上野山を高談闊歩する(その3)

彰義隊は慶応4年(1868年)2月12日 (旧暦) に一橋家の有志17名 (本多敏三郎と伴門五郎が発起人) が雑司ヶ谷の茗荷屋に集まって,1月10日に発令された徳川慶喜追討令への対応策を画策したことが始まりだ[1 - 4].次いで,2月17日と21日の四谷円応寺での会合でも議論が進み,「同盟哀訴申合書」に署名血判が行われた.そして22日には浅草本願寺に集結し,隊名を彰義隊とした.頭取は30歳の渋沢成一郎で副頭取は37歳の天野八郎,そして幹事には23歳の本多敏三郎,28歳の伴門五郎,25歳の須永於菟之輔が就任した.天野八郎を除くと,いずれも一橋家に縁のある若手メンバーだ.

幕臣以外の加盟を禁じた彰義隊が旧幕府の公認となったのは3月10日のことで,使番格目付支配書役の小田井蔵太が彰義隊頭に任命された.慶喜が謹慎していた上野山には先任の警備陣 (山岡鉄太郎の精鋭隊など) がいたので,彰義隊は江戸市中で慶喜の警備を担当することになったのだが,3月中旬に彰義隊は上野山に入った.勝海舟と西郷隆盛との直前の会談で3月15日の江戸総攻撃は回避されたが,新政府軍が板橋と品川から砲撃するとの風聞が広がっていた時期だった.

4月4日に慶喜は水戸に退去を命じられ,江戸の無血開城となった11日に水戸に向かった.彰義隊が上野山に留まる理由はこれで霧散したのだが,彰義隊は上野山に残った.頭取の渋沢成一郎は上野撤退を説いたものの賛同者は少なかったからだ.副頭取の天野八郎が身分を問わず隊士を加入させていて,このような連中が乱暴狼藉を働いていると渋沢が後に述懐したことが「藍香翁」には記されている.

渋沢は彰義隊を離脱して新たに振武軍を4月下旬に発足させ,5月1日には田無の西光寺に陣を構えて周辺の村から軍用金を供出させることに成功した.そして5月11日には新政府軍からの奇襲を避けるために,江戸から 40 km 以上離れた西多摩郡 (箱根ヶ崎の円福寺) に転陣した.これだけ離れていれば,敵が奇襲を掛けようとしても途中で一泊するので,敵の消息を知ることができるのだ.

他方,彰義隊への加盟者は増え続けていた.彰義隊は慶喜に代わって,天皇として擁立される噂のあった20歳の寛永寺貫主・輪王寺宮 (後の白川宮能久親王) を奉じていた.彰義隊の目的は慶喜の警護から輪王寺宮の警護に変更されたのだ[注1].そして彰義隊の構成員も一橋家に縁のないメンバーが主力となったようだ.

大村益次郎が指揮する東征軍総督府は諸藩に彰義隊討伐を13日に布告し,5月15日に上野戦争となった.豪雨の中,戦闘は朝の8時頃から黒門口 (寛永寺の総門) で始まった.山王台 (犬を連れた西郷隆盛像が置かれている辺り) から南に進む階段を降りたところにある黒門跡のある辺りだ.薩摩,因州 (鳥取),肥後の3軍が黒門口,長州と大村 (長崎) 藩兵が背後の団子坂に布陣して攻撃したのだが,主戦場は黒門口であった.午後になって本郷台に据えた佐賀藩のアームストロング砲が不忍池越しの山王台と根本中堂 (現在の噴水池の辺り) を標的に砲撃を始めると,午後2時ごろには彰義隊は防戦一方となり,多くの隊士は根岸や三河島方面に敗走して上野戦争は決着した.彰義隊の戦死者は266名と記録されている.

上野を脱出した輪王寺宮は品川沖に停泊中の超鯨丸で25日に出港し,会津を経て仙台に入って5月6日に発足した奥羽越列藩同盟の盟主 (就任は6月16日) になった.この同盟は会津藩・庄内藩の「朝敵」赦免嘆願を行った同志的結合が,赦免嘆願が拒絶された後に軍事同盟に変貌したものだ.天野八郎は7月13日に残党狩りの兵士に捕獲されて獄に繋がれ,11月8日に病死した.

