徳丸原の高島秋帆

火器は火薬の爆発力で弾丸を発射する装置だ.種子島に伝わった火縄銃は,銃身の後端に尾栓をねじ込んで一端を封じた金属の筒(銃腔)に火薬(玉薬)と弾丸(鉛の玉)を開口部から詰め込む.そして火皿に盛った点火薬(口薬)に火の付いた縄を押し付けるとその火が口薬から玉薬へと急速に燃え広がり,その爆発力で弾丸を開口部から発射する仕組みだ[注1].なお,口薬には点火しやすいように黒色火薬を微細化したものを用いる.

火縄銃の難点は速射性に限界があり,夜間に火縄の火が目立ち,雨や湿気に弱く(不発となる),命中精度も低いことだ.特に弾丸を発射したら,次の発射の準備に時間を要することは大きな問題点だった.

銃の技術進歩を概括すれば,前装式滑腔銃から後装式施条銃への変化である[1a, 1b, 1c, 1d, 1e].銃腔にらせん状の溝を刻む(施条)ことで銃弾の直進性が改善され,命中精度が高まった.銃弾の形状も球状から先端の尖った円柱状に変化し,弾丸(弾頭)と火薬が一体化した弾薬,そして雷管が取り付けられ薬莢で包んで一体化した実包へと進化した[注2].そして雷管の発明は,後述するように,銃器のイノベーションを加速させた.

火縄による点火から火打石(燧石)による火花点火への転換は大きな技術進歩だった[注3].硬い石で鉄を擦れば擦り取られた鉄の微粒子が摩擦熱で高温となり,急速な酸化反応が起こって温度はさらに上昇して火花の発生に至る.この火花を利用して火皿の火薬に点火する方式への転換である.火縄を使用せず,発生する火花で口薬に点火する方式だから,敵に場所を特定されにくいことが特長だ.

雷酸水銀(雷汞)に代表される衝撃に敏感な起爆薬[注4]を金属容器に装填して用いる雷管式(パーカッションロック式)の発明は一連の技術進歩の前触れだった.フリントロック式(燧石式)で用いられた点火用の火皿のところに雷管を置いて,そこに撃鉄で衝撃を与えれば弾丸の発射が可能となったからだ.フリントロック式からの改造は容易で,不発の確率は大幅に低下した.さらに雷管と火薬と弾丸(弾頭)をセットにして金属の筒(金属薬莢)に収めた実包を銃に装填すれば撃針銃が実現する.実包の最後部を撃針(ファイアリングピン)で突けば雷管内の起爆薬が急速に燃焼して火薬に引火・爆発して弾丸が発射されるからだ.そして火皿不要の後装式撃針銃が実現すると,直ちに実包を自動充填する技術開発が行われて速射性に優れる自動小銃の開発に至った[注5].

命中精度の改善については,既に述べたように,銃腔にらせん状の溝(ライフリング)を設けることで改善された[注6].弾丸に回転を与えて,弾道の直進性を高めた施条式銃身の開発だ.それに応じて弾丸も球状から先端の尖った円柱状に変更され,火薬と弾丸(弾頭)をセットにした弾薬が使用されるようになるが,それは銃弾が銃腔を移動する間に回転運動を行うためだ.

1543年にポルトガル人が種子島に鉄砲を伝えたことが日本砲術の始まりとされる.その後,1575年の長篠の戦いで鉄砲の有用性が実証され,文禄の役(1592~1593)・慶長の役(1597~1598)では火縄銃,1614年の大坂冬の陣では大砲射撃が威力を発揮したが,1637年に起きた島原の乱以降の日本は鉄砲を捨てた[2].そして鉄砲は戦争ではなく15間(27.27メートル)離れた的を狙う標的射撃や鳥獣被害対策のための利用に傾いたから,命中率は重要であっても速射性には重点を置かない日本砲術として進化した(特に18世紀には実戦から遊離した見世物興行的な砲術が流行した).大砲の技術は打ち上げ花火に応用されて娯楽技術として進化したが,軍事技術としての技術進歩は滞ったのだ.

