自動車の排ガス処理と奇妙な解決策

自動車の排ガスで主に問題となるのは,NOx(ノックス)と黒煙だ.

NOxはエンジンの内部で高温となった窒素ガスと酸素ガスが反応して形成され,反応温度が高いとその生成量も多くなる.エンジンの燃焼室では主に一酸化窒素(NO)が形成され,それが大気中で徐々に二酸化窒素(NO2)に変化する.これらをまとめてNOxと称している.NOxは紫外線のもとで炭化水素と反応して光化学オキシダントを生成する.その濃度が高くなったものが,目や喉の粘膜を刺激する光化学スモッグだ.また,NOxは酸性雨の原因にもなる.

NOxの発生を抑制するには排気再循環(EGR: Exhaust Gas Recirculation)が有効だ.燃焼ガスを再びエンジン内に送り込むのだ.大気中の酸素濃度は21%程度だが,排気された燃焼ガス中の酸素濃度は消費されて低くなっている.したがって,EGRを行えばエンジンは低酸素のもとでの燃焼になり,燃焼温度は低くなってNOxが低減するといった仕組みだ.ただし,エンジンの熱効率は低下するから,エンジンの出力は低くなってエンジン性能は悪化する.

発生したNOxを後処理で浄化する方式が現在の主流だ.エンジンで発生した排気中のNOxが車外に排出される前に還元剤との化学反応で分解して無害化する後処理だ.排気ガスはダーティでも排出ガスさえクリーンならば問題はないのだ.

ガソリンエンジンでは空気とガソリンの混合ガスをピストンで圧縮し,それを点火栓の火花で着火すると燃焼が起こる.酸素と燃料の比を理論空燃比付近となるよう適切に制御すれば,ほとんどの酸素と燃料は消費されて水と二酸化炭素になり,これに高温の窒素と酸素との反応で生じたNOxがわずかに混じったガスが生成する.

このNOxを燃料の燃え残りとの反応で還元分解する仕組みが触媒コンバーターだ.排ガス中のNOxをわずかに残った一酸化炭素と燃料の燃え残り(炭化水素)で還元分解してクリーンな排気とする.そのために酸素センサで空燃比を理論空燃比14.7の付近となるように制御し,貴金属(Pt,Pd,Rhが主成分)を用いた三元触媒によって炭化水素,一酸化炭素,NOxをまとめて浄化する.ガソリンエンジンは燃焼ガスに酸素も燃料もほぼ残らない条件で運転することが可能だから,排気をクリーンにすることが可能なのだ.

ガソリンエンジンでは理論空燃比14.7を超えると空気過剰となって,炭化水素と一酸化炭素は少なくなるが,NOxは多い.逆に理論空燃比を下回ると酸素不足のためNOxは少ないが,不完全燃焼が起こって炭化水素と一酸化炭素が多くなる.しかし,理論空燃比の付近ならば炭化水素と一酸化炭素とNOxのいずれもが,相互に化学反応して浄化されるのだ.

ところが,ディーゼルエンジンではこのような排ガス浄化方法は応用できない.ディーゼルエンジンは圧縮して断熱圧縮効果によって高温となった高圧の空気に,燃料を噴霧して燃焼させる方式だからだ.シリンダー内に導入する空気量は一定で,噴霧する燃料を調節してエンジン出力を制御するため,燃料に対して空気過剰の状態であり,燃料が空気と十分に混じり合わない状態から燃焼が始まる.しかも,ガソリンエンジンの圧縮比が10程度に対し,ディーゼルエンジンの圧縮比は20程度と大きい.圧縮比が大きいのは断熱圧縮によって噴霧した燃料が自発火するような高温を作るために必要なのであり,ガソリンエンジンでは逆に自発火しないように,圧縮比を低く設定している.圧縮比を高めれば熱効率も高くなるので,ディーゼルエンジンはガソリンエンジンに比べて燃費がよい.

