田園都市計画と大岡山

1912年の桜新町の分譲に始まり,1920年代には東京西郊の住宅地の開発が本格的となった.その結果,都心から郊外への住民移動が起こって人口は急増した.

表1.東京西郊で住宅開発された村の人口増加率[1]

村 名1920年(人)1930年(人)増加率(倍)備 考
荏原郡平塚村8,522132,10815.5洗足地区
豊多摩郡杉並村5,63279,19314.1杉並区
碑衾(ひぶすま)村4,19340,9729.8目黒区の目黒本町から自由が丘
馬込村2,72523,0258.4大田区馬込
野方村7,32346,8356.4中野区野方
世田谷村13,05473,1105.6世田谷区の池尻から桜丘
蒲田村6,42025,6164.0大田区蒲田

1918年に渋沢栄一らが立ち上げた田園都市株式会社は,エベネザー・ハワード(Ebenezer Howard)が提唱した田園都市(Garden city)の開発を計画した[2-4].そして,1922年6月に洗足地区,1923年8月に多摩川台地区の分譲を開始し,分譲地の販売を終了した1928年5月5日に田園都市株式会社は目黒蒲田電鉄に吸収合併された.分譲に先立って買収した事業用地は洗足地区,大岡山地区,多摩川台地区の3地区だが,実際には,ハワードが提唱した田園都市開発のビジネスモデルは小林一三の阪急電鉄のビジネスモデルに差し替えられ,交通の便と住環境に配慮した分譲住宅の開発が行われたのだった.

ハワードが著書に書いたのは都市開発のビジネスモデルの提案だ.地代と税金を徴収して,土地購入費の元本返済と利払い及び公共施設と住民サービスに充てる.それによって道路,鉄道,橋,学校,市役所,図書館,美術館,公園,下水処理の建設と維持費用を賄うビジネスモデルの提案だ.なお,ハワードは田園都市を実際に建設している.ロンドンの北に1903年から開発が始まった職住近接型の都市レッチワース(Letchworth)と1920年から開発されたウェリン・ガーデン・シティ(Welwyn Garden City)だ.

小林一三のビジネスモデルは阪急電鉄の沿線開発によって土地の価値を高め,鉄道の利用者を増やそうとする戦略に基づく.線路通過予定の沿線の土地を買収して,割賦販売による分譲販売,箕面に動物園,宝塚に大浴場「宝塚新温泉」と宝塚歌劇団,および阪急梅田のターミナル・デパートには1階に東京から白木屋を誘致し,2階には阪急直営食堂を入れたのだ.田園都市株式会社の経営についても,(1) 名前を出さず,(2) 報酬も受け取らず,(3) 日曜日のみという約束で引き受け,宅地開発と鉄道事業を進めた.この事業運営を五島慶太に引き継いだのだから,東横線と目蒲線の沿線開発に小林一三のビジネスモデルが転用されるのは当然の成り行きだ.

五島慶太は鉄道省監督局総務課長を1920年に辞任し,武蔵電気鉄道の常務取締役を経て,1922年からは目黒蒲田電鉄の専務取締役,1924年から東京横浜電鉄の専務取締役に就任した.そして,1944年には運輸通信大臣に就任する.このような経歴から官民癒着は明らかだが,明治維新以来,殖産興業による富国強兵を旗印に欧米列強に対抗して近代化を進めていた当時の政府にとって官民の協力は望ましいことであり,官民癒着の弊害は小さいと考えていたのだろう.官民一体となって国力増強に励まなければ,アヘン戦争で清が経験したような欧米の力による現状変更を認めざるを得なくなるからだ.

表2.田園都市株式会社の土地販売[3]

地 区 名販売面積(㎡)販売年月備 考
洗  足181,500  1922.6碑衾村,平塚村.馬込村
多摩川台106,969.51923.8玉川村,調布村
多摩川台96,234.61923.11
大 岡 山300,300 1924.1碑衾村,馬込村,池上村にまたがる
多摩川台86,859.31924.5
多摩川台11,550 1924.11
多摩川台212,889.61925.5
多摩川台25,512.31925.11
多摩川台37,583.71926.11
合  計1,059,399   

洗足地区(洗足田園都市)
渋沢栄一の田園都市構想は1913年に同志数名と計画を練り始めたときに始まる.それを知った東京府下荏原郡の地主数名が王子飛鳥山の渋沢邸を1915年3月に訪ね,荏原郡一円の開発計画を説明し,その実施を渋沢に依頼した.これが洗足田園都市開発の端緒らしい.

洗足田園都市の範囲は現在の目黒区洗足二丁目のおよそ7割,品川区小山七丁目のほぼ全て,旗の台六丁目の約半分,荏原七丁目西側の一部,大田区北千束一丁目及び二丁目北側の一部にまたがる約8.4万坪で,分譲開始は1922年6月だった.約5.5万坪(約18万平米)の分譲地に碁盤状の道路を整備しただけのものだったが,販売は好調だったとされる.

