鎌倉幕府の旧跡碑めぐり(その3)
源頼朝が没すると実権は鎌倉殿となった源頼家の専制支配ではなく北条時政ら有力者の合議制に移行した.十三人の合議制は1199年4月に発足したが,1200年には解体となった.13人の有力者のなかの梶原景時が1199年に失脚し,三浦義澄と安達盛長が1200年に病死したからだ.梶原景時が1200年に一族とともに討たれ,1203年には北条時政らが頼家を擁する比企能員を討って比企氏を滅ぼし,1205年に畠山重忠を滅ぼした頃までの実権は時政が握っていた.比企能員の屋敷跡には,乱から逃れた能員の末子・能本が妙本寺を1260年に建立した.
1205年の牧氏事件で時政が失脚すると実権は政子と義時に移り,1213年の和田合戦で和田義盛の反乱を鎮圧し,1221年に後鳥羽上皇が実権を取り戻そうとした承久の乱が失敗するとその権力はさらに強化された.十三人の合議制を構成する有力者のうち4名の文官(大江広元,中原親能,二階堂行政,三善康信)を除くと,梶原景時,比企能員,和田義盛の一族が滅亡し,三浦義澄,安達盛長は病死し,時政も追放されると義時以外に生き残った御家人は足立遠元(没年不詳)と八田知家(1218年没)だけになったのだ.なお,三浦・安達一族が滅ぼされるのは,それぞれ1247年と1285年のことだった.
義時が1224年に没した後,政子の強力な支持(1224年の伊賀氏の変で,北条政村の執権就任を画策した勢力を粛清)によって第3代執権に就任した北条泰時は,1225年に幕府の最高機関として評定を新設した.義時の異母弟である北条時房が鎌倉幕府初代連署に就任し,それに11人の評定衆を加えた計13名による合議制だ.そして1232年には御成敗式目を制定し,御家人に関わる慣習や取り決めを明文化した.
泰時の孫,第4代執権の北条経時は重鎮に支えられて合議制を維持したが,幼い2人の息子を残して病死した(2人の息子は後に出家).1246年に第5代執権に就任したのは経時の弟の北条時頼だ.この混乱期に乗じた1246年の宮騒動で,反得宗派の御家人(名越光時ら)は第4代将軍の藤原頼経とともに政権奪取を試みたが失敗し,反対派は降伏し頼経は京に送還された.1247年の宝治合戦では有力御家人の三浦泰村が打ち取られて三浦一族は滅亡し,上総千葉氏も追討されて滅亡すると執権・連署の形骸化が進んで北条得宗家の権力はさらに強固なものになった.
表1.9代の得宗家と17代の執権
氏 名 | 執権の在職期間 | 備 考 |
北条時政 (1138 - 1215) | 初代 (1203 - 1205) | 得宗家初代(義時によって伊豆に追放) |
北条義時 (1163 - 1224) | 2代 (1205 - 1224) | 得宗家2代 |
北条泰時 (1183 - 1242) | 3代 (1224 - 1242) | 得宗家3代 |
北条時氏 (1203 - 1230) | 就任せず | 得宗家4代 |
北条経時 (1224 - 1246) | 4代 (1242 - 1246) | 得宗家5代 |
北条時頼 (1227 - 1263) | 5代 (1246 - 1256) | 得宗家6代(執権を辞任したが,実権を保持) |
北条長時 (1230 - 1264) | 6代 (1256 - 1264) | 北条重時の嫡男(実権は時頼) |
北条政村 (1205 - 1273) | 7代 (1263 - 1268) | 北条義時の四男(元寇を前に,連署に戻る) |
北条時宗 (1251 - 1284) | 8代 (1268 - 1284) | 得宗家7代 |
北条貞時 (1272 - 1311) | 9代 (1284 - 1301) | 得宗家8代(辞任したが,実権を保持) |
北条師時 (1275 - 1311) | 10代 (1301 - 1311) | 北条政村の孫(実権は貞時) |
北条宗宣 (1259 - 1312) | 11代 (1311 - 1312) | 北条時房の孫(実権は長崎円喜) |
北条煕時 (1279 - 1315) | 12代 (1312 - 1315) | 北条政村の曾孫(実権は長崎円喜) |
北条基時 (1286 - 1333) | 13代 (1315 - 1316) | 北条政村の孫(実権は長崎高資) |
北条高時 (1304 - 1333) | 14代 (1316 - 1326) | 得宗家9代(実権は長崎高資,病で辞任) |
北条貞顕 (1278 - 1333) | 15代 (1326) | 10日間就任(実権は長崎高資,辞任) |
北条守時 (1295 - 1333) | 16代 (1326 - 1333) | 北条長時の曾孫(実権は高時と長崎高資,戦死) |
北条貞将 (1302 - 1333) | 17代 (1333) | 1日就任(戦死) |
表2.北条一族による14代の連署
氏 名 | 連署の在職期間 | 備 考 |
北条時房 (1175 - 1240) | 初代 (1224 - 1240) | 北条義時の異母弟 |
北条重時 (1198 - 1261) | 2代 (1247 - 1256) | 北条義時の三男(辞任して出家) |
北条政村 (1205 - 1273) | 3代 (1256 - 1264) | 北条義時の四男(後の7代執権) |
北条時宗 (1251 - 1284) | 4代 (1264 - 1268) | 得宗家7代(後の8代執権) |
北条政村 (1205 - 1273) | 5代 (1268 - 1273) | 北条義時の四男(前の7代執権) |
北条義政 (1243 - 1282) | 6代 (1273 - 1277) | 北条重時の五男(辞任して出家) |
北条業時 (1241 - 1287) | 7代 (1283 - 1287) | 北条重時の四男 |
北条宣時 (1238 - 1323) | 8代 (1287 - 1301) | 北条時房の孫(辞任して出家) |
北条時村 (1242 - 1305) | 9代 (1301 - 1305) | 北条政村の嫡男(嘉元の乱で討たれる) |
北条宗宣 (1259 - 1312) | 10代 (1305 - 1311) | 北条宣時の子(後の第11代執権) |
北条煕時 (1279 - 1315) | 11代 (1311 - 1312) | 北条政村の曾孫(後の第12代執権) |
北条貞顕 (1278 - 1333) | 12代 (1315 - 1326) | 北条義時の玄孫(後の第15代執権) |
北条維貞 (1285 - 1327) | 13代 (1326 - 1327) | 北条宗宣の子 |
北条茂時 (生年不詳 - 1333) | 14代 (1330 - 1333) | 北条煕時の子 |
1264年に連署に就任,そして1268年に鎌倉幕府8代執権となった北条時宗は元寇(1274年の文永の役と1281年の弘安の役)に先立つ1272年の二月騒動で北条氏の嫡流を争う名越流(名越時章・教時兄弟)と異母兄時輔を討伐した.これで北条一族における対抗勢力も一掃され,北条嫡流の得宗家の権力基盤はさらに強固なものとなった.なお,名越流は北条義時の次男・北条朝時を祖とする一族だ.朝時の母は義時の正室であるのに対し,得宗家となった泰時の母は義時の側室なので本来ならば嫡流であるべきと考えていたのかもしれない.