大砲の筒は発射の爆発圧力に耐える必要のある圧力容器だから,フープ応力に耐える引っ張り強さの高い材料が有用だが,質の良い鋳鉄の大量生産のために反射炉を築造する重要性が認識されるようになったのは海防の必要性が高まった幕末になってからだった.そして攻城戦や海戦での構造物破壊を目的とする砲撃から,殺傷を目的とする砲弾への進化も既に技術先進国では起こっていた.砲弾の運動エネルギーで城壁や装甲などの構造物を破壊する方式から,砲弾が炸裂して打撃を与える榴弾や榴散弾,および火災を発生させる焼夷弾などへの進化だ.

打ち上げ花火の打ち上げ方法は大砲と基本的に同じだ[3a, 3b, 3c].花火玉を発射火薬の爆発力で打ち上げ,上空で内蔵された火薬に引火して花火玉が爆発すれば,含まれる金属の炎色反応によって様々な色彩模様が夜空に描かれる.花火玉の表面は紙で作られているから,爆発によって表面が破裂しても殺傷力は小さい.殺傷力を高めるために,花火玉の表面を薄い金属板にしたものが榴弾,花火玉の内部に多数の金属球を封じたものが榴散弾に相当する.

1733年には花火大会が隅田川の両国橋周辺で実施され,その後の隅田川花火大会へと発展した(鍵屋は既に隅田川で打ち上げ花火を1711年に実演していた).当時の花火師として,1659年創業(奈良・篠原村の鍵屋初代弥兵衛が日本橋横山町で店を開いた)の鍵屋六代目弥兵衛が活躍し,鍵屋から暖簾分けした玉屋の創業(大火事を起こして江戸を追放され,1843年に玉屋は廃業)が1810年だから,炸裂弾を製造する基盤技術は江戸時代中期ごろには既に確立していたと考えられるが,ニーズがなかったので軍事用の大砲技術は進歩しなかったようだ.

火縄銃は弓術より命中率が低く速射性も劣るので,それを改良する技法が日本の伝統的な砲術家による射撃術として発達した[4].それに対し,西洋流砲術は戦闘の目的を遂げるために,銃陣を組んでの一斉射撃が基本戦法だ.命中率が高くなくても高い装填速度の燧石式マスケット銃(ゲベール銃)はこの目的に合致した.古くから知られていた燧石式マスケット銃は,速射性より命中率を重視する日本砲術のニーズには合致しなかったが,幕末になって出現した新たなニーズによって見直されたのだった.

高島秋帆は長崎に生まれた幕末の砲術家だ[5].父の高島四郎兵衛は日本砲術の荻野流砲術家・坂本孫之進に学んだ砲術師範であり,高島秋帆もその跡を継いだ.高島秋帆が高島流砲術の創始者となったのは,長崎の出島でオランダ人から話を聞き,書物から学んで1834年に洋式砲術を会得したからだ.そして,1835年には肥前佐賀藩武雄領主・鍋島茂義に自作の青銅製大砲を献上し,1840年にアヘン戦争で清国が大敗すると,天保上書を幕府に上申して従来からの砲術技術の変革を唱えた.

高島秋帆は幕府からの要請(老中水野忠邦が命じた)に応えて徳丸原(現在の東京都板橋区高島平,新河岸,三園などを含む荒川南岸一帯.八代将軍徳川吉宗の時代から鉄砲の試射場として使用され,1792年には幕府の正式な大筒稽古場となっていた)で日本初となる洋式砲術調練を1841年に公開した[1, 4, 5, 6].砲兵・騎兵・歩兵の三兵による銃陣である.まずは砲兵が洋式大砲(モルチール砲とホーウイッスル砲)を発射して敵陣を砲撃する.次に敵陣偵察を担った騎兵が馬上筒で射撃,続いて洋式小銃(ゲベール銃)を携えた歩兵集団が砲車に載せた大砲(野戦筒)とともに追撃するといった西洋銃陣の演習だ.炸裂弾を用いた大砲の発射実演は,1つの不発弾もなく洋式大砲の優位性を白日の下にさらした.

