「その時私は」物語: 私のコンピュータ遍歴 その1

私のマッキントッシュ物語

初めてのパソコン

 当時はマイコンとも言いました。自分のコンピュータ,小さなコンピュータの意味です。今はパソコンで,パーソナルコンピュータ,PCとかといいますね。このマイコンを最初に購入したのがアメリカ留学中です。留学当初は,ペンステートのMRLという研究所の所属の大学院修士の学生でしたので,そこの研究室においてあるパソコンが使えます。それがマック Plus (Macintosh Plus)でした。留学前,日本にいるときにパソコンは必要になるだろうなと思って調べておいたときに100万円の値段がついていました。フロッピーのスロットが一つあるものです。当時は小型の新車が買えます。このマックPlusが,学生用に数台置いてあります。研究所に所属する学生は博士課程の学生と修士課程の学生で,当時,私は修士課程の学生でしたのでこのパソコンを使うことができました。

 しばらくして,発売されたのがマック SEです。これはマックPlusと同じく9インチの白黒ブラウン管モニターをもち,二つのフロッピーディスクのスロットがあって,学生価格が20万円ちょい,会社から1年半で卒業しろと言い渡されていたた私にとって卒業に必須の道具として購入しました。日本で検討していたマックplusの1/4程度の価格です。スタイルもよく,後でハードディスクも搭載できます。最初から20MBのハードディスクがついたものは,高価でしたのここは我慢して研究所においてあるフロッピー駆動のもの新型の購入です。日本に戻ってから30MBの内臓ハードディスクを取り付けました。この「その時私は」物語を書いているパソコンは,ハードディスクの容量が,ハードディスクでないSSDの500GBです。隔世の感があります。

 1989年の映画,バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2では,2015年の古道具屋さんにマック plusが登場します。この映画をみて,自分のマックもこの時まで残しておこうかと思いましたが,結局ガラクタになりずいぶん前に廃棄処分となってしまいました。子供は今でもこのSEに愛着をもっていて,その話題が時々出ます。「残しておけばよかったに」と。

当時のアプリ

 この時,使っていたのは,表計算がマルチプラン,描画がマックドロー,そして文章作成がワードでした。現在もドキュメント作成の定番となっているマイクロソフトのワードは,私が使いだした2年前に発売されたもので,当時の市販のマニュアルは厚さが4cmはあるもので,もちろん英語で書かれています。これを一気に読みました。マニュアルがこんなに読みやすいものと初めて知りました。日本に帰ってからパソコンに付属のマニュアルは装丁はよいものの英語版の日本語訳でまったく意味が分からないものでした。理解していない人の翻訳はそんなものと思います。市販の解説書を買わないといけないようにしているのかなと勘繰りたくなる代物でした。今もワードはウインドーズでもアップルでも現役ですが,35年前からワードを使っていた日本人はそう多くないと思います。当時このワードに,日本語入力ソフトをいれると日本語の文章が打てるのです。日本で「書院」などのワードプロセッサーが全盛期の頃,1980年後半に米国でパソコンに日本語入力して文章を作れたのですからすごいです。ただし,プリンターはまだ貧弱で,音の大きなドットプリンターでした。当然,修士論文はこのマックを使って,もちろん英語で卒業論文を作りました。

 この後,日本に帰ってからのマッキントッシュ物語に続きます。

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高橋達人 tatsudoc@nifty.com