北条貞時は12歳で第9代執権となったが,権勢を振るったのは1285年の霜月騒動で有力御家人の安達泰盛とその一族を滅ぼした得宗家の内管領である平頼綱だった.その後,1293年の平禅門の乱で平頼綱を滅ぼして貞時は権力を奪還して専制を振るうようになったが,1305年の嘉元の乱以降,貞時は政務に対する意欲を失って酒浸りの生活になった.
嘉元の乱は北条宗方が連署であった北条時村の屋敷を襲って殺害し,その後,宗方が打ち取られた事件だ.時村の誅殺を命じたのは貞時とされるが,北条庶流の反発が強かったので実行犯の宗方を殺して事態の収拾を図ったという説がある.そのため晩年の貞時と幼い第14代執権の北条高時の時代には内管領の長崎円喜と長崎高資が権勢を振るうこととなった.実権は得宗から内管領に移ったのだ.
実権が得宗自身から家臣である内管領に移ったのは,制度変更によって評定衆が権力を削がれたからだ.評定は公式会議だが,それに先立ち少数の幕府重臣による寄合が行われていたようだ.北条経時の時代から寄合の記録があるが,北条時頼の時代には固定化されたメンバーが寄合衆を構成するようになった.この寄合は1289年に公的機関となり,評定衆より権威を持つようになった.これで得宗への権力集中と執権・連署の形骸化が起こり,寄合のなかで内管領が実権を持つようになったのだ.寄合は得宗家が有力御家人から権力を奪取する仕組みだったが,それによって実権は北条得宗家の内管領に移行した.
高時は1333年に新田義貞に攻められ,北条家の菩提寺であった東勝寺の腹切りやぐらで自害した.鎌倉幕府は滅亡し,北条得宗家の小町邸宅は灰燼に帰した.小町邸宅は第2代執権の北条義時が住みはじめ,その後に執権を務めた北条の本家である得宗家の邸宅となったところだ.なお,西国の拠点である六波羅探題も幕府方の足利高氏(倒幕後に尊氏に改名)が後醍醐天皇側に寝返って同時期に滅ぼされた.現在の宝戒寺は1335年に足利尊氏が北条高時の霊を弔うため北条氏邸宅跡に建てたものだ.宝戒寺の境内には北條執權邸舊蹟碑がある.現在,腹切りやぐらは立ち入り禁止となっていて近づくことはできず,草に覆われて静寂を保っている.
名目的な権力者である天皇から権力を移譲された鎌倉将軍が独裁権力を行使できたのは源頼朝だけだった.頼朝が没すると将軍は次第に名目的な権力者となり,実権は有力御家人の合議制から北条時政を経て政子と北条義時に移行した.北条泰時の時代以降は再び有力御家人の合議制(評定)に移行したが,北条氏はその執権と連署を独占することで権力を堅持した.その後,有力御家人の一族を滅ぼし,北条一族内の対抗勢力にも粛清が及んで合議制による鎌倉武士の支配体制から北条得宗家への権力集中が起こった.しかし,得宗独裁政権が誕生すると得宗家の家臣である内管領が権力を振るうようになったのだ.平禅門の乱で北条貞時が内管領から得宗に実権を奪還したものの,嘉元の乱以降の実権は内管領のものだった.
後鳥羽上皇は承久の乱に完敗して再チャレンジは叶わなかったが,後醍醐天皇の倒幕計画は3度目に成就した.1度目の1324年の正中の変では側近が処刑され,2度目の1331年の元弘の乱では隠岐島に島流しとなった.そして3度目が1333年に隠岐島を脱出して挙兵したときだ.得宗独裁政権のなかで内管領の長崎高資が実権を握っていた時代には再々チャレンジの機会が与えられたのだった.
文献
1. 近藤成一,鎌倉幕府と朝廷,岩波書店 (2016).
2. 日本史史料研究会,将軍・執権・連署 鎌倉幕府権力を考える,吉川弘文館 (2018).
3. 細川重男,執権 北条氏と鎌倉幕府,講談社 (2019).
4. 岡田清一,鎌倉殿と執権北条130年史,KADOKAWA (2021).
(岡田 明)