ディーゼルエンジンではNOxの発生量がガソリンエンジンに比べて多いのは空気過剰だからだ.高い圧縮比で空気を高温にしてから燃料を注入するので燃焼温度が高くなることもNOxの発生を促進する.そのためディーゼルエンジンでは排気ガス中に発生したNOx浄化のためには還元剤の注入が必要となる.排気ガスの還元処理にガソリンエンジンのような理論空燃比に制御する方法が採用できないからだ.

尿素水を排ガス中に噴霧する方法(尿素SCRシステム)は尿素が分解して生成したアンモニアがNOxを還元分解する仕組みだ.化学プラントでのNOxの還元分解処理に利用されている方法の応用だ.この方法は有効だが,尿素水の定期的な補充が必要となる.もう1つの方法は触媒コンバーター内に排ガス中のNOxを吸蔵する物質(トラップ層)を混ぜ込んで,NOxをトラップ層に貯蔵し,NOxが一定量溜まったら,そこに燃料を吹き込んで還元分解する方法(リーンNOxトラップ触媒)だ.この方法では燃料が還元剤として作用する.

いずれの方法でも排ガス中のNOx量が多いと負荷が高まるので,エンジンの燃焼温度を下げてNOx発生量を少なくする工夫も有効だ.EGRを利用すれば混合ガス中の酸素量が少ないので,燃焼温度は低くなってNOxの発生も抑えられるが,燃焼温度が下がれば熱効率も下がるのでエンジン出力も低下するデメリットもある.同様にディーゼルエンジンの圧縮比をぎりぎりまで下げることもNOxの発生も抑えるのに有効で騒音も低くなるが,エンジン出力も同時に低下するのが問題だ.このようにディーゼルエンジンではNOxを低減しようとすると熱効率が低下するので,これを両立しながら解決するのが難しい.

さらに,ディーゼルエンジンには黒煙が発生する問題がある.これは出力を上げると燃料を大量に噴霧するため,登り坂などでの走行では黒煙の発生量が増える.これは噴霧する燃料の粒子を微細化することで抑えることができる.燃料を噴霧するインジェクターの圧力を高めるのだ.さらに噴霧のタイミングを調整して,一回の噴霧を数回の断続的な噴霧に変更することも有効だ.これにはピエゾインジェクターの開発が寄与した.

しかし,排ガス中の黒煙を完全になくすことはできないから,排ガスの後処理によって黒煙を漉しとってクルマからの排出を抑制する仕組みの追加も必要となる.耐熱性の高い多孔質セラミックでできているパティキュレートディーゼルフィルター(PDF: Diesel Particulate Filter)の搭載も必須となるのだ.なお,パティキュレート(PM: Particulate Matter)とは黒煙を含む粒子状物質の総称だ.不完全燃焼による燃料の燃え残りとエンジン油,燃料にわずかに含まれる硫黄分由来の硫黄酸化物が黒煙以外の構成要素だ.

このようにガソリンエンジンとディーゼルエンジンでは排ガス浄化の難易度は大きく異なる.ヨーロッパで選択された解決策の1つがディフィート・デバイス(Defeat device)を使った不正だったのだ.

排ガス検査は検査場で行われる台上試験だ.自動車の走行を模擬した条件で行われる台上試験で自動車から排出されるガスを調べて,規制をクリアしているかどうかを判定する.当然,ハンドルは動かさず,エアコンを働かせることもない.したがって,台上試験のときだけ排気を浄化させる機構を働かせ,街を走行するときには排気浄化機能をオフにして,走行性能を高めることはソフトウエアを操作することで可能となる.これがディフィート・デバイスの仕組みだ.

