ヴェルニー公園のバラと横須賀製鉄所
ヴェルニー公園は1946年に開園した臨海公園を2001年にリニューアルオープンした公園だ.名称はフランスの海軍技師レオンス・ヴェルニー(François Léonce Verny)に由来する.勘定奉行小栗上野介が中心となってヴェルニーを招き,横須賀製鉄所の建設が始まったのは幕末の1865年のことだ[注1].横須賀製鉄所の建設には26名のフランス人が雇用された.副首長にはティボディエ(Jules César Claude Thibaudier)が就任し,土木工事を担当したバスティアン(Edmond Auguste Bastien)は富岡製糸場の建設にも従事し,医官のサヴァティエ(Paul Amédée Ludovic Savatier)は日本植物総目録を著した[1].建設中の1868年に幕府は崩壊して製鉄所は新政府に接収されたが建設は継続され,1871年に完成した横須賀製鉄所は改称されて横須賀造船所となった.
ヴェルニーは在任中に艦船(弘明丸,横須賀丸,蒼龍丸など)の建造,灯台(観音崎灯台,品川灯台,城ヶ島灯台,野島崎灯台など)の建設に加え,各種工場,倉庫,事務所および煉瓦の製造も行った.このなかで近代建築や衛生的な水道工事は横須賀の発展にとっての大きな功績と見なされている[1].そして高給のヴェルニーは1876年に解嘱された.
1903年の組織改革により横須賀造船所は横須賀海軍工廠となり,多くの軍艦を製造した.そして第二次世界大戦後は在日米軍の米海軍横須賀基地となって艦船の修理に利用されている.横須賀製鉄所は,横須賀造船所,横須賀海軍工廠,米海軍横須賀基地と次々と名称変更されたが,そのドライドックは現在でも健在でヴェルニー公園から対岸に臨むことができる.戦艦陸奥の第四主砲の砲身と主砲弾が展示されているのは,横須賀海軍工廠で1921年に建造されたからだ.そして戦艦陸奥の1/100の模型はヴェルニー記念館に展示されている.
公園にある逸見波止場衛門跡は旧横須賀軍港逸見門の衛兵詰所として1930年頃に建てられた2つの建築物だ(左は軍港逸見門,右は逸見上陸場と表示されている).そしてこの門を入れば海軍鎮守府や海軍工廠のある横須賀軍港(現在の米海軍横須賀基地)に向かうための船着き場があった.実はヴェルニー公園は軍港への入り口だった場所で,現在でも桟橋が海上自衛隊横須賀基地(横須賀地方総監部)と米海軍横須賀基地に残っている.そしてヴェルニー公園にはかつての軍港を偲ばせる旧日本海軍関係の海軍の碑,山城の碑,國威顕彰碑,軍艦長門碑,軍艦沖島の碑,そして正岡子規の文学碑が置かれている.正岡子規の文学碑には「横須賀や只帆檣の冬木立」との句を1888年に詠んだことが記されている.現在のヴェルニー公園はバラの植栽が見どころだ.
公園内には1869年頃に建設された西洋館を再現したティボディエ邸(官舎)とヴェルニー記念館が建っている.ヴェルニー記念館には旧横須賀製鉄所で使用されていた3トン門形と0.5トン片持ち形の鍛造・圧延用蒸気ハンマー(スチームハンマー)も移設保存されている.0.5トン機と3トン機のいずれとも1865年のオランダ製だ.いずれも終戦後は在日米海軍横須賀基地艦船修理廠で稼働し0.5トン機は1971年に返還されたが,3トン門形機は1997年まで稼働し2000年に返還された.横須賀製鉄所は横須賀造船所,横須賀造兵廠,在日米海軍横須賀基地へと名称と所有者の変更がなされたが,この間,2機のスチームハンマーは休むことなく稼働を続けていた.
ヴェルニー公園の隣には原子力規制庁の横須賀原子力艦モニタリングセンターがある.原子力潜水艦と原子力空母が入港するからだ.そしてその隣の横須賀地方総監部の桟橋には船が停泊していた.終戦後,旧横須賀軍港の大部分はアメリカ海軍に接収されて在日米海軍横須賀基地になり,一部は海上自衛隊横須賀基地とヴェルニー公園となった.このなかで一般の日本国民が立ち入り可能なのはヴェルニー公園のみだ.
[注1] ヴェルニーは清国の寧波で造船工場を設立した実績をフランス公使のレオン・ロッシュに評価され,その推薦で来日した.ヴェルニーは横須賀製鉄所の建設の傍ら技術者教育にも尽力し,1870年に技術者養成のための教育機関「黌舎」を設けた.これはパリの技術者養成学校「エコール・ポリテクニーク(École Polytechnique)」を模範としたもので,技手らを養成する「職人黌舎」と呼ばれる学校も併設された.なお,黌舎はのちに工部大学校に吸収され東京帝国大学工学部造船学科となった.
文献
1.片野勧,明治お雇い外国人とその弟子たち,新人物往来社 (2011).