横浜のバラ園と港を散策する(後編)

大さん橋の近くには1854年に日米和親条約が締結された開港広場公園と1981年に開館した横浜開港資料館がある.開港広場公園にある日米和親条約締結の地の石碑とプレートは横浜市観光協会によるもので,柱は横浜市教育委員会が建てたもの,横浜開港資料館は1931年に建てられた英国総領事館のリユースだ.

大さん橋ターミナルと停泊中の船舶
日米和親条約締結の地の石碑とプレート
日米和親条約締結の地の柱

日米和親条約に続いて1858年に締結された日米修好通商条約の問題点は関税の税額が付属の貿易章程(日本開きたる港々に於て亞墨利加商民貿易の章程)の第七則に規定(関税自主権がない)されていることと片務的領事裁判権の第六條(外国人の治外法権を認める)だ.しかし,安政の大獄で弾圧された者は勅許を得ないまま調印したことに意義を唱えた者だった.

1863年から長州藩は下関を通る外国船の砲撃を始めた.将軍家茂が孝明天皇に奉答した攘夷期日に攘夷を決行したのだ.それに対し,イギリス・アメリカ・フランス・オランダの四国艦隊が下関を1864年に報復攻撃して下関戦争が勃発した.その講和条件の1つが300万ドルの巨額な賠償金だが,この賠償金は長州藩が払えるような金額ではない.これを幕府が肩代わりをすることになり,4か国との賠償金減額交渉が行われ,減額の条件として日本への輸入関税を下げる改税約書に調印したのが1866年だった.これにより日米修好通商条約の貿易章程の第七則の関税の税率が変更され,輸出関税20%(一部除外品が5%,酒類は35%)・輸入関税5%だったものが,輸出・輸入のいずれの関税も5%となった.

条約名締結日日本側アメリカ側など
日米和親条約1854年3月31日林復斎マシュー・ペリー
日米和親条約付録・下田追加条約1854年5月22日林復斎マシュー・ペリー
日米追加条約・下田協約1857年6月17日井上清直と中村時万タウンゼント・ハリス
日米修好通商条約1858年7月29日井上清直と岩瀬忠震タウンゼント・ハリス
改税約書1866年6月25日水野忠精英仏米蘭4か国の代表

この不平等条約の改正にはほぼ半世紀にもわたる長い時間が必要だった.明治政府は江戸幕府が調印した輸出関税自主権回復と領事裁判権撤廃の交渉を始めたが,それは容易ではなかった.1871年の岩倉使節団および1883年からの鹿鳴館外交では目的を達成できず,結局,江戸幕府が調印した不平等条約の改正は,領事裁判権撤廃については日清戦争直前の1894年に締結された日英通商航海条約,関税自主権の回復は日露戦争後の1911年に締結された日米通商航海条約によって,ようやく達成されたのだった.前政権が締結した条約など破棄してしまえといった暴挙に及ばなかったのは国際法を尊重したからだ.

不平等条約は不条理な戦争を仕掛ける西洋諸国から軍事的脅威を受けているときに締結された.アヘン戦争では麻薬密売取り締まりに対する軍事報復,アロー戦争では麻薬密輸船の合法的取り調べに対して軍事報復が仕掛けられ,清国は賠償金を支払い,不平等条約を締結させられる羽目に陥ったが,間接支配の段階で踏みとどまった.次の段階は植民地化による直接支配だ.ムガル帝国はセポイの乱を機にイギリス領となり,東南アジアにおいても西洋諸国の植民地は拡大の一途を辿っていた.このような国際情勢(アヘン戦争の衝撃は大きかった)を鑑みて,日本は震えあがって恐喝に屈服したのだった.他方,軍事力によって制圧されてしまったときに制定されたものが日本国憲法だ.

日本国憲法は日本が自由意志で定めた憲法ではない.憲法改正に向けて,1945年10月25日から政府内での正式な検討が始まり,民間有識者および各政党も相次いで改正草案を発表した.1946年2月8日には憲法問題調査委員会の松本烝治委員長(国務大臣)が「憲法改正要綱」を政府案(正式には松本案.GHQの内諾を受けてないので,閣議決定ができなかった)として提出したが,GHQはこれを認めず,1946年2月13日にGHQ草案(マッカーサー草案)に沿う憲法改正が指示されたのだった.なお,昭和天皇も2月7日に説明を受けた政府案の問題点を,2月9日に松本大臣を呼んで直接指摘したことが昭和天皇実録に書かれている.

マッカーサー草案に沿う憲法改正案が3月4日にGHQに提出され,この案をもとに3月5日に確定案が作成され,3月6日には「憲法改正草案要綱」として公表する運びとなった.なお,日本の憲法改正に関する権限を有するのは極東委員会(2月26日発足)なので,マッカーサー草案は極東委員会が憲法改正の政策決定を行うまえに大急ぎで起草されたものだった.GHQの指示は明らかに越権行為だが,これを「天皇を戦犯に!」と声高に叫ぶ極東委員会にリークすることはなかった.日本国憲法は政府案がGHQに屈服した産物だった.

日本国憲法はGHQ占領下の1946年11月3日に公布され,1947年5月3日に施行された.その後,サンフランシスコ講和条約が1951年9月8日に調印され,条約発効の1952年4月28日に日本は連合国による占領から解放され,GHQは権力を失い,日本は自由を獲得したはずだった.

それから70年以上も経つが,日本はGHQの意向に沿った憲法を堅持し,自らの意志で作成した政府案に差し替えることはなかった.日本国憲法はGHQの命令を受け入れて占領下の日本がやむなく制定したものだが,GHQに却下された「憲法改正要綱」は日本が独自に作成した内閣主導の政府案であるにもかかわらずだ.このことはGHQが大急ぎで取りまとめた草案に対して,憲法問題調査委員会が作成した政府案はまったくの愚案だったことを意味しているのだろうか.

レールの残る新港橋
工事中の赤レンガ倉庫
ヨコハマエアキャビンの駅

山下臨港線プロムナードに沿って歩き,2009年に開園した象の鼻パークを抜けて新港橋(歩行者専用の橋には線路が残っている)を渡れば,そこは開業20周年を迎えて大規模改修工事を始めた赤レンガ倉庫だ.さらにヨコハマエアキャビンの下を通る遊歩道を歩めば桜木町駅は目と鼻の先だ.

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文献
1. データベース「世界と日本」 https://worldjpn.grips.ac.jp/index.html
2. 徳富蘇峰,近世日本国民史 堀田正睦(四) 安政条約締結篇,講談社 (1981).
3. 国立国会図書館,日本国憲法の誕生 https://www.ndl.go.jp/constitution/index.html
4. 古関彰一,日本国憲法の誕生,岩波書店 (2017).
5. 鈴木昭典,日本国憲法を生んだ密室の九日間,KADOKAWA (2014).

(岡田 明)

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