1993年にGMのキャデラック部門がつくる車両がエアコンのスイッチをオンにするとオフのときに比べて3倍の一酸化炭素を排出することが見出され,ディフィート・デバイスの搭載が発覚した[1].そこで米国環境保護庁のレオ・ブルトンは路上での試験装置を自力で開発してテストを開始した.その装置がROVER(Real-time On-load Vehicle Emission Reporter)だ.そして1997年にはフォードのエコノラインのディーゼルバンを高速走行中に,排ガス浄化装置の働きを弱めるデバイスの搭載が発覚した.さらに,ある大型トラックのギアを6速から7速に入れたときにも窒素酸化物の排出量が倍増することが認められた.その後,主要なトラックエンジンのメーカーは点火タイミングを改変していたことを認め,違反企業は1998年に合計10億ドルの和解金を支払った.

ドイツ連邦環境庁のアクセル・フリードリヒは2003年にヨーロッパのトラックメーカがディフィート・デバイスを搭載していることを明らかにした.これは10億ドルの和解金を支払うことになったアメリカでの不正と同じものであるが,ヨーロッパの自動車業界には実質的には何の影響も及ぼさなかった.罰則規定が存在しなかったからだ.

2006年,フォルクスワーゲンはアメリカ仕様のディーゼルエンジンEA189の開発を進めていたが,大きな問題があった.リーンNOxトラップを働かせてもNOxの浄化を十分に行えないのだ.EGRによってNOxの発生を抑制すれば,黒煙の発生量が増してDPFに負担がかかって寿命が短縮する問題が発生する.この解決策には,尿素SCRシステムかディフィート・デバイスを採用する以外の選択肢はなかった.

尿素SCRシステムを小型のフォルクスワーゲン車に搭載すれば,収納スペースが削減され,コストも高くなって,商品価値を毀損する.しかし当時掲げた1000万台の年間販売目標を達成するには,販売数の急増が必要で特に米国での販売には開発中のクリーンディーゼル車の商品価値が重要であったから,尿素SCRシステムの搭載には消極的であったのは当時のビジネス環境を鑑みても止むを得ない面がある.しかも,ディフィート・デバイスは新たに開発するのではなく,すでにアウディが利用しているシステムを借用した(ボッシュからテスト用に供与されたとの説もある)ので,違法であっても罪悪感はあまり大きくなかったのかもしれない.

2006年11月に違法なディフィート・デバイスの採用の可否の議論が行われ,エンジン開発局トップのルードルフ・クレープスがディフィート・デバイスの採用を決断した.ディフィート・デバイスの採用はトップダウンだったのだ.

フォルクスワーゲンはヒトラーの国民車計画で始まった会社だ.フェルディナント・ポルシェが実質的な創業者で,戦後は孫のフェルディナント・ピアヒとその後継者のヴィンターコルンが会社を支配した.いずれも独裁的な経営者で部下に恐怖を植え付けた.このような命令服従を絶対とする権威的な社風のなかでは,忖度が得意なイエスマン以外に仕事を続けるのは難しかったようだ.実際,自分の収入と地位を危険にさらしてまで,ディーゼルエンジンEA189の違法性を指摘する平社員も管理職もいなかった[2].彼らは空気を読んで,正義ではなく生活を守ったのだ.会社は専制君主の支配する法治国家のようなところだ.そこでは法の支配(Rule of Law)に限界がある.

ウエストヴァージニア大学のダン・カーダーは乗用車の路上での排出ガスの評価試験を行った.するとリーンNOxトラップを搭載したフォルクスワーゲンのジェッタがハイウェイで異常に高いNOxを排出し始めたのだった.収集したデータを報告書にまとめ.2014年の3月に学会発表を行った.フォルクスワーゲンがディフィート・デバイスの使用を認めたのは2015年9月3日,司法省がフォルクスワーゲンを正式に起訴したのは2016年1月だった.なお,走行テストに用いられた可搬式排ガス測定システム(PEMS : Portable Emission Measurement System)は堀場製作所が開発したものだった[2].

その後,ミュンヘン検察庁は,2001年から2007年までアウディでエンジン開発を担当し,2011年にポルシェの取締役に就任したヴォルフガング・ハッツを2017年9月に逮捕し,米国の検察当局は2018年5月にフォルクスワーゲン社のマルティン・ヴィンターコルン元CEOを詐欺の罪で起訴し[3],2018年6月にはアウディ社のルペアト・シュタドラーCEOがミュンヘン地方検察庁によって逮捕された[4].

