上野山を高談闊歩する(その2)

鳥羽・伏見の戦いから帰還した徳川慶喜が蟄居した部屋は上野寛永寺・大慈院にあった.

慶應3年(1867年) は波乱の年だった[注1].旧暦の10月14日に大政奉還が行われ,11月15日に坂本龍馬が暗殺された.12月9日に王政復古の大号令が発表されると,徳川慶勝 (尾張藩) と松平春嶽 (越前福井藩) の進言により,徳川慶喜は12日の夕方に二条城を退去し13日未明に大坂城に入った.冬の夜間の移動は寒かったので慶喜は風邪を引いた.

翌慶応4年になると波乱はさらに拡大した.西郷吉之助 (西郷隆盛) が企てた江戸での挑発行動が功を奏し,鳥羽・伏見の戦いが勃発したのだ[1].江戸での挑発行動とは,500人の浪士隊を組織し,御用金強盗,警備詰所への銃撃,江戸城への放火などを行って薩摩屋敷に逃げ込むことを繰り返すことだ.治安を乱すテロリストの露骨な挑発に乗った庄内藩 (新徴組を指揮して江戸の警備を担当) は薩摩藩に犯人引き渡しを求めるが,もちろん断られる.そして薩摩藩邸焼き討ちの命令が12月25日に出された.両軍の戦闘が江戸で始まったことで,西郷の目的は達成されたのだ.

鳥羽・伏見の戦いの始まりは翌慶応4年(1868年)の1月3日で,錦の御旗が戦場に翻ったのは5日だった.そして6日夜に徳川慶喜は大阪を脱出し,7日に関陽丸で江戸に向かった.12日に浜御殿 (浜離宮恩賜庭園) から上陸し,江戸城に入った.そして東叡山寛永寺・大慈院の葵の間に慶喜が蟄居したのは2月12日であった.

現在の根本中堂の建物は川越・喜多院の本地堂が大慈院の地へ1879年に移築されたもので,渡り廊下で葵の間と接続されている.現在は非公開のため内部を伺い知ることはできないが,葵の間を取り囲む塀は公開されているから,塀の隙間から内部を垣間見ることは可能だ.

鳥羽・伏見の戦いは,風邪を引いて寝込んでいた慶喜が朝命により大坂から入京するに際し,旧幕府軍がそれに先立って勝手に進軍したのだが,薩摩藩の江戸でのテロ行為等を朝廷に訴える討薩表を掲げる旧幕府軍の進軍を薩摩軍が妨げて銃撃に及んだことが始まりだ.銃撃を受けた旧幕府軍は応戦したが,それによって前年の江戸での交戦が鳥羽・伏見にも波及したことになる.好戦的な西郷の策略に旧幕府軍はまんまと嵌められ,戊辰戦争が始まったのだ[2a, 2b, 2c].

3月15日に予定された東征軍の江戸総攻撃は,3月13日と14日に西郷隆盛と勝海舟との会談が行われて回避され,4月11日に江戸の無血開城に至った.徳川家の存続は許されたのだが,その石高の決定は先送りされた.

トップの責任者が決断を下したとしても,十分な説明責任が果たされなければ,組織の構成員が納得するとは限らない.そして徳川慶喜は蟄居しているのだから,旧幕府の責任者も曖昧だ.その結果,旧幕府軍は脱走し,榎本武揚が指揮する旧幕府の軍艦は引き渡しを拒否して江戸湾を脱出した.このような行動から察するに,徳川政権は必ずしも上意下達のトップダウン型ではなく,各担当が自主的にミッションを担う民主的組織の要素もあったようだ.

幕府軍に代わり治安を維持する新政府軍となったのは,前年に江戸での犯罪を繰り返して治安を乱していた薩摩軍などが母体だ.当然ながら,新政府軍への江戸庶民の反発は強く,旧幕府の脱走兵と上野山に結集した彰義隊の人気は高い.新政府が江戸での治安維持を旧幕府の田安慶頼,勝海舟,大久保一翁に委ねたのは閏4月のことだった.

旧幕府海軍の武力は圧倒的で,旧幕臣を乗せて蝦夷地に向かい,蝦夷共和国 (君主をもたない) を築くことになる.慶喜が蟄居するなかで,脱走した旧幕府軍は宇都宮 (4月19日と23日の宇都宮城での攻城戦),上野戦争 (新政府軍による5月15日の彰義隊討伐) そして箱館五稜郭 (榎本武揚らによる蝦夷共和国の建国と滅亡) で戦ったが,いずれも新政府軍に惨敗した[注2].他方,東北地方では会津藩の救解を当初の目的とする奥羽越列藩同盟が仙台藩と米沢藩の主導により結成されたが,奥羽諸藩はいずれも新政府に降伏することになる[注3].江戸は7月に東京になり,7月末に徳川慶喜は駿府に移った.睦仁親王は8月27日に天皇に即位し,9月8日に明治への改元が行われた.そして9月20日に明治天皇は東京に向かった.

寛永寺は徳川家の菩提寺で,徳川慶喜が蟄居した寺だが,上野戦争で焦土となり,現在は上野公園となっている.大政奉還を挙行した慶喜は,鳥羽・伏見の戦いでは大坂城から江戸に退却して寛永寺に蟄居した.この決断に至った理由については憶測の域を超えることは難しいが,政治的決断が独断であることには間違いがなさそうだ.回想談には1913年に没するまでの出来事が語られているが[3, 4],これで政治的決断に係わる説明責任を十分に果たしたのかは明らかではない.

