上野山を高談闊歩する(その1)

陰陽五行説は陰陽思想 (陰陽,天地,偶奇などの相反する2つの性質を原理とする二元論) と五行思想 (木,火,土,金.水の5つの原素による輪廻・循環作用) がもとになった思想体系だが,風水,家相,干支とも関係し,鬼門や姓名判断などを通じて現在でも影響力を維持している[1a, 1b].実際,60年に1度の丙午 (ひのえうま) の年には出生率が低くなった (1966年の出生率は例年に比べて3割近く低かった.そして次の丙午は2026年).姓名判断は字画数とその偶奇によって運勢の予測を行うもので,熊崎健翁が昭和の初めに考案した方式が普及している[2].

家相には建築学的観点に符合する合理的な示唆も含まれているが,中国から伝来した風水が日本で独自に進化したことによって,玄関,キッチン,トイレなどを設置する方位で吉凶を占うといった要素も含まれている[3a, 3b].北東方向が鬼門,南西方向は裏鬼門で,水回りや玄関の設置を避けるのは,いずれも鬼 (邪気) が出入りする不吉な方向だからだ.神の祟りによって疫病や地震などの天災が起きるのを避けるためには鬼門除けが必要とされる.鬼門に猿の像を祀り,ヒイラギや南天を植えるのだ.申 (猿) は鬼門の反対方向を指す方位 (西南西) であることから,邪気を払う力があるとされた.

安倍晴明が陰陽師として活躍した平安時代には,鬼門除けに寺社を設置する都市計画が本格的に採用された.平安京の鬼門には,猿神像が祀られた幸神社,拝殿の屋根に邪気を払うとされている猿が置かれている赤山禅院 (延暦寺の別院) に加えて比叡山延暦寺が配置され,南西の裏鬼門方角には石清水八幡宮を配して魔を封じた.鎌倉幕府の鬼門には荏柄天神社,裏鬼門には夷堂 (その地に現在の本覺寺が創建されたのは1436年) が建てられた.東叡山寛永寺は江戸城の鬼門に設置された魔除けで,裏鬼門には芝の増上寺を平河町から移設した.

東叡山寛永寺は1625年に慈眼大師・天海僧正を開祖として創建された天台宗の寺で,江戸城の鬼門にあたる上野台地 (江戸初期には津軽,藤堂,堀家の屋敷があった) に建立された.山号の東叡山は東の比叡山という意味だ.東叡山寛永寺の歴代の山主は皇室から迎えられた輪王寺宮で,1656年から比叡山延暦寺と日光山輪王寺の山主も兼任するようになった.そして1680年に没した德川家綱の霊廟が寛永寺に造営され,それからは将軍家の菩提寺も兼ねるようになった[注1].

上野公園・噴水池の辺りに1698年に創建された寛永寺の本堂・根本中堂は1868年の上野戦争によって焼失し,そこに現存するのは寛永寺根本中堂跡の説明板だ.それによれば,いま噴水池のある辺りには回廊が巡らされ,根本中堂が建っていた.その堂内には本尊の薬師如来が奉安してあった.そして,中堂前の両側に延暦寺中堂からの竹が植えられ「竹の台」とよばれていた.

寛永寺の堂塔伽藍のほとんどは上野戦争で焼失し,寛永寺の復興が認められた1879年に子院だった大慈院跡に川越の喜多院から本地堂を移築したものが現在の根本中堂である.なお,1638年建造とされる寛永寺の総門 (黒門) は銃撃による弾痕はあるものの焼失を免れ,1907年に彰義隊戦士の墓のある南千住の円通寺に移築された.そして焦土と化した東叡山寛永寺の敷地の大部分は上野公園になり,焼失を免れた寛永寺の建造物が上野公園内に散在する[4, 5].

琵琶湖に見立てた不忍池に浮かぶ島を竹生島に見立て,宝厳寺に見立てた入母屋造の辯天堂を寛永年間 (1624~1643) に建立したのだが,それは空襲で焼けた.そこで,1958年に鉄筋コンクリート造りの八角堂として再建したものが現在の辯天堂である.五條橋から五條天神社,花園稲荷神社を経て坂を上れば,時鐘堂が上野精養軒の入り口付近に建っている.花園稲荷神社は忍岡稲荷あるいは穴稲荷と称されていたもので,中世以降に荒廃していたものを1654年に再興したものだ.この神社は上野戦争で破却されてしまったが,1873年に再び花園稲荷神社と改名して蘇った.五條天神社は元来摺鉢山に鎮座していたが,遷座によって1928年にアメ横入り口から現在の地に移転したとされる.いずれにしても花園稲荷神社と五條天神社の創建が寛永寺より古いことは確かのようだ.寛永寺・時鐘堂の現在の鐘は1787年に改鋳したものである.旧寛永寺・五重塔は1631年に建立されたが,1639年に焼失し同年に再建された[注2].京都東山の清水寺を模して,1631年に天海大僧正によって建立された清水観音堂は秘仏として千手観音を祀っている.

