80歳にして自分の宗教探し?(#7/8:エピローグ)
エピローグ(安田の勝手な解釈)
花の窟神社の巨石や、那智滝を崇拝し、大木や自然の美しさを見て感激し、手を合わせたくなるのは日本人だけでは無いと思う。森羅万象を神々の体現として享受する「惟神の道(かんながらのみち、神とともにあるの意)」のが神道であるといわれる。神道は、多くの宗教と異なり、開祖や教祖・教典を持たず、すべてのものに神が宿るという思想に基づく。神話、八百万の神、自然や自然現象など、アニミズム的、祖霊崇拝的な民族宗教である。神と自然は一体と認識され、神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされる。
しかし、神道では、亡くなった人の魂は、遺体から離れて、産土神(ウブスナガミ:その人が生まれた土地の守護神: 氏神)の森に帰っていくとされ、時には亡くなった死者は穢れであり、死霊となって生きている人に祟る(タタル)という考えもあったと聞く。そのため、古来では有力者以外の一般人の死体は埋葬すらされることなく、人があまり来ない場所へ放置することや、山中へ置き去りにするのが一般的であり、御霊が子孫を見守り、盆と正月に帰ってくるものと言われていた。 これに対し、中国から伝来した仏教では、仏教は死を穢れとは考えておらず、死生観に大きな違いがあった。仏教では人間の身体は、地・水・火・風の4元素から形成され、亡くなると一度自然に還るものの、やがて4元素が再び集まって肉体を形成すると考えられている。このような理由からお寺の僧侶は、死者を恐れることなく、死者の供養を引き受けるようになった。その結果、良いとこ取りで、神社にお寺が、お寺に神社があるといった神仏習合が展開されてきたのでは無いでしょうか。特に真言宗はこの神仏習合を意識して進めていたようです。
しかし、明治時代になって天皇を国の神と崇める為に神仏習合を禁止し、神仏分離令が発布され、極端にも排仏毀釈となってしまったようです。
戦中生れの私にとって、宗教について深く考える事なく、婆ちゃんに手を引かれ、正月には神社に参拝し、夏は神社のお祭りに参加し、お盆にはご先祖様の御霊をお迎えして供養をし、お寺さんには盂蘭盆会の塔婆を書いてもらって墓に備え、先祖の命日には墓参りをしてきました。これらに対し、何の苦痛も無く、他人との軋轢も無く、これが当たり前として疑問を持たずに受け入れて、これまで来た次第です。
日本人の63%が宗教を持っていないと答えるそうですが、正月の三ヶ日に初詣でをする日本人は延べで9000万人に上るとの事。誰からも押し付けられた訳では無く、自発的に初詣。神道も道教も一部の仏教も「民族宗教」と言われており、「プロローグ」に書いたように、我々はDNA的には一部渡来人や第3の血が入っては居るが、一つの民族と考えられるように思います。
今回の探訪の結論として「神仏習合教?」が私の宗教と考えたい。
(お盆はお寺の行事かと思っていたのですが、調べてみたら、神道のお盆では、祖霊舎や神具をきれいにして、新しくお水やお酒、塩、米をお供えし、祖霊舎の前には精霊棚(盆棚)を設け、神饌物や季節の果物等をお供えし、ナスやキュウリで作った牛や馬を飾るそうです。お盆は、神仏習合の儀式だった事を知りました。)
私の住む埼玉に排仏毀釈を免れた神仏習合の寺院「竹寺」がありました。
参考資料
・橋爪大三郎『世界がわかる宗教社会学入門』 https://book.asahi.com/jinbun/article/13367952
・おとな旅プレミアム⑥南紀・熊野古道 TAC出版
・https://www.koyasan.or.jp/shingonshu/
・https://www.e-sogi.com/guide/1656/
以上
次回は6月28日 「補足」 残すところ後1回です。長い間のご購読有難うございました。 (無機材会 安田榮一)