「その時私は」物語: 私のコンピュータ遍歴 その2

私のマッキントッシュ物語 続き

職場でのマッキントッシュとプリンターの購入

 留学から当然のことながら,マッキントッシュを日本に持って帰りました。このマッキントッシュのおかげで修士課程の論文が書けたのですから本当に感謝です。ただ,マッキントッシュは日本に送る荷物と一緒に,現地を出る一ヶ月前に日通さんにお願いし送り出してしまいましたので,論文の最終仕上げは友人の家でマッキントッシュを借りて行いました。なんと150ページの英文の論文の見直しに3日かかりました。睡眠をとらずに3日ですから,終わったとたんベットの上に座りあおむけになったとたん寝ついてしました。

 さて,留学後に配属になった職場には当然,マッキントッシュはありません。それでは,私の仕事が進みません。そこで,職場でマッキントッシュを購入するためのアクションを起こします。まだ,パソコンのマッキントッシュの方は価格も留学前に比べ安くなりよいのですが,問題はプリンターです。持ち帰ったプリンターはドットプリンターなので,音も大きく印字の見栄えも今いちです。そこで,当時,日本で販売が開始されたアップルのレーザープリンターを購入すべく,総務部に掛け合いますが,当時150万円もしました。これはかなりハードルが高く,でも仕事用としては印刷物が必要です。そこで,総務の購買の課長さんの脇にある丸いゴミ箱の上に座って,「英文の書類を作るのに,マッキントッシュにあった米国製のプリンターが必要だ」等々,「あーだ,こうだ」とお願いしました。必死にお願いした結果,結局,40分間ねばって「しょうがないな」と買ってもらえることになりました。当時このアップルのレーザープリンターは,マッキントッシュを扱うアップルの正規代理店はキヤノンでした。アップルジャパンができる前のことです。そして,なんとこのレーザープリンターが,日本で販売した最初のレーザープリンターであることをあとで教えてもらいました。

 マッキントッシュは,ローカルトークというケーブルで接続することで,プリンターと複数のコンピュータを接続することができます。専用のケーブルをただ繋ぐだけです。自分のマッキントッシュも接続できプリンターに関しては,問題ない環境となりました。この時期,留学した研究所の同僚にはマッキントッシュにお世話になった人が多く,日本に持ち帰ってきて特に英文のレポート等を打ち出すのに,このプリンターが役に立てたのは,頑張りがいがあったものだと思います。

キヤノン販売

 日本のアップルの代理店がキヤノン販売でしたので,マッキントッシュやプリンターでお世話になったわけですが,キヤノン販売の人の方が私より経験が少なく,よくマッキントッシュの使い方の質問で電話がかかってきました。なんか立場が逆だなと思いながら丁寧に説明したのを思い出します。時々,イベントにも招待されて,見学がてらに訪問しました。下の写真は,かなり画像は粗いですが,カメラで撮ったものをすぐにカラープリンターで印刷したのもです。キヤノン販売の女性スタッフと留学当時の友人,佐々木さんに挟まれ映っています。1989年ごろのものです。

その後

 その後,京浜の研究所で4年を過ごした後,古巣の福山の研究所への転勤となりました。ここでは,マッキントッシュはほとんど使える環境にありませんでした。研究所で動いているパソコンはウインドーズで,操作をマッキントッシュ風にどう変えるかに注力するようになりました。まだ,広島の福山と京浜の間は,NTTから借り上げた専用電話回線を使ったデータ送信でした。これにつなげて,マッキントッシュから,直接に京浜の元職場のプリンターにプリントアウトできたときは少し感激ものでした。この環境を福山の研究所内でもと,福山の研究所建屋にイエローケーブル,LANケーブルを張り巡らすことを手がけました。マッキントッシュのローカルネットワークの使い勝手がよかったことから取り組めたと思います。また,業務に関係ないことに手をだしているとは今度は怒られず,会社は費用を出してくれました。


たつひとの「その時私は」物語
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高橋達人 tatsudoc@nifty.com