発祥の地とその近隣を訪ねて

都営浅草線の蔵前駅を下車し,国道6号沿いに南下して須賀橋交番前を左折すれば,榊神社の境内が目の前だ.そこが蔵前の跡地だ.1924年4月に開校した大岡山キャンパスは蔵前キャンパスから1924年1月8日に移転したのが始まりだ.蔵前の跡地には蔵前工業会が建立した「蔵前工業学園之蹟」の石碑と台東区教育委員会が設置した説明板がある.また,付属地だった下水道局の駐車場にも「東京工業大学発祥の地」の説明板が残っていて,これは当時の記憶を留めているもう1つの場所だ.

榊神社にある蔵前工業学園之蹟
榊神社にある教育委員会の説明板
東京工業大学発祥の地(2022.3撮影)

蔵前の土地には官立の図書館浅草文庫があったが,1881年5月に閉館した[1].跡地には1881年5月26日に創設された東京職工学校に,文部省より浅草区蔵前東片町29番地の地所並びに浅草文庫の建屋を1882年6月10日に交付され,校舎新築の工事を起こしたとされる.その後,1890年3月24日に東京工業学校,1901年5月10日に東京高等工業学校と改称されたが,1923年9月1日の関東大震災ですべてを灰燼に帰した.そこで1924年にキャンパスを現在の大岡山に移し,1929年4月1日に東京工業大学となった.

その後,蔵前の跡地の一部(同校正門付近)には第六天榊神社が移転し,そこには1942年1月に建てられた蔵前工業学園之蹟の石碑と教育委員会の説明板が設置されている[2].榊神社以外にも,現在の区立浅草中学校や東京都立蔵前工業高等学校を含む隅田川の西側一帯が東京職工学校の跡地には含まれる.東京都立蔵前工業高等学校は1924年に東京市立浅草専修学校として創設された.

東京工業大学発祥の地」の説明板は東京都下水道局の駐車場の入り口にある.2010年に撮影された写真に比べて,2019年には褪色が進行していると報告されているが[3],2022年の撮影では褪色がさらに進行していて東京工業大学発祥の地と書かれているはずの表題はほとんど読めない.この地は東京高等工業学校の付属地だったところで,その後に東京工業大学ボート部の艇庫が置かれた場所でもある.この駐車場は現在,東京都下水道サービス(株)の運営する月極駐車場となっている.なお,東京都下水道局は1954年に完成した蔵前国技館の跡地で,1984年まで大相撲興行が行われていたところだ.

当時の様子を伺い知るには,東京工業大学70周年記念誌(昭和26年5月18日)に掲載された記事が参考となる[4].以下は,その記事の抄録だ(本文はこちら).

 蔵前名物は秋のボートレースと春の記念祭だった.蔵前には大岡山のような広大な運動場もなく2つ程のテニスコートと200坪位の体操場があっただけで,柔剣道場や弓道場などもあったが,墨田川畔のためボートは盛んであった.特に秋の都下大学専門学校のボートレースは当時の大きな呼びものの1つでもあり,蔵前漕艇協会への卒業生の応援も盛んで,レースの季節になれば昼休みの生徒控所は応援演説と応援歌の連続であった.
 創立記念日の記念祭は江戸年中行事の一つに数えられ,特に大正12年の記念祭は大正8年以来の大学昇格運動が結実し予算が議会を通過した直後だった.5月18日にまず昇格祝賀会を開き賓客,職員学生ほとんど全員が校庭に祝杯をあげてその前途を祝福し,5月26日からの記念祭も盛大だったとされる.
 弁論部は校内および都下学生弁論大会のみならず,夏休みには各地区に通俗講演に出かけ科学技術の普及につとめた.文藝部は淺草文庫を発行し,音楽,武道,テニス,弓道その他の同好の士による修養や趣味の会もその道の発展につとめ,技術者となる前に人となるための努力に心を砕いている人が多かったように思う.
 しかし,墨田川畔約1万余坪の敷地に建てこめた母校の建物も設備も9月1日の関東大震災に見舞われ一挙にして灰燼と化してしまった.そこで駒場の東大農学部の教室を借りて11月から授業が始まったが,卒業研究だけは焼け残りの他の学校,試験所,会社等に分散する以外に良策がなかった.新校舎の建設案が進められ第1候補地として大岡山の敷地を下検分したときの印象は何という淋しいところだろうと思った.

