熱素説と光の粒子説の興亡を振り返る

熱は物体間を移動して,物体の温度を変化させる.物体の温度が変化すれば物体は熱膨張を示す[注1].熱膨張は温度の尺度として利用される.寒暖計はその応用だ.寒暖計で温度を測定するためには温度目盛りを設定する必要がある[1].

1714年にアルコール温度計を,1724年に水銀温度計を作ったファーレンハイト(Daniel Gabriel Fahrenheit)はこの世の寒さの最低温度を0℉,発熱時の体温を100℉とする華氏温度目盛りを1724年に提唱した[1, 2].華氏32度は摂氏0度だ.摂氏はセルシウス(Anders Celsius)が1742年に提唱したことに由来する.絶対温度は到達可能な温度の下限値を絶対零度とするもので,その単位は1848年に絶対温度目盛りを提唱したケルビン卿として知られるウィリアム・トムソン(William Thomson,Baron Kelvin)に因んだものだ.0℃は273.15 Kだ.

熱の移動によって温度が変化することを解釈するのに熱容量(比熱)の概念は有用だ.物体間を移動する熱量が同じでも,温度変化は物質によって異なるからだ.しかも熱が移動すれば必ずしも温度が変化するとは限らない.融解や蒸発などの相変化が起きているときには温度は変化せず一定に保たれるからだ.

潜熱という概念はブラック(Joseph Black)が1750年に持ち込んだものだ.他方,潜熱を利用すれば熱量の測定も可能となる.氷の融解した量で熱量を計測するのだ.この原理に基づく氷熱量計は1782年から1783年にかけての冬の間に,近代化学の父と称される徴税請負人ラヴォアジェ(Antoine Lavoisier)とラプラス変換とラプラスの悪魔にその名を残した若き日のラプラス(Pierre-Simon Laplace)との協力によって開発された.

熱の移動によって温度変化や相転移が起こることを理解するのに熱素説(Caloric Theory)は適していた.物体間を移動して温度変化や相変化を起こす熱素の総量を一定とする熱量保存則は自明のように見えた.1789年にラヴォアジェが作成した33の元素からなる元素表には,酸素や窒素や水素に加えて光と熱素が含まれ,熱素の蓄積によって固体が液体に,そして気体になると説明されている[注2].

他方,ランフォード伯ベンジャミン・トンプソン(Benjamin Thompson, Count Rumford)が1798年に指摘したように,摩擦によって熱が発生することや熱機関によって熱から動力が生み出されることは,熱が力学的仕事と相互に変換可能であることを示唆するものだ.なお,ランフォード伯が熱の運動説を主張しても賛同者は少数派に留まっていた.1830年代まで熱素説が支配的な理論であり続けたのは,原子・分子の概念の確立なしに,熱の運動説を受け入れることは難しかったためらしい.断熱圧縮や摩擦によって熱は発生したのではなく,潜熱が解放されたのだとする熱素説による説明は,ニュートンの分子間斥力による静的気体像とともに当時の科学界の主流だった.

熱の運動説が完全に熱素説を葬り去るのはジュール(James Prescott Joule)が熱の仕事当量をさまざまな実験によって測定し[注3],クレーニヒ(August Karl Krönig),クラウジウス(Rudolf Julius Emmanuel Clausius),マクスウェル(James Clerk Maxwell)らの解析によって気体分子運動論[3a, 3b, 3c, 3d]が受け入れられる時代まで待たねばならなかった[注4].

光の基本的な性質は古くから知られていた.光線が直進し,鏡で反射し,水中に入射した光は屈折して進行方向を変化させる性質だ.この性質は幾何光学としてまとめられたが[注5],光の本性についての理解が進むのはその後の時代だった.

