「その時私は」物語: 立川高校時代

「その時私は」物語を書き始めるにあたっての話
 この企画を始めるにあたり,企画担当である私からまずは書き始めないといけないだろうと机のパソコンの前に座りました。
 なにが自分の「その時私は」物語になるだろうかと考えるに,自分で考えて,実行し,自己認定の「世界で一番」にすることが,ある時から自分のテーマになっていることを思い出しました。自分での認定ですから自分の価値判断で自分が満足する「世界で一番」となることを探しています。世の中,頭の良い人,かしこい人や頭が回る人がたくさんいますが,案外自分で考え,実行し,思い方次第で「世界で一番」が叶うと思っている人はあまり多くないように思います。まずはそんな私の「その時私は」物語の出発点の話です。

自分の中での最初の「世界で一番」
 自分の中での最初の「世界で一番」は,20代後半で書いた耐火物に関する論文です。東工大無機材料工学科を卒業後に入社した会社が鉄鋼メーカーで耐火物を研究する部署への配属でした。当時,この分野では1000℃以上の高温での熱力学関連の検討が皆無で,現象面だけを追いかけストーリー化している状態でした。それに関した論文を,審査がある学術誌の窯業協会誌 (現セラミックス協会誌) へ初めて投稿しました。当初,自分で作ったストーリーは直属の上司だけでなく,室長,研究所長にも理解してもらえず,研究所長が東北大学の冶金の先生に相談してそんなことも考えられるとの回答をもらい進めることができたものです。その後名古屋工業大学の山口明良先生の指導をいただき論文としてだすことができました。これがもとで,後に東工大で論文博士の学位もいただきましたし,30代に家族同伴で米国ペンシルバニア州立大学の修士課程へ会社派遣で留学することもできました。
 このことがきかっけとなって,いろいろな「世界で一番」を自分自身でカウントするようになりました。自分の中での「世界で一番」はこれからこの「その時私は」物語で披露していけるかなと思っています。

【原点】
 「なんでも自分で考えやってしまう」原点に近いのは,当然のことながら性格もあるでしょうが子供のころの環境によるものも大きいかもしれません。小学校5年生までは,父が東京都の公園,土木関連の仕事をしていた関係で物心がついてからずうっと都立公園の管理事務所の裏にある官舎に私たち家族だけで住んでいました。近所,お隣というものがなく「ぽつんと一軒家」状態で,周りは木と芝生に取り囲まれた自然に恵まれた環境でした。三人兄弟の一番上でしたので,遊びでもなんでも自分で考えて弟たちに指示をしないといけません。母の口癖は「頭は生きているうちにしか使えない」でした。小学校のころから授業を聞く習慣がなく,「落ち着きがない」「じっと我慢ができない」といった評価は先生との父母面接での定番となっていました。授業に集中できず授業中に席を移動し遊んでいたのでしょうがないですが。都立公園のど真ん中での生活から,小学校5年の終わりに住宅街へ父が家を建て引っ越してきました。この時に通った小学校へは6年からの転校で,相変わらず授業は聞かず,授業態度が悪いと母が呼び出される始末です。
 なんでも自分で考えて行ってしまうことの原点に近いのは,もともとの性格や小学校時代の生活環境にあるのに加えて高校の風土かなと思い立ちました。入学した立川高校立高たちこうは東京都の23区以外の三多摩全域が受験できる学区で,学校群制度になり国立くにたち高校と一緒に72群となって二年目となったものの,まだまだ昔のイメージを十分残していました。

「都立立川高校」

 都立立川高校は,1901年(明治34年) 府立二中としての創立は,東工大が大学となった1929年より古く,校訓は「質実剛健」「自主自律」でバンカラのイメージです。体育の水泳授業は男子は全員赤ふん (赤いふんどし) で,授業のあとは,窓にその赤ふんがたなびいていました。当時は,進学校の日比谷高校 (府立1中),西高校 (府立10中) などは東京大学への合格者数が多いのが特徴でしたが,立川高校は,東京大学,東工大,一橋大学がほぼ同数の合格者で,私が東工大へ入学したときは,東工大への合格者数は高校の中で立川高校が一番多く20数名いました。私学は早稲田大学,慶応大学が多く,ただ現役と浪人の比はどの大学でも半々だったと記憶しています。現役はまじめ勉強組,浪人はその他の人です。

 高校時代は,授業の出席数と成績で進級がきまります。そこで,1年生から年間の授業日数と必要出席日数を表にして,授業をさぼってはモーニングコーヒーを飲みながら喫茶店で過ごしていたのを思い出します。3年生になると4月生まれでしたので誕生日の1週間後に普通自動車免許書を自動車試験場へ通い実地試験で取り,立高の駐車場に先生の車と自分の車を並べて駐車していました。とにかく,先輩たちの残した奇行の伝統が多々ある中,生徒たちは何か他の人と違ったことをしたい,しないといけないと知恵をしぼっていた当時です。高校も,小学や中学同様,授業は聞かずに,いつも授業中に考え事をしていました。数学と物理と化学は,本屋で厳選して選んだ参考書でそこそこの点数はとっていました。ある先生が「ここの生徒はほっておいてもちゃんと進学するから大丈夫。下手な進言は不要」と話していたことも頭に残っています。赤点で留年することもなく卒業こそできましたが,現役で大学に入れるほど甘くはありません。ただ,この習慣が東工大でも,低空飛行,それも地上すれすれで飛行するトマホークのようにきちっと4年で大学を卒業したのは我ながら大したものだと思います。

 なにごとも自分で考えてやることのおかげで,限られた分野ですが最初の「世界で一番」の論文を20代で作れたのですから,なにがよかったのかわかりません。ただし,子供や孫には話せる話ではありません。真面目に勉強した米国ペンシルバニア州立大学の大学院に留学したときの話は,別の「その時私は」物語で書きたく思います。

皆さまの「その時私は」物語のお話をお待ちしております。

たつひとの「その時私は」物語 目次

高橋達人 tatsudoc@nifty.com

(余談)
 ネットで調べたら,東京都の都立高校の学校群制度がなくなる1984年の東京大学合格者数は,72群 (立川高校+都立国立くにたち高校) は全国9位,東京都6位,私立,国立大学付属高校を除く公立高校で全国1位だそうです。知らなかったです。凄いですね。72群の国立高校は1980年に都立高校としてはじめて甲子園に出場しました。これもまた凄いです。

(立高の思い出)
 数学の授業:
  2年生の時,数学の土橋先生から,一番前の席に座っていて授業を聞いていないのがバレバレの私に,
   「好きな参考書でも使って授業中に勉強してていいから」
  3年生の時,数学の先生でかつ担任の森屋先生から,授業を聞いていないのがバレバレの私のことを父母面接で,
   「数学の授業で私もたまにはいいこともいうんだけど」
 それでも数学の試験の成績はよかったです。
 日本史の教科書:
  日本史の教科書にまったく表紙から折り目がついていなかったのには,後でびっくり。
  本屋で厳選した暗記できる程度の薄い参考書を買って丸暗記し,試験に臨んで赤点を取らずに単位をもらったのは偉かった。