彰義隊の墓があるのは西郷隆盛像のすぐ近く,激戦のあった黒門口の近くの山王台だ.1882年に建てられた墓石には彰義隊の名はなく「戦死之墓」と刻まれている.なお,墓碑の台座の上に置かれた71.5 cmの碑は墓碑建立工事中に土中から発見されたのだが,そこには彰義隊戦死之墓と刻まれている.これは1869年に寛永寺・護国院と寒松院の住職が埋納したものである.上野戦争碑記は寛永寺・根本中堂の前庭にある.黒門には戦闘の銃痕が残っているが,1907年に円通寺に移築された.なお,当時の銃撃跡は寛永寺近くの経王寺山門に現在でも残っている.上野公園の西郷隆盛像は1898年に高村光雲が制作したものだ[注2].

振武軍追討の戦闘 (飯能戦争) は5月23日に始まったが,東征軍の砲撃を飯能に陣を構えた振武軍が銃撃で対抗することは困難であり,振武軍は敗走した.上野戦争で敗走した彰義隊,飯能戦争で敗走した振武軍は旧幕艦に搭乗して北に向かった.10月26日に五稜郭に入城すると,10月28日には土方歳三を総督とする松前攻略軍が出陣し,11月5日に攻略戦が始まって11月22日になると蝦夷地の平定は完了した.そして旧幕府軍が在留の各国領事や土地の有力者を招いて蝦夷地平定の祝賀会が開かれたのは12月15日だった[2].その日には閣僚選挙も行われ,榎本武揚が総督に選出された.これで蝦夷共和国が誕生したのだが,翌年の3月25日には新政府艦隊との宮古湾海戦が起きた.そして,4月9日に新政府軍が上陸し,4月17日には松前を占拠した.新政府軍は5月11日から五稜郭と箱館市中への攻撃を開始し,5月18日には榎本武揚が正式に降伏して旧幕府軍の抵抗は潰えた.

彰義隊は一橋家の家臣が主君・徳川慶喜を守ることを目的に結成されたので,慶喜が蟄居する上野山 (寛永寺の境内) を警護することは筋が通っているが,既に旧幕府軍が上野山を警護していたので代わりに市中の警護に当たった.そして,慶喜が水戸に去った後には,水戸での警護に移行することもなく上野山に残り,警護する対象を変更した.結成の目的を破棄して新たな目的を設定したのだが,上野山に陣を敷いて新政府軍に対峙する行動には変更がなかった.

彰義隊の組織としての特徴は,結成に当たって設定した目的がその後に柔軟に変更されたことだ.そして堅持されたのは武装組織としての継続だ.目標を達成するために結成された組織が,組織の継続のためにその目的を変更することは本末転倒なのだが,これが彰義隊に特有な現象だとは考えにくい.達成すべき当初の目的がなくなったときに組織が解散した例は稀だからだ.組織の構成員の多くにとっては,目標の達成より生活の糧となる組織の継続が重要なのだろう.

上野戦争で敗走した彰義隊の残党は北に向かった.そして奥羽越列藩同盟軍から米沢藩,仙台藩,会津藩が次々と脱落すると,蝦夷に向かう以外の選択肢は消え去った.達成すべき組織としての目標も霧散し,残ったものは敵との戦いの継続だ.桑名藩主・松平定敬と備中松山藩主・板倉勝静 (元老中首座) は蝦夷に同行したのだが,蝦夷共和国での象徴的な役割すら与えられず,旧幕府軍が劣勢になった頃,板倉勝静は備中松山藩士に連れ戻され,松平定敬は上海経由で横浜に向かい謹慎生活に入った.本人は蝦夷政府での盟主就任を期待していたのかもしれないが,周囲の見方はそうではなかったようだ.