松月院にある高島秋帆先生紀功碑(火技中興洋兵開祖碑)の説明文によれば,1841年の5月に3日間行われた洋式砲術調練では,門弟100名と起居を共にしながら,秋帆は松月院に本陣を置いて演習を指揮したと書かれている.紀功碑は1858年に鋳造された銅製大砲と4発の砲弾を大理石の台座に配した高さ6メートルのもので,東京陸軍兵器長を務めた押上森蔵を発起人として1922年に建てられた.なお,徳丸ヶ原公園に残る徳丸原遺跡碑(1922年建立)は,現在の新高島平駅の近くにあった弁天塚から移設したものだが,そこでは訓練の指揮を行った場所を弁天塚と記している.

高島秋帆先生紀功碑
紀功碑下部にある4発の砲弾
高島秋帆先生紀功碑の説明板
乗蓮寺にある赤塚城二の丸跡の石碑
乗蓮寺の東京大仏
何でも耐えるがまんの鬼
三途の川の奪衣婆
智慧を授ける文殊菩薩
赤塚植物園
万葉薬用園
赤塚城と徳丸原の説明板
赤塚城本丸跡の石碑

松月院の近くには乗蓮寺がある.1971年から7年の歳月をかけて板橋区仲宿から赤塚城二の丸跡に移転した浄土宗の寺で,1977年に東京大仏が建立・開眼されたことで知られている.そこには天保飢饉の供養塔や石造物が置かれている.何でも耐えるがまんの鬼,三途の川の奪衣婆,智慧を授ける文殊菩薩などの石造物は,豊島区駒込付近にあった津藩藤堂家江戸下屋敷(染井屋敷)に置かれていたものだ.そして1981年に開園の赤塚植物園と1986年に開園の万葉薬用園は乗蓮寺のすぐ近くにある.

赤塚城跡は赤塚溜池公園の南の台地にある室町時代の城跡だ.小高い丘の上には赤塚城本丸跡の石碑が設置されている.そして赤塚城と徳丸原の説明板には,城跡の北側に開ける「高島平」は江戸時代に徳丸原とよばれた原野であり,「高島平」の地名の由来は高島秋帆が砲術訓練を行ったことによると書かれ,明治時代以降は水田「徳丸田んぼ」とよばれていたが,昭和40年代に高島平団地の開発が始まったとも書かれている.

徳丸原で洋式砲術の優位性に着目した老中・阿部正弘は,硝石の製造統制に踏み込んだ[7].洋式砲術を実施するには火薬の原料となる硝石の生産がネックとなるからだ.硝石は動物の排泄物に含まれる尿素がバクテリアの働きで硝酸塩となり,植物由来のカリウムと結合して硝酸カリウムになったものだ[注7].硝酸カリウムは雨水に溶解し,植物の根から吸収されるから,天然の硝石の産地は雨の降らない乾燥地帯に限られる.

雨の多い日本では,床下を利用した古土法による硝石生産が行われていたが,培養法(江戸時代前期に五箇山と白川郷で始まった)と硝石丘法(幕末期に薩摩藩で導入されたが定着しなかった)による生産も江戸時代になって始まった.古土法は硝酸塩を含む床下土(醸成されるのに15~20年経ったもの)を水で煮出し,これにカリウム源となる木灰を加えて加熱濃縮して,硝酸カリウムを析出させる方法だ.培養法は蚕糞を山野草と土などと混ぜたものを床下の培養穴に埋めて4~5年放置する方法,硝石丘法は硝酸塩の醸成をさらに早める方法で,屋外の屋根付きの風通しのよい小屋内に屎尿を大量に積み上げて1~3年放置する方法だ[8].欧州諸国で普及した硝石丘法の生産性は高いが,臭いがきつい.