                          東京工業大学70周年記念誌(1951)

発祥の地から隅田川を挟んだ対岸へは蔵前橋を渡って行くことができる.国技館のある両国だ.直進すれば横網町公園,隅田川沿いに下れば同愛記念病院,刀剣博物館,旧安田庭園,国技館が並んでいる.同愛記念病院は,米国赤十字社が中心となって行った義援金をもとに震災中心地域に救療事業を行う病院として設立され,1929年に診療を開始した.横網町公園は陸軍被服廠(軍服工場)が1922年に移転した跡地に造られた公園だ.その1年後に関東大震災が起こり,空き地だった被服廠跡に人々が避難してきた.そこに火災が発生して,3万8千名が亡くなった.公園は1930年に完成し,慰霊堂には関東大震災と東京大空襲の身元不明の遺骨を納められている.1931年開館の東京都復興記念館には遺品や資料が保存されている.

横網町公園
横網町公園の慰霊堂
震災遭難児童弔魂像
鉄柱の熔塊
鉄筋コンクリート柱
焼損した印刷機

東京都復興記念館の震災記念野外ギャラリーにはその被災品が展示されている.いずれも震災による火事で鉄製品が熔損したようすが見られる.鉄柱の熔塊(大日本麦酒株式会社吾妻橋工場内の鉄柱が猛火により熔解し,かたまりになってしまったもの),鉄筋コンクリート柱(丸の内の内外ビル玄関わきの破損した柱),焼損した印刷機(美土代町の三秀社印刷工場内で焼損した印刷機)などの展示だ.関東大震災の東京市の死者・行方不明者は69,000人と言われ,その96%は火災による犠牲者だった.

東京都復興記念館には東京空襲の詳しい展示・説明もある.大型爆撃機B29による初期の空襲は軍需工場を目標とした爆撃だったが,1945年3月以降は夜間に焼夷弾を市街地に集中投下する無差別絨毯爆撃が多くなった.東京大空襲は1945年3月10日未明に本所区(現墨田区),深川区(現江東区),城東区(現江東区),浅草区(現台東区)を中心とする東京の下町地区に300機を超えるアメリカ軍B29爆撃機の大編隊が来襲し,焼夷弾による大規模な空襲を行った.この大空襲によってほとんどが非戦闘員である8万人とも10万人以上とも言われる都民の命が奪われた.東京大空襲を含む夥しい数の東京空襲によって,市街地の6割が焼失した.1944年11月から終戦までの9か月間に延4,300機以上の爆撃機が来襲し,1万発以上の爆弾と38万発以上の焼夷弾が投下された.開戦時687万人だった区部人口は終戦時に253万人に激減した.東京大空襲は明らかに民間人の殺害を狙ったものだ.関東大震災の被害も大きかったが,東京空襲の被害はそれをはるかに上回った.

文献
1. 古地図で訪ねる大学の始め (2019).
  http://geo.d51498.com/kikuuj/daigaku/toukou/toukou.htm
2. 発祥の地コレクション:工業教育 発祥の地 (2006).
  https://840.gnpp.jp/kogyokyoiku/
3. 発祥の地コレクション:東京工業大学発祥の地 (2019).
  https://840.gnpp.jp/tokyokogyodaigaku/
4. 山内俊吉,藏前から駒場へ,東京工業大学70周年記念誌 (1951). 

(岡田 明)

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