将門塚と神田明神を探訪する
平将門は坂東八か国を平定して新皇・将門になったが,平貞盛と藤原秀郷の奇襲を受けて940年に憤死した.平将門の首は京に送られ獄門に掛けられたが,三日後に白い光を放って東方に飛び去り武蔵国豊島郡芝崎に落ちたとされる.村人は塚を築いて首を埋葬した.これが大手町に築かれた将門塚だ[注1].
平将門の霊は730年に創建された神田明神(正式名称は神田神社)に祀られた.江戸城拡張工事に伴い1616年に神田明神が江戸城の裏鬼門にあたる現在の外神田に移転した後も,平将門の首を祀る将門塚は大手町に残った.将門塚の敷地は江戸時代には大名屋敷,明治維新後は大蔵省となったが,空襲では焦土と化した.将門塚の再発見は,米進駐軍がブルドーザーで工事を始めたときだ.当時の町内会長・遠藤政蔵が保存を訴えて塚は残された.史蹟将門塚保存会が1960年に結成され,翌1961年に整備工事が行われ,2021年には現況のように再整備された[1].なお,神田明神の祭神は一之宮が大己貴命(だいこく様),二之宮が少彦名命(えびす様),そして三之宮は平将門命(まさかど様)だ[2].神田明神には銭形平次の碑がある.
将門記(厳密にはその抄録本である将門略記)によれば,平将門の父は陸奥鎮守府将軍・平良持(または良将)である[注2].平将門の祖父にあたる平高望は桓武天皇の曾孫であり,高望王流桓武平氏の祖でもある.高望王は桓武天皇の皇子・葛原親王の第3王子・高見王(桓武天皇の孫)の子であるが,889年に臣籍降下して平高望を名乗った.したがって,平将門は桓武天皇の5代の皇胤なのだが,若い頃の平将門は京で藤原忠平に仕えていた.当時は,天皇の5代の皇胤といえども権力者の藤原氏に仕える身分だったのだ.
上総介に任官した平高望は坂東に下向し,その息子たちとともに土着して平氏の勢力を拡大した.平良持は下総国に在って未墾地を開発して鎮守府将軍となり,平良兼は上総国,平国香は常陸国に坂東平氏の勢力を拡大したのだ.臣籍降下した平高望とその息子たちは坂東で瞬く間に地盤を築いたのだが,その勢力範囲は坂東に限定されていたようだ.パイが拡大しなければ,関心事は配分になる.
平良持が亡くなった後に起きた平将門の乱は鬼怒川流域の支配権を巡る伯父の平国香・平良兼らとの抗争に始まった.父の所領がその兄弟に横領されたからだ.平国香と平良兼はいずれも常陸の豪族・源護の娘を妻にしていた.そして935年に源護の3人の息子(源扶,源隆,源繁)が平将門を襲って合戦となった.平将門は源三兄弟を討ち取り,平国香をも討ち取った.
平国香の嫡男である平貞盛は従兄弟の平将門との和睦を望んでいたとされるが,3人の息子を打ち取られた源護の恨みは深かった.婿の平良正とその兄の平良兼,そして平貞盛の連合軍は936年に平将門を攻めたが,将門軍の反撃にあって連合軍は敗走した.937年には平良兼が再び平将門を攻めたが,平良兼は敗れて筑波山に逃げ込んだ.平将門は藤原忠平に平良兼の暴状を訴え,朝廷は平良兼らの追捕の官符を発した.平良兼は失意のうちに939年に病没した.
平国香と平良兼が連合したのは,いずれの妻も常陸の豪族・源護の娘だったからだ.平高望の一族は源護の娘を妻とする平国香・平良兼らのグループと平良持の子である平将門らのグループに分裂し,親族間の激しい抗争が行われた.平国香の嫡男・平貞盛は938年に上洛し,太政官に平将門の暴状を訴えた.天皇の裁定は平将門を糾弾すべしであった.そして,937年に下された平良兼追捕の官符は破棄され,平将門追捕の官符が下されたのだ.
しかし,抗争の勝利者は下総で兵を起こし,たちまち坂東八か国を平定した平将門であった.上野国府に入った平将門は坂東八か国と伊豆国の受領を任命する.官職の任命は天皇の大権に属するから,将門は天皇の大権を犯したのだ.新皇・将門の誕生だ.
この時代の恩賞は所領ではなく物品だった.戦いで強奪した物品を恩賞とするのだが,受領の任命は恩賞に所領を与えたことになる.そして平将門は地域紛争の調停者となり,坂東諸国の百姓等からは平将門の治世の良いことを報告した善状が提出され,平将門の評判は坂東のみならず京都にも轟くものになっていた[3].