1923年3月10日には目蒲線(目黒・丸子間)が開通し,洗足駅も開業した.丸子駅は現在の多摩川線沼部駅だ.そして,目黒・蒲田間の全線開業は1923年11月1日だった.1923年9月1日には関東大震災が起きたが,洗足田園都市に建てられた40軒余の住宅には1軒も被害がなかったとされる.

大岡山地区
大岡山地区では約9.2万坪(約30万平米)の土地を買収したが,その宅地開発は行われなかった.大岡山の土地(300,000㎡)は1924年1月8日に蔵前の土地(39,600㎡)と等価交換して,東京高等工業学校(現東京工業大学)キャンパスとなったのだ(移転開校は4月).ただし,昭和10年代前半に大岡山駅北側の東工大用地を駅南側の目黒蒲田電鉄買収地と等価交換したとき,目黒蒲田電鉄は大岡山分譲地(現在の大田区北千束一丁目36, 37, 39, 40, 42番あたり)の再分譲を行っている[5].

大岡山の土地と等価交換で獲得した蔵前の土地の売却金は,1924年に東京横浜電鉄(武蔵電気鉄道から社名変更)を傘下に収めるときの元手となった.東京横浜電鉄は1926年に多摩川・神奈川(現在の反町と横浜の間にあったが,1950年に廃駅)間を開通,1927年には渋谷・多摩川間を開通して渋谷と横浜を結ぶ東横線が誕生し,1932年には桜木町まで延伸した.同時に会社は沿線の開発に努め,1926年に新丸子地区,1927年には菊名地区の土地分譲を始め,1929年には震災で被災した慶應義塾大学に日吉台の土地約24万平米を無償で寄付した.

1939年に目黒蒲田電鉄は東京横浜電鉄を合併して,社名を東京横浜電鉄に変更した.社名を東京急行電鉄株式会社と変更したのは小田急電鉄と京浜電気鉄道を合併した1942年で,戦時統制下の東京急行電鉄は大東急となったのだ(1944年には京王電気軌道を合併).戦後は五島慶太が1947年に公職追放に追い込まれ,1948年には小田急電鉄,京浜急行電鉄,京王帝都電鉄が分離したが,現在でも東急は小田急電鉄,京浜急行電鉄,京王電鉄の主要株主で,この4社は相互に株式を持ち合う関係にある.

多摩川台地区
現在の田園調布,玉川田園調布の約30万坪(約100万平米)の分譲地で,田園調布駅からは同心円状のエトワール型の道路と街路樹が整備され,広場と公園を整備して庭園都市としての良好な住環境を提供した.当時の新興分譲地では住宅地における道路の面積は総面積の5%程度であるのに対し,採算を度外視し,道路の面積だけでも街全体の18%に達している.これはサンフランシスコ郊外のセント・フランシスウッドをモデルにしたものだ.

ハワードは著書で都市開発のビジネスモデルを提案したが,実際に田園都市株式会社が行った事業は小林一三のビジネスモデルの踏襲だ.民営事業だからハワードの都市開発事業に取り組むには限界があり,郊外の宅地開発に付加価値を付与したものに留まった.

目黒蒲田電鉄の沿線に多摩川園がオープンしたのは1925年で,その年に丸子多摩川花火大会も始まった.東京横浜電鉄が開通した1926年には綱島温泉駅が開業し,東京横浜電鉄直営の「綱島温泉浴場」の開業は1927年だった.なお,1922年に玉川第二遊園地(二子玉川園の前身,玉川電気鉄道が開設),1927年には向ヶ丘遊園(小田原急行鉄道が開設)が開園していたから,鉄道会社が集客のために遊園地を併設するのは常套手段だった.百貨店の併設は阪急より遅れ,渋谷駅東口に東横百貨店を開業したのは1934年だった.

洗足地区の開発では土地購入価格が高いため田園都市構想の実現は不十分だったが.比較的安価だった多摩川台地区の開発では良好な住環境の提供が可能となった.大岡山近辺の土地開発が始まってほぼ100年となった現在,寒村の面影を見つけるのは容易ではないが,100年後の22世紀から現在を振り返ることを想像するのは容易だ.現在の姿が跡形もなく消えゆく道を既に歩み始め,そのカウントダウンは既に始まっていることに疑念の余地はない.

文献
1. 三浦 展,東京高級住宅地探訪,晶文社 (2012). 
2. エベネザー・ハワード,新訳 明日の田園都市,鹿島出版会 (2016).
3. 東京急行電鉄社史編纂事務局,東京急行電鉄50年史,東京急行電鉄 (1973).
4. 東急株式会社の街と住まい https://www.109sumai.com/development/history.html
5. 「東京高級住宅地探訪」を読んでみて,XWIN II Weblog (2012/11/23).
  https://xwin2.typepad.jp/xwin2weblog/2012/11/maamaayane.html

(岡田 明)

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