚1947年会長*
第4代石井 喬1948年会長*
第5代若林 滋1951年会長*
第6代大野政吉1954~1970
第7代山内俊吉1971~1977
第8代森谷太郎1978~1980
第9代中山一郎1981~1984
第10代田賀井秀夫1985~1992
第11代素木洋一1993~1997
第12代境野照雄1998~1999
*第5代会長までの就任期間は総会の記録が残っておらず未確認だ.そのため会員名簿に記載されている内容を転記するに留めた.
総会記録が残されているのは,1954年の同窓会会誌の創刊以降だ.

窯業協会が学会ではなく協会としたのは,産業発展に資することが最大の目的だからだと聞いたことがある.窯業同窓会については聞いたことはないが,会報を読む限り,互いの親睦を通じて産学連携のみならず産業間の結びつきも強固なものにしていたようだ.窯業協会が産業振興を目的とする産学連携の場とすれば,窯業同窓会はネットワークを構築する親睦の場として機能していたようだ.親睦と産業発展が結びついていることは,無機材会の定款の第3条にその名残が見られる.「本会は会員相互の親睦を図り・・・無機系工業材料関係の学会・産業界の向上発展を期することを目的とする」と書かれているからだ.

この母校と卒業生を軸とした堅い結びつきに次第にほころびが見られたのは1970年代半ば以降のように思う.日本の窯業技術が世界のトップレベルに到達した時期に,空前のファインセラミックスブームが訪れて,窯業分野に他分野からの参入者が押し寄せたのだ.構造用セラミックスに始まり,超伝導セラミックスもそれに加わった.DLC(Diamond Like Carbon)やフラーレンも無機材料の範疇だ.明治の殖産興業の時代から近代化に取り組んできたセメント,板ガラス,耐火物,洋食器に加え,20世紀初頭からの電気と自動車技術の発展に伴う送電用碍子や点火栓碍子(アルミナ磁器),そしてサーミスタ,セラミックコンデンサなどの電子部品やナトリウムランプ用の透光性アルミナなどが戦後に加わって拡大してきた窯業の分野がさらに範疇を拡大した時期だったのだ.これで母校とその卒業生が親睦を図りながら,業界発展に資するビジネスモデルはほぼ破綻してしまい,母校が産業界でリーダーシップを発揮する場面も1990年代以降になれば次第に少なくなり,窯業同窓会の影響力もほぼ雲散霧消してしまったかのようにみえた時代だった.

明治維新以降に殖産興業を通じた富国強兵によって黒船来航に対抗してきた政策は,太平洋戦争の結果によって変更を余儀なくされた.そして,エズラ・ヴォーゲルが戦後の日本経済の高度成長をジャパンアズナンバーワン(Japan as Number One: Lessons for America)と評した著書[10]を出版した1979年頃にも政策変更を余儀なくされる時代が訪れていたのだ.産業界を指導する能力を失ったから,学術活動に注力すると言うのならば本末転倒だが,日本の産業技術水準が高まれば,海外の先進的な技術情報を国内企業に提供する役割の重要性が下がるのはその成り行きだ.

これからの同窓会,学会,大学の役割は何だろう.急速な変化には対応を迫られる必要性を理解しやすいが,変化が緩やかならば対応を先送りすることが有力な選択肢となるから,気の付いたときには既に茹でガエルになってしまっていて対応不能にもなりかねない.無用の用にも説明責任が要求される時代なのだ.

[注1] 学術と実業の連携が特に重要だった分野は板ガラスの製造技術だったと思われる.1905年に開発されたラバース式機械吹き円筒法,1910年代に開発された引き上げ法(フルコース式とコルバーン式),そして1959年に開発されたフロート法の技術導入があったからだ.日本の板ガラス製造業ではこれらの海外の進んだ技術を次々と導入して,それを実用化することが社運を賭けた事業の時代だったから,学術との連携は価値があったように推察される.しかし,1970年代になると技術導入はほぼ完了して,日本の窯業技術は世界のトップレベルに躍り出たので,それ以降の産学連携の価値が低下することはやむを得ない.20世紀に新たなタイプが登場した耐火物についても学術と実業の連携は重要だったろう.高アルミナレンガ,クロマグレンガおよび電鋳レンガは20世紀前半に広く使用されるようになって欧米に追いつく寸前だったが,我が国の耐火物技術は大戦によって停滞し,その格差を埋めるべく戦後の技術導入によって再出発したからだ[11].