決断に係わる説明責任は時間的な遅れがあれば意味を失う.脱走した旧幕府軍や佐幕派は江戸幕府に対する忠義というミッションの達成を目指したのだが,そのトップである将軍・慶喜のミッションが江戸幕府への忠義とは限らない.トップのミッションを達成するための手段として部下のミッションが設定されるとすれば,リーダーは何を達成するべきかについての理解を得るべく十分に説明する責任があるのだが,少なくとも慶喜が最も優先する事項を部下に十分に説明・説得した形跡はない[注4].十分な説明責任を果たさず,寛永寺に蟄居してしまった徳川慶喜の行動はリーダーとして如何なものだったのだろうか.

鳥羽・伏見の戦いから帰還した徳川慶喜が蟄居した部屋は,現在,上野寛永寺・根本中堂と渡り廊下で接続されている.

[注1] 公武合体の維持を望む孝明天皇が崩御した1866年12月25日以降,公武合体派の勢力は急速に減退し,討幕派の勢力が大きくなった.14歳で父を失った睦人親王が践祚して天皇を継承したときの摂政・二条斉敬は親幕派だが,天皇の外祖父・中山忠能は反幕派だったからだ.1867年10月14日に薩摩藩と薩長両藩に下された討幕の密勅には中山忠能の署名がある.倒幕の密勅は大政奉還によって失効したので,薩摩藩は江戸での騒乱を起こして倒幕の口実を得ようと画策した.12月9日の小御所会議では王政復古の大号令に山内容堂が反対したが,暗殺をほのめかされて沈黙したとされる.これで討幕派のクーデターが成功し,戊辰戦争への扉が開かれた.

[注2] 徳川慶喜が蟄居するなかで,旧幕府軍の一部は抵抗した.江戸では上野山に立て籠もった彰義隊は5月15日に新政府軍に敗北し,8月19日に榎本武揚の率いる軍艦8隻とともに品川沖を出港した.艦隊が仙台藩松島湾に到着する頃に会津藩は籠城戦に突入しており,奥羽越列藩同盟軍の敗色は濃くなっていた.10月9日に旧幕府艦隊は松島湾から石巻市の折浜に移り,10月12日には蝦夷地に向けて出港した.このとき会津から転じた旧幕軍諸隊の相当数も乗り込んだ.そして10月26日に箱館五稜郭を接収し,蝦夷地を平定して蝦夷共和国を設立したのだが,翌年(1869年)の4月9日には新政府軍が上陸して5月11日から五稜郭と箱館市中への攻撃を開始し,5月18日には榎本武揚が降伏して旧幕府軍の抵抗は潰えた.

[注3] 追討の対象とされた会津・庄内藩の同盟が1868年4月10日に結ばれた.会津・庄内両藩の計画はこの同盟を奥羽諸藩の同盟に拡張することだったが,実際には会津藩を救解する奥羽越列藩同盟が奥羽鎮撫総督・九条道孝を擁する仙台藩を中心に5月3日に結成された.しかし,5月18日に総督が仙台を脱出したこともあって,上野を脱出して6月2日に若松に入った輪王寺宮 (後の北白川宮能久親王,当時は20歳) を盟主に迎えることとした.5月15日に事実上の開港となった新潟港を擁する長岡藩では新政府軍との戦闘が起こった.北越戊辰戦争である.会津藩征討のために5月2日に新政府軍が迫ると,長岡藩内では抗戦と恭順を巡る議論があったが,家老の河井継之助が主導して開戦に至った.長岡藩が銃砲の技術力に勝る新政府軍によって制圧されたのは7月29日だった.米沢藩は本領安堵の条件で8月28日に投降し,仙台藩も本領安堵の意向を受けて9月15日に降伏した.8月23日に始まった会津若松城での会津城籠城戦では,8月23日に白虎隊 (会津藩では年齢別の部隊が編成されていた.白虎隊は16~17歳,主力の朱雀隊は18~35歳,青龍隊は36~49歳,そして玄武隊は50歳以上) が飯盛山で自刃し,9月22日に会津藩は新政府軍に降伏した.そして庄内藩も9月26日に恭順に追従した.なお,輪王寺宮は9月22日に恭順を申し出て,江戸に護送された.

[注4] 徳川慶喜が大阪からした帰還し寛永寺に蟄居に至った理由を,帰還に同行した松平容保 (会津藩主),松平定敬 (桑名藩主),老中首座・板倉勝静 (備中松山藩主) らに説明し,理解を得たとは考えにくい.いずれも佐幕派として活動して幕府への忠義を貫き,新政府には与しなかったのだ.松平容保は会津戦争を戦った.松平定敬は家老たちが恭順を決めていた桑名藩には戻らず,柏崎 (桑名藩の飛び地領) から会津 (兄の松平容保の領地) を経て箱館へ渡った.その後,定敬は翌1869年4月に箱館を脱出して上海に渡り,5月に横浜に戻って永預 (終身禁固刑) となった.備中松山藩の留守を預かる山田方谷は,鳥羽・伏見の戦いの直後に板倉勝静を強制的に隠居させたが,勝静は奥羽越列藩同盟の参謀となって五稜郭まで転戦した.そこで,山田方谷は藩士を派遣して1869年5月に勝静を強制的に箱館から連れ戻させた.勝静も自訴して,永預となった.

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文献
1.例えば,野口武彦,鳥羽伏見の戦い,中央公論新社 (2010).
2.例えば,(a) 金子常規,幕末・戊辰戦争,中央公論新社 (2017).
 (b) 保谷徹,戊辰戦争,吉川弘文館 (2007).
 (c) 佐々木克,戊辰戦争,中央公論新社 (1977).
3.渋沢栄一,徳川慶喜公伝4,平凡社 (1968).
4.渋沢栄一編,大久保利謙校訂,昔夢会筆記(徳川慶喜公回想談),平凡社 (1966).

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