1690年にホイヘンス(Christiaan Huygens)の原理が発表され,光の屈折や回折現象を光の波動説によって説明したが,ニュートン(Isaac Newton)が光の直進性を根拠に光の粒子説を唱えたため2つの説は対立することになる.光の直進性や反射は粒子説に都合が良いが,屈折や回折の説明に粒子説は苦慮した.方解石を通過した光線が複屈折によって分裂することやニュートン環(Newton's Rings)のような干渉縞の形成を粒子説によって説明することは困難で,ホイヘンスの原理は反射や回折や屈折をうまく説明できるから光の波動説は有力な仮説であった.しかし,当時の粒子説は揺らぐことはなかった.ニュートンの権威があったからだ.

他方,光の波動説の問題点は波動が伝搬する媒質だ,ホイヘンスが考えたように,宇宙に満ちている流体状のエーテルの中を伝わる振動とすれば光を横波と考えるのは困難であり(横波が伝播する媒質は十分に堅くなければならないと考えられていた),エーテルが物質と何の相互作用を起こさないことも奇妙と思われた.

ヤング(Thomas Young)は1805年頃に2つのスリットを通す光の干渉実験を行って干渉縞を生じることを示し,1818年になるとフレネル(Augustin Fresnel)が偏光の研究を行って光の振動方向は進行方向に対して垂直な横波であると報告した.そして,1865年にはマクスウェル方程式によって光が電磁波の一種であることが示されると光の波動説は確実なものとなったが,光が伝搬する媒質としてエーテルが実在するものだとも信じられていた.これで光の波動説は完全に確立されたように見えたが,1887年に行われたマイケルソン・モーリーの実験(Michelson-Morley Experiment)をエーテル説で説明するには奇妙な仮説を導入せねばならず,1905年の光電効果の新解釈によって光の粒子説は蘇ることになる.

地球は赤道の位置で秒速0.466kmの速度で自転し,太陽の周りをおよそ秒速30kmで公転している.太陽も銀河系の中で運動し,銀河系も宇宙のなかを運動している.したがって,宇宙の重心に固定された座標系がニュートンの第一法則の成り立つ慣性系であり,地球表面の座標系は宇宙の慣性系に対して,近似的には等速直線運動,厳密には加速度運動をしているのだ.すなわち,地上の観測者はエーテルに対して高速で運動していると考えられるから,地上で光の速度を測定すればエーテルに対する運動によって影響を受けるはずで,光の速度は測定する方角によって異なる値が測定されるものと予想されていた.

マイケルソン・モーリーの実験は,エーテルに対する地球の移動速度を測定しようとするものだった.ハーフミラーを用いて直交する二つの経路を光が進むのに要する時間差を装置の方向を変えながら測定したのだ.光の経路の方位を変えるため装置を回転してその時間差を測定し,季節ごとの変動を調べる実験もその後も繰り返されたが,エーテルの存在を示唆する結果は得られず,測定された光の速度は常に一定だった. 宇宙の重心に対して地球は静止しているとも解釈されるこの奇妙な実験結果を説明するための仮説が,ローレンツ・フィッツジェラルド収縮(Lorentz–FitzGerald Contraction)だ.エーテル中を移動する物体は,エーテルに対する運動の向きに沿って縮むという仮説だ.

ローレンツ変換(Lorentz Transformation)を使うと,静止系に対し一定速度で運動をしている慣性系から見た電磁気の基礎方程式が不変となる利点がある.力学では自明と思われていたガリレオ変換を電磁気学に適用するときに発生した不具合がローレンツ変換では解消されるのだ.しかし,このローレンツ変換を力学に適用すると奇妙な結論が導き出される.マイケルソン・モーリーの実験結果を説明するには好都合だが,エーテル中を移動する物体の長さが収縮するだけでなく,エーテル中を移動する物体では時間の進みが遅れることもその帰結となる.運動量保存則を満足するように質量を定義し直せば,エーテル中を移動する物体の質量が大きくなることもローレンツ変換の帰結だ.