1631年に建造された上野大仏は京都・方広寺の大仏に見立てて表面を漆喰で固めたものだが,地震で倒壊したので1655~60年頃に青銅で作り直した.その後も火事と地震で破損と修復が繰り返された.関東大震災では高さ6メートルの釈迦如来像の頭部が落下したので撤去となった.それを保管していたのは寛永寺だが,戦時中の金属供出で持ち去られたので (顔面部を除く),残った顔面部がレリーフとして1972年に旧跡に安置されている.そのため数ある大仏のなかでも,最も近い距離から拝顔可能な小さな大仏になった.そして1967年には,薬師瑠璃光如来を祀るパゴダ (仏塔) が大仏殿の跡地に建立された.

寛永寺輪王殿の黒門は輪王寺宮が居住していた旧本坊の表門で寛永年間の建立だ.輪王殿の隣には1993年に再建された両大師 (慈眼大師天海大僧正と慈恵大師良源大僧正) を祀る開山堂がある.輪王殿と開山堂の間は幸田露伴旧宅から移築された小さな門で仕切られ,開山堂の左側にある池には不忍池のハスに比べればかなり小ぶりな大賀ハスが植えられている.隣の東京国立博物館の入り口を通り過ぎて,東京芸術大学方向に向かう途中に旧因州池田屋敷表門 (黒門) があるが,その門は閉ざされている.さらに進めば,京成電鉄の博物館動物園駅の駅舎 (1933年開業,1997年営業休止) があるが,これも2004年に廃駅となったのでその入り口の扉は閉ざされたままだ.

厳有院霊廟は上野寛永寺境内に設けられた徳川家綱の霊廟で1681年に完成した.そのほとんどは焼失したが,勅額門は焼け残った.常憲院霊廟も上野寛永寺に造営された徳川綱吉の霊廟で竣工は1709年だ.その大部分は焼失したが,その勅額門は焼け残りとして現存する.

上野東照宮は1627年に創建された徳川家康 (東照大権現) を祀る神社だ.上野戦争,関東大震災,東京大空襲にも耐えて現存する金色殿や透塀,唐門は1651年に徳川家光が造営替えを行った.金色殿は1627年の創建だが,1651年に建て替えられた.金色殿唐門の両側には6基の銅灯籠が並んでいるが,これは1651年に紀伊・水戸・尾張の御三家から奉納された灯籠である.金色殿は非公開だが,透塀の向こう側にわずかに垣間見ることができる.なお,東照宮は日光東照宮や久能山東照宮だけでなく,岡崎市 (滝山東照宮),太田市 (世良田東照宮),川越市 (仙波東照宮)を始め全国に700社ほど建立されている.

鬼門に寛永寺を据えた江戸幕府は明治維新で崩壊するまで約260年にわたって存続し,江戸城は皇居となって現存する.これは寛永寺が鬼門として江戸城を護った御利益なのかもしれないが,幕末の江戸幕府を護ることができたのかははなはだ疑問だ.

[注1] 徳川家康の霊廟は久能山東照宮と日光東照宮,徳川秀忠は増上寺,徳川家光は日光の輪王寺だが,それ以降の霊廟は寛永寺 (徳川家綱,徳川綱吉,徳川吉宗,徳川家治,徳川家斉,徳川家定) と芝の増上寺 (徳川家宣,徳川家継,徳川家重,徳川家慶,徳川家茂) だ.そして徳川慶喜は谷中寛永寺墓地に埋葬された.

[注2] 五重塔は上野東照宮の一部だったが,明治時代に発令された神仏分離令により取り壊しの危機を迎えた.この危機を乗り越えるため,東照宮五重塔は寛永寺五重塔と名前を変えて取り壊しを免れた.その後,五重塔は1958年に寛永寺から東京都に寄付された.現在の五重塔は上野動物園の敷地内にあり,東照宮から五重塔へのかつての参道はこの2つを遮る塀で遮られている.

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文献
1.例えば,(a) 稲田義行,現代に息づく陰陽五行,日本実業出版社 (2016).
 (b) 吉野裕子,陰陽五行と日本の民俗,人文書院 (2021).
2.岡田誠,熊崎式姓名判断の源流,人体科学,32 [1] 34-42 (2023).
3.例えば,(a) 宮内貴久,風水と家相の歴史,吉川弘文館 (2009).
 (b) 清家清,家相の科学,光文社 (2000). 
4.寛永寺:https://kaneiji.jp/
5.上野東照宮:https://www.uenotoshogu.com/

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