[注2] 梅田音五郎は「ワグネル先生追懐集(1938)」の編者,熊沢治郎吉は施釉精炻器の創始者だ.江副孫右衛門は1936年に日本特殊陶業の社長,1939年に日本碍子社長,1947年に有田町町長を経て,1949年に東洋陶器の社長を務めた.旭硝子の第3代社長は大野政吉,第10代社長が倉田元治だ.山内俊吉と齋藤進六は本学の学長を務めた.

[注3] 窯業同窓会会報には雑多な情報が織り込まれている.例えば,「混乱した戦後なるべく早く同窓各位の住居を探して名簿を発行したこと」を本会の行った第1の事業であると,1954年の同窓会会誌創刊号に大野政吉会長は書いている.ロシアによるウクライナ侵攻ではウクライナ人の国外退避(侵略者のロシア人にも多くの国外脱出者がでた)があったが,アメリカ軍の空襲に脅える当時の日本人には国外退避の選択肢はなかったのだ.1956年の第3号には黒田泰造と近藤清治が三高と東大応化で同期だったことも記されている.近藤清治が急死したので,大日本窯業協会の理事長を黒田泰造が引き継いだのは同期の誼みだったのかもしれない.なお,黒田式コークス炉を考案した黒田泰造は,その副産物を回収して石炭化学工業の分野を開拓したが,スラグを鉱滓煉瓦や高炉セメントへと有効活用したことでも知られている[12a, 12b, 12c].1958年の第5号には窯業研究所の設立に際して,窯業界の会社から総額50万円の資金援助を受けたことも記されている.これで400坪の建物と設備を賄う予定だったが,戦時中で建物の建設許可が下りず終戦となった.そこで貨幣価値は下落したものの設備に一部使った残金40余万円を工業材料研究所の後援会に移したことも書かれている.当時は,旧建築材料研究所の建物を中心とする工業材料研究所の設置が計画されていて,実際に1958年には窯業研究所と統合されて工業材料研究所が設置されたのだ.

文献
1. 日本セラミックス協会 歴代代表者:https://www.ceramic.or.jp/csj/gaiyo/rekidai-daihyousya.pdf
2. 大日本窯業協會主意書,大日本窯業協會雑誌,1 [1] 1-2 (1892).
3. 瀧王子,窯業協會四十年史,大日本窯業協會雑誌,36 [426] 284-290 (1928). 
4. 瀧王子,窯業協會四十年史(承前),大日本窯業協會雑誌,36 [427] 339-345 (1928).
5. 瀧王子,窯業協會四十年史(承前),大日本窯業協會雑誌,36 [428] 396-414 (1928).
6. 瀧王子,窯業協會四十年史(承前),大日本窯業協會雑誌,36 [429] 458-467 (1928).
7. 瀧王子,窯業協會四十年史(承前),大日本窯業協會雑誌,36 [430] 498-509 (1928).
8. 瀧王子,窯業協會四十年史(承前),大日本窯業協會雑誌,38 [450] 357-362 (1930).
9. 大野政吉, 黒田泰造, 山内俊吉, 末野悌六, 中村能一, 永井彰一郎, 安藤豊祿, 森谷太郎, 江副孫右衛門, 河嶋千尋, 久保季吉,創立70周年を迎えて,窯業協會誌,69 [790] C345-C356 (1961). 
10. エズラ・F・ヴォーゲル,ジャパンアズナンバーワン アメリカへの教訓,TBSブリタニカ (1979).
11. 杉田清,製銑・製鋼用耐火物,地人書館 (1995).
12. 例えば (a) 飯田賢一,人物・鉄鋼技術史,日刊工業新聞社 (1987).
 (b) 飯田賢一,日本鉄鋼技術の恩人たち―初代会長野呂景義博士につらなる人びと,鉄と鋼,73 [7] 751-760 (1987).
 (c) 黒田 泰造,黒田式コークス爐の生い立ちより,燃料協会誌,27 [11-12] 165-166 (1948).

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