1905年に発表されたアインシュタイン(Albert Einstein)の特殊相対性理論はローレンツ変換に新たな意味を与えた[4a, 4b, 4c, 4d].物理法則に関してすべての慣性系は対等であることと光速度不変の原理を基本原理として,エーテルの存在を否定し,ローレンツ変換を慣性系間の一般化された座標変換と捉えたのだ.そして,ローレンツ変換によって移動する物体の質量が大きくなることを取り込んで運動エネルギーを計算すると,質量とエネルギーが等価であるとの驚くべき結論にも達したのだった[注6].

ニュートンの光の粒子説はマクスウェルらによって葬られ,エーテルの存在はアインシュタインによって否定されたが,光の粒子説はアインシュタインによって復活した.プランク定数の概念を取り込んだ光量子仮説で光電効果を説明したのだ.プランク定数は黒体放射のエネルギー分布を説明するために,プランク(Max Planck)が便宜的に持ち込んだ仮説だったが,アインシュタインは基本的な物理定数と捉えた.その後,光の粒子性は1923年に報告されたコンプトン効果の発見によって揺るぎないものとなった.

光の粒子説は光電効果を説明するために導入された光量子(フォトン)として蘇ったが,熱素説の名称は蘇らなかった.低温比熱の異常を説明するためにアインシュタインは固体の熱振動を量子化した音量子(フォノン)を1906年に導入したが,フォノンが熱素と呼ばれたことはまだない[注7].

偽りのない実験や観察データが後の時代の科学によって否定されることはありえないが,その解釈については未来永劫とは限らない.過去の科学では認められていた理論がその後の科学の進歩によって覆されることもあったのだから,現在の科学で肯定されている理論もいつしか否定される未来が訪れることも想定しなければならない.理論的に正しいとされるものは理論的に怪しいのだ.科学における真理は永遠に未完成だからだ.

[注1] 固体の熱膨張率は温度変化に対する寸法の変化率で表される.例えば炭素鋼の線熱膨張率は室温で温度が1℃変化したときの寸法の変化率から10.8×10-6となる.ケイ素は2.4×10-6,水銀は60×10-6であり,固体の線熱膨張率は概ね1~100×10-6の範囲にある.体積熱膨張率は線熱膨張率の3倍と近似できるから,概ね3~300×10-6の範囲だ.液体の熱膨張率も固体と大差ないが,気体では遥かに大きな熱膨張を起こす.理想気体の体積熱膨張率は1/Tで与えられ,0℃における理想気体の体積熱膨張率は1/273.15 = 3661×10-6になる.

[注2] 近代化学はラヴォアジェが化学原論(Traité Élémentaire de Chimie)を1789年に出版してから始まったとされる.ラヴォアジェは化学反応の前後では質量が変化しないという質量保存の法則を1774年頃に発見していたが,その後,1799年にプルースト(Joseph Proust)によって発表された定比例の法則,1802年にドルトン(John Dalton)によって発見された倍数比例の法則,そして1808年にゲイリュサック(Joseph Louis Gay-Lussac)によって発表された気体反応の法則などによって化学は体系を整えてきた.その後,ドルトンの原子論は1811年にアボガドロ(Amedeo Avogadro)の分子論に発展し,分子・原子の概念をもとに物質・化学の理解が進んだ.

[注3] ジュールは1843年に,重力によって落下する錘の力で電磁石のコイルを回転させ,誘導電流による発熱量を測定することで熱の仕事当量を求めた.ジュールは他にもさまざまな方法で熱の仕事当量を測定した.1845年には錘の落下を動力源として水中の羽根車を回し,その運動による水の温度上昇を測定した.いずれにしても,位置エネルギーが変換されて発生した熱量を測定している.なお,マイヤー(Julius Robert von Mayer)はジュールに先立つ1842年に,空気の定圧比熱と定積比熱の差から熱の仕事当量を算出しているが,この論文もジュールの論文と同様にまったく注目されることはなかった.ジュールの功績が認められるようになったのは,1847年にウィリアム・トムソンがジュールの研究に注目してからだ.そして,1847年にはヘルムホルツ(Hermann Ludwig Ferdinand von Helmholtz)がエネルギー保存則を提唱した.これは後に熱力学第一法則として認められるようになるのだが,ヘルムホルツは力学エネルギーと熱エネルギーだけでなく,電池内の化学変化(化学エネルギー)を含む電気エネルギーや磁気エネルギーを含めたさまざまなエネルギーが相互に変換され,その総和が保存されるという理論を展開したのだ.

