鎌倉幕府の旧跡碑めぐり(その1)

鎌倉の史跡観光には旧跡碑(鎌倉町青年団石碑)が有用だ.大正時代から昭和初期にかけて設置された石碑で,そのうち70か所を今でも見ることができる.これは1921年までは鎌倉町青年会,1922年以降は鎌倉町青年団が建立したものだ.

大蔵幕府は1180年に源頼朝が邸宅を建て,1219年に焼失するまで源氏将軍の御所だったところだ.大蔵幕府舊蹟は清泉小学校の南西の角に,東御門碑と西御門碑は大蔵幕府の東御門と西御門だった場所に建っている.東御門碑の後ろには小さな川が流れていて,その川には東御門橋が架けられている.西御門碑は横浜国立大学付属小・中学校の東側の道路の北端に面したところにある.

大蔵幕府舊蹟
東御門碑
西御門碑

大蔵幕府には侍所,公文所(1191年に政所と改称),問注所といった役所もあった.1180年に設置された侍所は武士階級を統治する機関,1184年に設置された公文所は公文書の発行など行政事務を担当する.問注所は裁判所で,御家人の所領問題などの裁定が主要な業務だ.

1184年に源頼朝は大蔵幕府内に問注所を設置したが,これを屋敷の外に移したのは頼朝が没した1199年だった.問注所舊蹟碑は鎌倉市御成小学校の向かいにある.18歳で家督を継いで鎌倉殿となった頼家が自ら出向くには遠くて不便なところへの移設だ.

御成小学校は鎌倉御用邸の跡地に建てられ,御用邸の正門が小学校の正門になった.正門に架けられている校名は高浜虚子によるものだ.今小路をさらに下って和田塚駅に向かう途中には,訴訟によって由比ヶ浜で処刑された者の供養のための六地蔵がある.

問注所舊蹟碑
向かいにある御成小学校の正門
六地蔵

平氏打倒に続いて,頼朝は権力の座を脅かす親族や有力者の粛清を行った.範頼・義経軍に敗れた従兄弟の木曽義仲は1184年に滅んだ.頼朝に追われた源義経は奥州の藤原秀衡を頼ったが,頼朝の圧力を受けた後継者の藤原泰衡に襲われて1189年に自害して果てた.そして,奥州藤原氏もその年に頼朝に攻められて滅ぼされた.源範頼も1193年に伊豆の修善寺に幽閉されて殺された.

1192年造営の永福寺は廃寺となったが,源義経,藤原泰衡および奥州征伐の戦没者の怨霊を鎮めることが目的だった.権力を掌握するには暴力の行使が有効だが,権力の維持には行政機構を通じた統治が有用となるから,平和な時代が訪れれば権力奪取に貢献した武士が粛清の対象となるのだ.

平家が滅び奥州藤原氏も滅亡すれば,新たに所領として分配する土地が不足する.そこで増加するのは御家人同士の所領を巡る争いだ.1250年には御家人の所領関係の訴訟を扱う引付衆が新設され,問注所では民事訴訟と訴状の受理を扱うようになった.御家人の訴訟事案の増加への対応だ.

源頼朝が1199年に急死して頼家が家督を相続すると,実権は有力御家人に移行した.十三人の合議制の発足だ.しかし,同時に御家人同士の権力闘争も激しくなった.頼家の乳母も妻の父も比企氏なので,頼家を擁する比企能員と実朝を擁する北条時政との権力闘争の勃発だ.

北条時政は頼家に近い梶原景時を1200年に討伐し,1202年に第2代将軍に就任した頼家は北条派の叔父阿野全成(頼朝没後に唯一生き残った弟)を1203年に誅殺した.それに対し,北条時政は比企能員をだまし討ちにして,比企氏を滅ぼした.頼家の長男である6歳の一幡は比企氏との戦闘の最中に館が燃えて焼死した.頼家は伊豆の修善寺に幽閉され,1204年に殺害された.

北条氏は政子の妹(阿野全成の妻)が乳母だった実朝を将軍に据え,北条時政が執権(政所別当)に就任して権力を掌握した.頼朝の子は病弱だった実朝と僧侶となった貞暁が生き残り,一幡の3人の弟,公暁,栄実,禅暁,そして妹の竹御所も生き延びた.おそらく政子は幼い孫を殺せなかったのだろう.頼朝の没後に権力を掌握したのは,鎌倉殿を継承した嫡男の頼家を擁した比企氏ではなく,次男の実朝を擁した北条氏だったのだ.

大銀杏の切り株から芽吹いた若木
倒壊した大銀杏の一部
鶴岡八幡宮

実朝は1203年に12歳で第3代将軍に就いたが,1219年に鶴岡八幡宮で公暁(頼家の子)に暗殺された.テロの実行犯は公暁だが黒幕は明らかではない.鶴岡八幡宮の本宮に上る階段の左手にあった大銀杏は2010年に倒壊したが,この銀杏の陰から公暁が襲い掛かって実朝を暗殺したと伝えられている.現在は倒壊した大銀杏の切り株から若木が芽吹き,倒壊した大銀杏は左隣に置かれている.

実朝には実子がなく,公暁は殺され,栄実は謀反の疑いがあったとされて1215年に自殺,禅暁は公暁に加担したとの嫌疑を受けて1220年に誅殺された.なお,貞暁は1231年に高野山で死去,竹御所は第4代将軍藤原頼経に嫁ぎ,1234年の初出産のときに母子ともに亡くなった.貞暁が延命したのは将軍候補として擁立されることを避けたからのようだ.頼家の墓は幽閉された伊豆の修善寺にあるが,公暁の墓は不明とされている.

その2に続く

文献
1. 細川重男,頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」,朝日新聞出版 (2021).
2. 日本史史料研究会,将軍・執権・連署 鎌倉幕府権力を考える,吉川弘文館 (2018).

(岡田 明)

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