ディーゼルエンジンの不正問題がドイツの主要な自動車会社で行われていたらしいことは,2017年に浮上した自動車メーカーによるカルテル疑惑と関係があるかもしれないとの指摘もある[3].このカルテル疑惑はフォルクスワーゲン,ダイムラー,BMW,ポルシェ,アウディが20年以上にわたって自動車部品などの技術的なディテールについて談合していたというものだ.

EUの法律では,気温が一定の水準より低くなるとエンジンの損傷を防ぐためにNOx削減装置の機能を低下させるメカニズム(Thermofenster)を利用することは違法ではない.そして,試験場に比べて路上試験では,表1に示すように,はるかに大量のNOxを排出している[2].

表1.路上走行時のNOx排出量が法定上限値を大幅に上回っていた車種[2]

車種法定上限値試験場でのNOx排出量路上でのNOx排出量路上でのNOx排出量と法定上限値との乖離幅(%)適用される排ガス規制
Alfa Romeo Giulietta 2.0L180131905403ユーロ5
Audi A6 3.0L1801451109516ユーロ5
Chevrolet Cruze 2.0L1801091341645ユーロ5
現代 ix35 2.0L180114693285ユーロ5
Jeep Cherokee 2.0L1801441687837ユーロ5
Land Rover Range Rover 3.0L18016621021068ユーロ5
Fiat Ducato 3.0L2802632515798ユーロ5
VolksWagen Crafter 2.0L2801642120657ユーロ5
日産 Navara 2.5L2801711407403ユーロ5
Volkswagen Amarok 2.0L2801971956599ユーロ5
Dacia Sandero 1.5L804610251181ユーロ6
Ford C-Max 2.0L8079481501ユーロ6
Ford C-Max 1.5L8043437446ユーロ6
現代 i20 1.1L8042635694ユーロ6
Jaguar XE 2.0L8045594643ユーロ6
Mercedes V250 2.1L8040313291ユーロ6
Opel Zafira 1.6L8074720800ユーロ6
Opel Insignia 2.0L8045637696ユーロ6
Porsche Macan 3.0L8058791889ユーロ6
Renault Kadjar 1.5L802111641355ユーロ6
Renault Kadjar 1.6L802410611226ユーロ6
スズキ Vitara 1.6L 803011221303ユーロ6

NOxの単位:mg/km
資料・ドイツ連邦交通省,南ドイツ新聞(2016年4月25日付け)

以上をまとめると,ディーゼルエンジンにディフィート・デバイスを搭載したのは,フォルクスワーゲンが初めてではない. 2003年には既にヨーロッパのトラックメーカがディフィート・デバイスを搭載していたことが露呈しているが,罰則は課せられなかった.ヨーロッパでは,骨抜きの法律(Thermofensterの乱用)によって,実質的な不正が許されていたのも現実だ.赤信号を皆で渡っていたようなものだ.2014年にアメリカで発覚したフォルクスワーゲンの不正は,2003年にヨーロッパで許された不正と本質的には同じだ.ヨーロッパで許された不正をアメリカでは許されないことが予見できなかったことが過ちだったと,フォルクスワーゲンは思っていたのかもしれない.

文献
1) ジャック・ユーイング,フォルクスワーゲンの闇,日経BP社 (2017).
2) 熊谷徹,偽りの帝国,文藝春秋 (2016).
3) 熊谷徹,急拡大するドイツ排ガス不正事件の闇 ディーゼル大国ドイツの落日(前半)
  https://business.nikkei.com/atcl/opinion/15/219486/051400041/
4) 熊谷徹,アウディ社長逮捕の衝撃 ディーゼル大国ドイツの落日(中編)
  https://business.nikkei.com/atcl/opinion/15/219486/062100042/

(岡田 明)

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