戦国時代の乱世において火器の技術は飛躍的に高まったが,平和な江戸時代には技術進歩が停滞した.江戸時代の日本砲術は命中率を高める射撃術であり,速射性の改善は重視されなかった.江戸時代に発達した火器の技術は標的射撃及び狩猟用の小銃と娯楽用の打ち上げ花火だった.他方,洋式砲術は一斉射撃によって,命中率より砲撃数に主軸を置いた実戦に適した戦法であり,洋式大砲の優位性は明白だった.これは度重なる戦争ニーズによって,イノベーションが加速された結果である.軍事技術の遅れは国の存亡の危機となったから,軍事技術のイノベーションが停滞した時代の遅れを取り戻すことが次の時代の課題となった.イノベーションを加速させるにはニーズが鍵を握る.

[注1] 前装式で滑腔銃身の銃をマスケット銃という.火縄銃はマスケット銃の一種であるが,火縄以外の方法(フリントロック式や雷管式)で火薬を爆発させる方式もマスケット銃の範疇に含まれる.マスケット銃の弾丸は球状のものだが,銃身にライフリングを施して回転運動を与えるライフル銃では先の尖った円柱状の弾丸を使用する.

[注2] マスケット銃では火薬と弾丸を銃に順に装填するが.ライフル銃では弾頭と火薬を一体化した先端の尖った円柱状の弾薬が用いられる.そして後装式の銃器では弾薬に雷管が取り付けられた銃弾(弾頭・発射薬・雷管を薬莢に収めて一体化した実包)が利用される.なお,マスケット銃でも火薬と弾丸を一体化した紙製薬莢が使用されていたが,使用するときには包みを破いて予め秤量されていた火薬を銃口から注ぎ込む.その後,紙製薬莢は後装式施条銃の発達とともに金属薬莢に置き換わった.

[注3] 火皿の火薬への点火に火縄を用いるのがマッチロック式,火打石の火花によるものにはホイールロック式(歯輪銃)とそれを改良したフリントロック式(燧石銃)がある.初期に開発されたホイールロック式は鋼輪の回転によって火打石を擦り,フリントロック式は撃鉄の先に取り付けた火打石で当たり金を擦って火花着火を行う.フリントロック式では火蓋を閉じて引き金を引くと,撃鉄の先端(火打石)が鋼製のフリズン(火蓋と当たり金を兼ねたL字型の部品で,当たり金の部分を撃鉄が叩くと火蓋が開く)を叩いて火花を発生させ,その火花で火皿の火薬を点火する.1832年にオランダから日本に輸入されたゲベール銃は火縄を使わない前装式の滑腔銃身タイプの洋式小銃(フリントロック式あるいは雷管式)であった.なお,フリントロック式は火打石がフリズンを擦るときの銃身の衝撃によって銃が動揺し,命中精度は火縄式より低くなるので,一発必中を目指す日本砲術では普及が遅れた.

[注4] 火薬類(Explosives)には火薬(Low Explosive),爆薬(High Explosive),そして火工品が含まれる.火薬(狭義の火薬)と爆薬の違いは燃焼速度の違いだ.黒色火薬や無煙火薬の燃焼は穏やかな爆燃(衝撃波が発生しない)であり,燃焼速度が遅いため火器の発射薬として用いたときの筒内の圧力上昇は比較的小さい.これが狭義の火薬だ.それに対し急速に燃焼する爆薬を火器の発射薬に使用すれば,筒内の急激な圧力上昇によって筒は破壊される.爆轟によって衝撃波が生ずるためだ.ダイナマイトやTNT(トリニトロトルエン)が代表的な爆薬だ.雷汞も爆薬である.なお,火工品とは火薬や爆薬を加工した雷管,実包,導火線などのことだ.