平将門の時代は公地公民を基盤とした班田収授法による中央集権による統治にほころびがみられ,土地私有を認めた墾田永年私財法を援用した地方豪族による荘園経営に移行する過渡期であった.京都では摂関家(藤原氏)が政権をほしいままにし,坂東では国司が私欲に走った時代でもあった.そのなかで人民の窮状は言語に絶するものであり,力弱き人々が将門公によせた期待と同情は極めて大きかったとされる[1].新井白石は天慶の乱が起こったのは摂関家の人々が皇室の権威を奪ったためだと読史余論で指摘している[4].そして頼山陽も,天慶の乱は摂関家が驕り高ぶって天皇と人民との間を塞ぎ隔てたことから起きたと日本外史に書き残している[4].だが,平将門は平貞盛と藤原秀郷の奇襲を受けて940年に憤死してしまった.力弱き人々の支持を得た平将門は,私利私欲を重視する勢力に敗れ去ったのだ.
平将門が新皇・将門となって坂東諸国の統治を始めたことは政権に反旗を翻すことだから,体制側の正義はこれを見過ごさないことだ.しかし,京都では摂関家が坂東では国司が私利私欲に走っていた体制側の正義は,人民の窮状を招くものであった.坂東諸国の百姓等から将門の治世の良いことを報告した善状が提出されたことから,平将門の施策が人民の窮状を軽減するものだったと推察されるが,このような施策が支配階級の利益を損なうことに疑う余地はない.支配階級が下す一方的な命令を法とする権威主義的な法治国家体制における遵法精神は支配者を利することと同値だ.そして法令順守によって人民の窮状は果てしなく続くのだ.
一般に人民の窮状を軽減する抜本的な施策は特権を享受する支配階級から大きな抵抗を受けるから,非暴力的な手法では実施が困難だ.人民の窮状を軽減することの困難さは権威主義体制の発達度合と強い相関があると言っても過言ではないだろう.強権的な支配から人民が立ち上がって体制を転覆させた例は決して多くはないが,ほぼ例外なく暴力を伴う革命であった.平将門の失策は,坂東諸国の統治に留まり,朝廷の権力が保持されたことのように思われる.フランス革命で成立した共和制がウィーン会議で棄却されたように,強固な権威主義体制の存在は,反権威主義にとっての脅威であるとの認識が不足していたようだ.この教訓はその後の武家政権では活かされ,鎌倉幕府も徳川幕府も朝廷の権力を制限することによって支配を確かなものにした.しかし,権力者の座に就けば,その心も次第に権威主義者の心に変容してしまい,私利私欲に走りながら新たな権威主義体制を構築して,その地位に固執しようとするような変貌を遂げるのは時間の問題であることは過去の実例から導かれる紛れもない真理のようだ.
平将門と当時の民衆の無念を晴らすためにできることは平将門を祀ることだけなのだろうか.
[注1] 将門が江戸で祀られた理由については3説ある[5].その1は疫病の流行によるとの説だ.この伝承が見られる文献は江戸時代のものだが,疫病に悩まされていた豊島郡の柴崎村を1309年に訪れた時宗の開祖・他阿眞教は疫病を将門の祟りとした.そして神田明神の境内に将門塚が設置されたとするものだ.その2は戦死した将門の首が武蔵国に飛行して落ちたところに神田明神が建立されたとする説だ.これは1661年に浅井了意が出版した東海道名所記に初めて書かれた.その3は将門と縁のある相馬党が朝廷に懇願して獄門から首を引き取り,6月に埋葬したというものだ.この話は1665年に出版された将門純友東西軍記に書かれている.いずれにしろ将門の伝承は江戸時代に始まったようだ.
[注2] 将門の父は良持ではなく,良将であるとの説がある.最も古い記録である将門記に基づけば良持となるのだが,その将門記の記述を誤記とするものだ[6, 7].ただし,将門記の原本は存在せず,1099年に書写された真福寺蔵本(将門記の底本とされる)にも冒頭の系譜を記載した部分は欠落しているので,抄録本である将門略記(蓬左文庫本)等の記述が根拠である.誤記説は多数派で,例えば,信憑性が高いとされる室町時代の系図(尊卑分脈)には将門の父は良将で,良持は良将の兄弟であると書かれている.林陸朗の将門記の補注には系図類は書写が頻繁であるので混乱の可能性は一般に高いとの指摘があるが[8],将門記の口訳者の梶原正昭は将門記に記載されている良持が誤りで,正しくは良将であろうと註で述べている[7].将門の父は良持か良将のいずれかであることは間違いなさそうだが,いずれであるかを特定する根拠が不十分なことには間違いがない.
文献
1.将門塚保存会:https://masakado-zuka.jp/
2.神田明神:https://www.kandamyoujin.or.jp/
3.鈴木哲雄,平将門と東国武士団,吉川弘文館 (2012).
4.樋口州男,将門伝説の歴史,吉川弘文館 (2015).
5.乃至政彦,平将門と天慶の乱,講談社 (2019).
6.福田豊彦,平将門の乱,岩波書店 (1981).
7.梶原正昭 訳注,将門記 1,平凡社 (1975).
8.林陸朗 校注,新訂 将門記,現代思潮社 (1982).