鎌倉幕府の旧跡碑めぐり(その2)

大蔵御所が焼失した1219年から1225年までの間は将軍不在の期間だ.仮御所が北条義時の邸宅の南側にあり,その邸宅は二階堂大路の東側とされるが,正確な位置は不明だ.なお,二階堂大路は六浦道(金沢街道)から分岐して永福寺へ向かう道であったと推測されている.

1219年に源実朝が暗殺されると,源頼朝の同母妹(坊門姫)の曾孫にあたる2歳の藤原頼経が鎌倉に迎え入れられた.仲恭天皇の摂政となった九条道家の三男である.第4代将軍の有力候補は後鳥羽上皇の皇子(雅成親王)だったが,後鳥羽上皇がそれを拒否したために摂関家からとなった.

阿野時元は頼朝の弟の子で,政子・義時の妹の子でもある.頼朝の血筋で僧籍に入っていない者のなかでは最も近縁なので次期将軍の有力候補者となるが,執権の義時は時元を1219年に討伐した.そして,もう1人の候補者は源範円(源範頼の嫡男)だが,その子孫は吉見氏として息をひそめて荒波を切り抜けた.

他にも,源頼信,頼義,義家が平忠常の乱(1028年)の追討,前九年の役(1051~1062年),後三年の役(1083~1087年)でそれぞれ活躍して以来,その源氏の末裔である足利氏などは東国での足場を固めていたから,保元・平治の乱で河内源氏の大半は壊滅したといえども源氏の血筋を重視するならば候補者には事欠かなかったのだ.朝廷から将軍を迎えたのは,粛清されそこなった源氏の血筋より朝廷の権威がふさわしいとの判断だったようだが,頼朝の母の血筋も重視されたのかもしれない.

朝廷が幕府に従属するようになったのは承久の乱以降だ.1221年に後鳥羽上皇が義時誅殺の院宣を送って勃発した承久の乱では,天皇を誤らせた側近の者を処罰する(君側の奸を除く)との名目のもとで幕府は朝廷と戦った.敗北した後鳥羽上皇は隠岐島へ島流し,仲恭天皇は退位となり,朝廷は幕府に屈服した.幕府は六波羅探題を設置して,朝廷の監視と西国武士の統率を強化した.

新たな天皇は9歳の後堀河天皇(在位:1221~1232年)であり,幕府はその父の守貞親王に院政を敷かせた.後堀河天皇は20歳で退位して1歳となった四条天皇(在位:1232~1242年)に譲位し,四条天皇は10歳で崩御した.後継となった後嵯峨天皇(在位:1242~1246年)は22歳で即位し,4年後に2歳の後深草天皇(在位:1246~1260年)に譲位して院政を始めたが,ほぼ幕府の統制下にあった.後嵯峨上皇が1246年に行った院政の改革は鎌倉幕府の要請に沿ったものであり,政務や訴訟が評定衆による合議(院評定制)によって行われるようになった.しかし,後醍醐天皇による倒幕計画が実現すると,幕府は滅亡を迎えることになる.幕府の朝廷への統制が緩んだ結果だ.支持を失った専制支配体制のもとでは,統制が緩めば体制は崩壊するようだ.

宇津宮辻幕府舊蹟
若宮大路幕府舊蹟
鎌倉幕府政所跡のプレート

1225年に政子が亡くなると幕府は宇都宮辻に移され,1236年には若宮大路に移された.宇津宮辻幕府は1226年に第4代将軍に就任した幼少期の藤原頼経の御所,若宮大路は摂家将軍(藤原頼経とその息子の第5代将軍となった藤原頼嗣)および親王将軍(第6代から第9代将軍)の御所だ.若宮大路幕府舊蹟は若宮大路と小町大路の間の細い路地に,宇津宮辻幕府舊蹟は宇都宮稲荷神社の境内にある.なお,横大路にある「あおば薬局」の建物には「鎌倉幕府政所跡」のプレートが設置されている.

藤原頼経は8歳となった1226年に第4代将軍に就任したが,1244年に将軍職を嫡男の藤原頼嗣に譲らされ,1246年7月には京へ追放された.頼経が成人に達すると傀儡を脱して政権を握る意思を持ち始め,反執権派の御家人との連携が画策されるようになったからだ.第5代将軍に就任した頼嗣も1252年に14歳で解任され,京へと追放された.

表1. 鎌倉幕府の歴代将軍

将 軍期 間類 型備 考
源 頼朝 (1147 - 1199)初代 (1192 - 1199)源氏将軍死亡
源 頼家 (1182 - 1204)2代 (1202 - 1203)源氏将軍幽閉・殺害
源 実朝 (1192 - 1219)3代 (1203 - 1219)源氏将軍暗殺
藤原頼経 (1218 - 1256)4代 (1226 - 1244)摂家将軍解任
藤原頼嗣 (1239 - 1256)5代 (1244 - 1252)摂家将軍解任
宗尊親王 (1242 - 1274)6代 (1252 - 1266)親王将軍解任
惟康親王 (1264 - 1326)7代 (1266 - 1289)親王将軍解任
久明親王 (1276 - 1328)8代 (1289 - 1308)親王将軍解任
守邦親王 (1301 - 1333)9代 (1308 - 1333)親王将軍幕府の滅亡

第6代将軍には後嵯峨上皇の皇子宗尊親王が11歳で迎えられたが,25歳となった1266年に解任されて追放された.次の第7代将軍には嗣子の惟康親王(臣籍降下して源惟康)が3歳で就いたが,26歳となった1289年には将軍職を解任されて追放となった.なお,惟康親王の臣籍降下は元寇に関係がある.執権・時宗は元寇に備えて源氏の総大将にふさわしい源姓を1270年に賜与したが,9代執権の貞時は1287年に皇族へ復帰(親王宣下)させた.元寇の脅威が去った時代となって,源氏の総大将として傀儡を脱するリスクが発生したためだ.

新たな第8代将軍は惟康親王の従弟にあたる後深草天皇の第6皇子の久明親王が12歳で就任し,31歳で解任されて京に送還された.そして,最後の第9代将軍には8歳の守邦親王(父は久明親王,母は惟康親王の娘)が就任し,鎌倉幕府が滅亡するまで傀儡を全うした.

鎌倉将軍に就任した9名のうち,1名は権力者として君臨したが,2名は若くして殺害され,6名はよく似た傀儡人生を歩んだ.「君臨すれども統治せず」だ.動乱の時代が終わって平和で安定な社会が訪れれば,解決すべき問題は単純ではない.複雑な問題に取り組むには業務を専門家に委ねることが重要となり,担当者間の連携を促すことは重要だが,最高権力者がみだりに権力を行使する独断を慎むことが肝要だ.権力奪取を狙って,将軍候補に擁立される可能性があれば粛清される確率は極めて高いのだから,その時代には傀儡人生も悪くないのかもしれない.

その3に続く

文献
1. 日本史史料研究会,将軍・執権・連署 鎌倉幕府権力を考える,吉川弘文館 (2018).
2. 永井晋,鎌倉幕府の転換点,吉川弘文館 (2019)

(岡田 明)

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