池上線の名所めぐり

池上線の名所と言えば,池上本門寺と洗足池だ.

池上本門寺は日蓮宗の大本山だ[1].本門寺は日蓮が1282年に没したときに滞在していた池上宗仲の館の背後の山に建立された.建物の多くは1945年4月15日の空襲によって焼失したが,五重塔や総門は炎上を免れた.五重塔は1608年に建立された.徳川2代将軍となる秀忠公の病気平癒の祈願が成就して,悪性の疱瘡が快癒したときのお礼の品として幕府から寄進されたものだ.総門は元禄年間の建立とされ,そこに掛かっている扁額「本門寺」は本阿弥光悦の筆によるもので総門より古く,1627年のものだ.大堂は1964年,釈迦堂(現在の本殿)は1969年,仁王門は1977年に再建された.いずれも堅牢な鉄筋コンクリート造だ.

1607年に建立された五重塔
元禄年間に建立された総門
1964年に再建された大堂

池上本門寺の北側に位置する松涛園は小堀遠州によって造園されたと伝えられている.園内には西郷隆盛と勝海舟との江戸城無血開城の会見が行われたことを記した碑がある.本門寺に新政府軍の本陣が置かれていたので,勝海舟が会見に訪れたとされているが,通説では高輪の薩摩藩下屋敷で1868年3月13日に第1回目の会談が,翌3月14日に田町の薩摩蔵屋敷で第2回目の会談が行われたとされる.松涛園は非公開だが,期間限定で一般公開されることがある.

洗足池は源頼朝,日蓮,勝海舟のゆかりの地だ.源頼朝が1180年に石橋山の合戦に敗れ,鎌倉へ向かう途中で宿営したとき,陣営に駿馬が現れた.その馬は頼朝に献上され,池月と命名された.境内に置かれている名馬池月之像は1997年に造られた.

名馬池月之像
勝海舟夫妻の墓
西郷隆盛(南洲)の留魂詩碑

洗足の地名は千束だったが,洗足とも言われるようになったのは日蓮が池のほとりで休息して足を洗ったという言い伝えからだ.天台宗の僧侶だった日蓮は日蓮宗の開祖だ.いずれも法華経を重視するが,2つの宗派では解釈が異なる.日蓮は1260年に立正安国論を著し,他の宗派を批判する過激思想の持主だったが,その弟子たちの多くは穏健路線に転換して日蓮宗を発展させた.過激路線を踏襲した弟子が日興で,その宗派が現在の日蓮正宗になった.創価学会は日蓮正宗から派生した宗派だ.

勝海舟は薩摩勢が本陣をおいた池上本門寺へ向かう途中,洗足池のほとりで休息した場所に邸宅「洗足軒」を設けた.勝海舟の墓がある場所だ.その墓の隣には1877年に戦死した西郷隆盛の留魂詩碑と留魂祠がある.留魂詩碑は1879年に建碑されたもので,西郷隆盛が沖永良部島に流された時に詠んだ漢詩が刻まれている.留魂祠は1883年に建造された祠だ.いずれも葛飾区の薬妙寺にあったが、勝海舟の遺言によって1913年に移設された.その隣の勝海舟記念館は2019年に開館した.

池上電気鉄道は1922年に蒲田・池上間を開業し,1923年に雪が谷大塚まで,そして1928年に五反田まで延伸した.これで蒲田と五反田を結ぶ池上線は完成したのだが,白金・品川方面への延伸計画もあったので,五反田駅は山手線を乗り越えるような高架駅となった.しかし,その道筋は平坦ではなかった.池上電気鉄道は1917年に会社の設立に漕ぎ付けたものの資金不足に陥った.そこに衆議院議員の高柳淳之助が支援を表明し,資産家から資金を集めて開業に漕ぎ付けたのだが,投資家から集めた資金の多くは私財の蓄積に流れた.高柳のビジネスモデルは詐欺による蓄財だったからだ.その犯罪が発覚した1925年に高柳は逮捕され,1935年に懲役2年の刑が確定した.

池上電気鉄道は1933年に目黒蒲田電鉄の傘下となり,1934年に合併されて消滅した.目黒蒲田電鉄は田園調布などの不動産開発を手掛けた田園都市株式会社の鉄道部門が1922年に独立したものだ[2].1923年に目蒲線(目黒・蒲田間),1929年に大井町線(大井町・二子玉川間)を開業し,1924年には東京横浜電鉄を傘下に収めて1939年に合併した.そして1942年には小田急電鉄と京浜電気鉄道を合併して社名を東京急行電鉄とした.さらに1944年には京王電気軌道を合併し,戦時統制下の東京急行電鉄は大東急となった.東急の成長は主に株式の買い占めによるものだが,日本では1947年になるまで独占禁止法は制定されていなかったので,買収戦略は合法だったのだ.

文献
1. 池上本門寺 https://honmonji.jp/
2. 東京急行電鉄社史編纂事務局,東京急行電鉄50年史,東京急行電鉄 (1973).

(岡田 明)

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