江戸城の無血開城によって討幕派は権力を掌握したのだが,新政府軍の明確なビジョンは徳川氏を排除した政権樹立までだったから,その先の新たな国家建設は混迷の中で進められた.1869年の版籍奉還に続いて,1871年に廃藩置県が断行された.版籍奉還については藩主が知藩事となって藩政を担うのだから形式的な変更とも見なせるが,廃藩置県は幕藩体制が完全に解体され知藩事が罷免されるのだからクーデターだ.廃藩置県が大きな混乱もなく進んだのは,多くの藩が戊辰戦争で負債を抱えて経済的に疲弊し,財政的にはすでに破綻してしまっていたからのようだ.佐幕派を一掃した戊辰戦争は,幕藩体制の経済破綻でもあったのだ.

欧米を歴訪していた岩倉使節団が帰朝した1873年には断髪令が,1876年には廃刀令が発布され,開明的な諸政策によって新たな時代の到来が具現化した.その一方で,反対勢力が暗殺によってその意志を表明したことは幕末からの時流を継承するものだ.1869年の横井小楠と大村益次郎,西南戦争の翌年の1878年には大久保利通が暗殺された. 

寛永寺は上野戦争の戦場だったのだが,何のための戦いだったのかを彼らが理解していたかどうかを理解することは容易ではない.彰義隊からは一橋家に縁のあるメンバーが次々と離脱し,残ったメンバーは情報に疎い烏合の衆に変化している.勝海舟に出会う前の坂本龍馬と同じく,若い彼らが日本を取り巻く国際情勢や銃砲の技術進歩について熟知していたとは考えにくいからだ.

一般に情報が少なければ決断は容易だが,情報が多くなれば決断は困難になる.問題が複雑になって,解を得ることが難しくなるからだ.保有する知識量が少なければ決断力が高まるとすれば,問題を単純化することで決断は容易になる.しかし,大局を見て細部に立ち入らないことは一見して分かり易いのだが,現実には細部に宿る悪魔が本質を支配するから,直截的に問題が解決すると期待される分かり易い判断が危ういことは言うまでもない.少なくとも三手先を読まなければ最善手かどうかの判断ができないのと同様に,先を読めずに鋭意決断して実行したことに対して人々は思い思いの反応をするから,結果的に不適切な判断が新たな問題を発生させて事態はますます悪化することにもなりかねない.

民主主義の制度は知識と情報に疎い烏合の衆が決定権を有する制度だ.烏合の衆の民意が反映される民主政治で,細部を切り捨てて問題を単純化することで本質が切り捨てられてしまった課題の解決に取り組むことが繰り返されれば,結果的に不適切な施策が積み重ねられて事態がますます悪化することも覚悟しなければならない.事態が悪化して権威主義体制に移行してしまえばその修正には暴力的な革命が必要になるかもしれないが,選挙によって路線変更が可能ならばまだ救いはある.

[注1] 彰義隊の新たな任務は輪王寺宮の警護に加えて,徳川家の三つの宝物の保護だった.この宝物とは,天海のふくさ,降魔の利剣,そして探幽が描いた家康の座像である.上野戦争の最中,この宝物を守り切ったのは彰義隊ではなく,東叡山寺代官・田村権右衛門配下の手代・辻暁夢だった[3].辻は宝物を風呂敷包みにしてゴミを捨てる大穴に埋めて,官軍の群れのなかに飛び込んだ.そして,夜になると火災から免れた宝物を掘り出して本覚院の住職に手渡すことで焼失から守り切ったのだ.もう一つの任務についても彰義隊は完遂できなかった.寛永寺を退去した輪王寺宮は江戸市中を転々としたのだが,同行したのは彰義隊ではなかったからだ[3, 4].

[注2] 西郷隆盛は維新の功臣だが,西南戦争によって明治の逆賊となった.上野戦争では黒門口攻撃を指揮したのだから,軍服姿で現在の松坂屋上野店のあたりに陣を敷いていたはずだ.1889年の大赦によって逆賊の汚名が解かれたのをきっかけに建設計画が始まり,銅像は1898年に完成した.当初は軍服姿での銅像を計画したが,明治政府に叛いた経緯から反対があって和装で犬を連れた姿に変更された.

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文献
1.安藤優一郎,江戸のいちばん長い日,文春新書 (2018).
2.菊池明,上野彰義隊と箱館戦争史,新人物往来社 (2010).
3.木下宗一,彰義隊,早川書房 (1965).
4.永岡慶之助,彰義隊戦記,新人物往来社 (1972).

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