[注5] 1860年に開発されたスナイドル銃(金属薬莢を用いた撃針銃)は前装式のエンフィールド銃を改造した後装式小銃で西南戦争では政府軍の主力装備として用いられた.西南戦争後には7発を装填して使用する後装連発銃(連発ライフル)であるスペンサー銃(1860年の開発)が主力小銃となった.

[注6] ライフリングによって弾に回転を与えることで,弾道の直進性は改善された.これが1849年にフランスで開発されたミニエー銃(雷管式・前装式ライフル銃)だ.そして1852年にイギリスで開発された雷管式・前装式ライフル銃がエンフィールド銃だ.戊辰戦争での主力はエンフィールド銃だが,これはクリミア戦争や南北戦争で使用された中古品だった.

[注7] 硝石の主成分は硝酸カリウムだが,チリ硝石の主成分は硝酸ナトリウムである[9].硝酸ナトリウムは潮解性があるので,火薬には硝酸カリウムの方が適する.天然の資源としては,歴史的にグアノとチリ硝石が重要だ.糞化石とも呼ばれるグアノはペルーのチンチャ諸島などで産出する化石化した糞だ.窒素やリンを含むので肥料に適するが,グアノから硝酸カリウムを抽出すれば火薬原料となる.ペルーはグアノをアメリカに輸出していたが,グアノの枯渇によってアカタマ砂漠(タラパカ州)のチリ硝石(1820年頃に発見された)が主要な肥料供給源となった.ペルーのタラパカ州がチリの領土となったのは,1879年に始まった太平洋戦争(War of the Pacific)の後だ.その後,ハーバー・ボッシュ法によるアンモニア合成法と白金触媒を用いてアンモニアを酸化して硝酸を製造するオストワルト法の確立によって窒素肥料や火薬原料の製造技術は大きく進歩した.資源を強奪したチリでの硝石生産は有機物からの硝石生産を駆逐したが,アンモニア合成技術の進歩によって衰退し,タラパカ地方の硝石工場はゴーストタウンとなっている.

文献
1.例えば (a) 所荘吉,火縄銃,雄山閣 (1964).  
 (b) 宇田川武久,鉄砲伝来の日本史,吉川弘文館 (2007).
 (c) 宇田川武久,日本銃砲の歴史と技術,雄山閣 (2013).
 (d) 刀剣ワールド  鉄砲と弓の基礎知識:https://www.touken-world.jp/arquebus-bow/ 
 (e) 銃の歴史年表:https://hb-plaza.com/history/ 
2.ノエル・ペリン,鉄砲を捨てた日本人,中央公論新社 (1991).
3.例えば (a) 細谷政夫,細谷文夫,花火の科学,東海大学出版会 (1999).
 (b) 永井 二郎,青木 和夫,花火 その原理と大玉紹介,伝熱,45 [193] 71-74 (2006).
 (c) 嘉数 次人,江戸時代の花火をさぐる: https://www.sci-museum.jp/wp-content/themes/scimuseum2021/pdf/study/universe/2020/09/202009_04-09.pdf
4.中山茂,幕末の洋学,ミネルヴァ書房 (1984).
5.有馬成甫,高島秋帆,吉川弘文館 (1989).
6.小西雅徳,高島秋帆の徳丸原洋式調練と軍制改革,鋳造工学 全国講演大会講演概要集,146 [16] 19-20 (2005).
7.福田舞子,幕府による硝石の統制 軍制改革と座・会所の設立,科学史研究,50 [258] 77-85 (2011).
8.野澤直美,高木翔太,福島康仁,高橋孝,村橋毅,高野文英,硝石製造法の史学的調査と実験的検証に関する研究 わが国における3種の硝石製造法の比較,薬史学雑誌,55 [2] 179-193 (2020).
9.高橋英一,肥料になった鉱物の物語,研成社 (2004). 

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