鎌倉幕府の旧跡碑めぐり(その4)
由比若宮は1180年に鎌倉入りした頼朝が遥拝したところだ.前九年の役で奥州を平定した源頼義が1063年に石清水八幡宮を由比ガ浜に勧請したことに始まるが,その後,源頼朝が現在の鶴岡八幡宮に遷したので,元八幡とも称される.
鎌倉入りした頼朝は次いで亀ヶ谷にある父源義朝の屋敷跡を訪ねた.そこにはのちに寿福寺が造営され,政子と実朝の墓(供養塔)が建てられた.なお,実朝の首のない遺体は火葬されて勝長寿院に,首は秦野市の源実朝公御首塚に葬られたとされる.勝長寿院は源氏の菩提寺の性格が濃い寺で,源頼朝が父・義朝の菩提を弔うために建立した寺だ.政子も勝長寿院で火葬されている.当時は鶴岡八幡宮,永福寺と並ぶ鎌倉の三大寺社の一つだったが,勝長寿院も永福寺も今はもう跡形もない.
法華堂跡碑は大蔵幕府の裏山にある源頼朝の墓の入口に設置されている.法華堂が廃されたのち,1872年に建立された白旗神社の脇の階段を登った先に源頼朝の墓がある.北条義時の墓(法華堂)はその約50m東にあったが,現在,義時の法華堂跡は更地となっていて解説の看板で在りし日の姿を偲ぶのみだ.
義時の法華堂跡の裏手の崖には三浦氏一族が供養されているやぐらがある.やぐらは13~15世紀ごろに造られた横穴式墳墓のことで,鎌倉とその周辺で多く見られる.鎌倉幕府の有力御家人であった三浦氏が1247年の宝池合戦で討たれ,三浦泰村以下の一族276人は源頼朝法華堂にこもって自害したと伝えられている.
義時の法華堂跡の裏手の階段を登ると毛利季光(大江広元の四男で長州藩毛利氏の祖,墓は1823年に長州藩主毛利斉熙が雪ノ下に造営し,1921年にこの地に移設),大江広元(鎌倉幕府政所初代別当,墓は1823年に長州藩主毛利斉熙が造営),島津忠久(薩摩藩主島津氏の祖,墓は1779年に島津藩主島津重豪が造営)の墓所が並んでいる.
1253年に建長寺を創建した北条時頼はアジサイ寺として知られる明月院に葬られている.建長寺は日本初の禅宗専門道場で,地獄谷と呼ばれた処刑場があったところに建てられた.円覚寺は文永・弘安の役の死者の菩薩を弔うために,1282年に時宗が宋の禅僧無学祖元を開山として創建された.円覚寺・仏日庵の開基廟には北条時宗,北条貞時,北条高時の3代が祀られている.なお,北条泰時の墓所は大船の常楽寺,北条経時の墓は材木座の光明寺だ.
足利公方邸は足利義兼が1188年に建立した浄妙寺の東側にあったとされる.浄妙寺には足利尊氏の父・足利貞氏と弟・足利直義の墓がある.足利貞氏は1331年に没して,尊氏に家督を継承した鎌倉幕府の御家人だ.尊氏とともに室町幕府を支えた足利直義は,幕府内の内紛(観応の擾乱)によって浄妙寺境内の延福寺に幽閉されて1352年に急死した.なお,足利尊氏の墓は京都の等持院と鎌倉の長寿寺にある.廃寺となった延福寺の跡地には1922年に貴族院議員・犬塚勝太郎の邸宅が建てられ,その後2000年にカフェレストラン(石窯ガーデンテラス)がオープンした.
長寿寺は亀ヶ谷坂の入り口にある足利尊氏邸跡に1336年に創建したもので,尊氏没後,足利基氏が父の菩提を弔うため七堂伽藍を備えた堂宇が建立された.本堂には尊氏座像が祀られ,境内奥には尊氏の遺髪を埋葬した墓がある. 亀ヶ谷坂は鎌倉七口(極楽寺坂切通,大仏切通,化粧坂,亀ヶ谷坂,巨福呂坂,朝夷奈切通,名越切通の7つの切通し)のひとつだ.山ノ内から扇ガ谷を結ぶ坂道で扇ケ谷から山ノ内に出る道のため往来が多く商売で賑わったと吾妻鏡に記されている.亀ヶ谷坂の名前の由来は,一説には,建長寺の大覚池にいた亀が坂を上ったが,坂が急なため引き返したことから亀返坂と言われるようになり,それが亀ヶ谷坂に転じたと伝えられている.
文献
1. 奥富敬之,もっと行きたい鎌倉歴史散歩,新人物文庫 (2010).
2. 高橋慎一朗,武家の古都、鎌倉,山川出版社 (2005).
(岡田 明)