[注4] ダニエル・ベルヌーイ(Daniel Bernoulli)は1738年に出版した流体力学(Hydrodynamica)のなかで気体分子運動論に言及したが,その後100年間忘れられていた.1821年にジョン・ヘラパス(John Herapath),1845年にジョン・ジェームズ・ウォーターストン(John James Waterston),1851年にジュールが発表した気体分子運動論も完全に無視された.この風向きが変わったのは,権威あるクレーニッヒが執筆した1856年の論文からだ.そして1857年にクラウジウスは分子が内部自由度を持つことに言及し,平均自由行程の概念を導入した.次いでマクスウェルが気体分子運動論に取り込んだのは気体分子の速度分布だった.

[注5] 幾何光学では光の直進性,反射の法則(鏡面反射において入射角と反射角は等しい),および屈折におけるスネルの法則が元になっている.この3つの法則を1つの原理で説明するものがフェルマーの原理だ.これは「光は最短時間で進むことのできる軌道をとる」というものだ.この原理を拡張解釈して力学に応用したものがダランベールの変分原理で,その思想の発展がラグランジュ方程式だ.なお,スネルの法則はスネル(Willebrord Snell)が1621年に発見した法則で,入射角と屈折角の関係を屈折率によって説明するものだ.ホイヘンスの原理によって,屈折率が波の伝播速度と関係づけられると,屈折率は異なる媒質を伝播する波動の伝播速度の比として再定義された.

[注6] 移動する物体の質量mは,静止質量m0より大きい.特殊相対性理論によれば,運動エネルギーKは質量増加に比例し,K = (m – m0)c2で表される.ここでcは光の速度だ.静止しているときの全エネルギーを E0 = m0c2とすれば,移動する物体の全エネルギーは E = mc2で与えられる.力学にローレンツ変換を適用して得られた結果は一見奇妙だが,慣性系間の座標変換にローレンツ変換を採用すれば,力学と電磁気学のいずれもがその座標変換によって不変の形式となる利点がある.質量とエネルギーの等価性は核兵器や原子力発電の開発指針となった.核分裂や核融合反応では質量の一部が失われ,対消滅では質量の全部が失われる.

[注7] デュロン・プティの法則によれば格子比熱は温度に依存せず一定となるはずだが,実測データには温度依存性が見られる.低温に向かって比熱は急速に低下し,極低温では比熱が絶対温度の3乗に比例することが見いだされたのだ.アインシュタイン模型では格子比熱が絶対零度に向かって低下することが示され,これを改善したデバイ模型では極低温での比熱が絶対温度の3乗に比例する挙動が再現された.

文献
1. 高田誠二,温度概念と温度計の歴史,熱測定 32 [4] 162-168 (2005).
2. 高林武彦,熱学史(第2版),海鳴社 (1999).
3. 例えば,(a) 広重徹,物理学史Ⅰ,培風館 (1968).
 (b) 妹尾学,気体の圧力と熱分子運動,化学と教育,42 [5] 334-337 (1994).
 (c) 山本義隆,熱学思想の史的展開 熱とエントロピー,現代数学社 (1987).
 (d) 分子運動論の歴史・古典理論: http://www.shonan-rikogaku.com/A-thermo/thermo5.html
4. 例えば (a) 内山龍雄,相対性理論入門,岩波新書 (1978).
 (b) アインシュタイン,相対論の意味,岩波文庫 (2015).
 (c) 湯川秀樹監修,アインシュタイン選集1(特殊相対性理論・量子論・ブラウン運動),共立出版 (1971). 
 (d) 中野董夫,相対性理論,岩波書店 (1984).

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