イノベーションを生みだすもの(その4)
18歳の学生であったウィリアム・パーキン(William Henry Perkin, 1838 - 1907)はアリル・トレイジンからキニーネを合成する実験を試みたが,うまくいかず,その理由を調べるために構造の単純な硫酸アニリンを重クロム酸カリウムで処理する実験を行った.この反応で生成した黒色の沈殿物を熱アルコールで抽出すると赤みがかった藤色の溶液が生成し,それで染めた絹は光や洗浄に対して堅牢であることが分かった.1856年のことだ.パーキンは偶然発見したこの合成染料(モーヴ)の工業化を進め,これを機に合成染料の時代が到来した.
1938年のロイ・プランケット(Roy Plunkett, 1910 - 1994)によるテフロンの発見もまったくの偶然だった.大量のテトラフルオロエチレンガスをドライアイスの温度で保管し,それを開けたときに中身の一部が白い粉末に変化していることに気が付いたのだった.それがフライパンのコーティングなどに利用されているフッ素樹脂(ポリテトラフルオロエチレン,PTFE)だ.ステファニー・クウォレク(Stephanie Louise Kwolek, 1923 - 2014)がケブラーを開発した時も似た経緯だ.偶然見つけた芳香族ポリアミドを繊維にしたら,鋼鉄より強く,熱にも強いことが判明し,防弾服に応用されるようになったのだ.
石渡繁胤(1868 - 1941)が1901年に発見した細菌は害虫耐性作物への道を拓いた.この発見は直接的には経済的価値を生むことはなかったが,その知識を応用したアイデアの実践によってイノベーションが起こったのだ.石渡が行ったことは,カイコの病気「卒倒病」の原因となる細菌を特定したことだが,1909年には同じ細菌が,ドイツの研究者によって再発見されBt(Bacillus thuringiensis)菌と呼ばれるようになった.
Bt菌が生物殺虫剤(BT剤)として利用されているのは,昆虫に致命的なたんぱく質を生成する遺伝子を持っているからだ.この遺伝子を作物に取り込ませたものが害虫耐性植物だ.1987年にその遺伝子がタバコに取り込まれ,その後,害虫耐性のワタやトウモロコシがつくられた.世界で栽培されているワタの90%,トウモロコシの3分の1が害虫耐性だ.既存知識にアイデアが付与されてイノベーションが起こった例だが,その出発点は幸運な科学的な発見だった.
モーヴ,テフロン,ケブラーは偶然の科学的発見によって急速にイノベーションが起こった典型的なセレンディピティのケースだ.高温超伝導体については,銅系の複合酸化物に極低温(30K付近)での超伝導体が見出されたことが端緒であったが,その周辺の物質探索を試行錯誤することによって液体窒素温度でも超伝導を示す物質が続々と発見された(YBa2Cu3O7-δ や Bi2Sr2Ca2Cu3O10など).高温超伝導体のイノベーションはセレンディピティに試行錯誤が続いたケースだ.このように医薬・農薬を含む化学薬品や材料開発のように理論的な予測に限界のある分野ではセレンディピティと試行錯誤が開発の両輪だが,理論的な予測精度が高ければ創意工夫が最重要で,偶然や試行錯誤で発見を目指す努力は見当外れだ.
化学薬品や材料開発のような分野では試行錯誤によって目的を遂げようとする作業の中でセレンディピティへの期待も持ち続けることが肝要だ.物質科学の分野では理論的に整理されている領域は限られていて,試行錯誤によるさまざまな試みが当初の目標に到達しない場合も,新たな科学的な知見として既存の知識データベースに付け加わって科学の深化に寄与することが特徴なのだ.実際,材料特性データベースのほとんどは製品化された材料のデータに,材料開発の試行錯誤の中で得られた研究データを追加して整理したものであり,このような世界は創意工夫によってイノベーションが進行する技術分野とは異質だ.
無機化学についての知識も,硫酸,ソーダ灰,さらし粉,金属精錬,ポルトランドセメント,銀塩写真,アンモニア合成,ファインセラミックス(電子セラミックスや構造用セラミックス)および高温超伝導体などの開発のなかで深化した.有機化学については,合成染料,医薬品合成そして合成樹脂や繊維やゴムを含む高分子合成のなかでの知識集積が図られた.ロバート・ボイルやアントワーヌ・ラヴォアジエの化学への貢献が大きいことに異論はないが,錬金術に限らず,目的を達成しようとする試行錯誤の副産物として化学知識は効果的に増殖したようだ.
セラミックスの分野における技術革新も,セレンディピティや試行錯誤に負うところは大きい.偶然であれ努力であれ,幸運に恵まれた発見が技術革新を先導してきたのは事実だ.アルミナの焼結に及ぼすマグネシア添加の効果,炭化ケイ素の焼結に及ぼすホウ素と炭素の添加,PTCサーミスタの特性に及ぼす添加成分の影響,酸化亜鉛バリスタへのビスマス添加効果など実例には事欠かない.
文献
1. 加藤邦興,化学の技術史,オーム社 (1980).
2. 高橋武雄,化学工業史,産業図書 (1973).
3. 竹内均編,科学の世紀を開いた人々,ニュートンプレス (1999).
4. マット・リドレー,人類とイノベーション,ニュースピックス (2021).
5. R・M・ロバーツ,セレンディピティー,化学同人 (1993).
6. Akira Okada, Introduction to Industrial Technology – Research and Development for Technological Progress, Nova Science Publishers (2013).
(岡田 明)