鰻のまち浦和

JR浦和駅の西口に出るとサッカ−のイルミネーションと、やなせたかし作の「うなこちゃん」人形が迎えてくれる。

 私の祖母が大の鰻好きで、私は子供の頃「幸楽園」と言う鰻屋に良く連れて行ってもらった。入り口の上がり框が大きなケヤキの一枚板だった事を覚えている。小学生の頃、自宅の二階の東の窓から大きな火事が見えた事を今でも覚えている。10km程離れていたが、夜中の火事は近くに見えた。幸楽園が全焼だった。幸楽園は再建されたが、今は見る影もない。5年以上前一度行ったが、客が来ても店員がテレビを見ていてサービスも悪いし、味もイマイチだった。

 祖母から聞いた話だが、小島屋は、田んぼの中の一軒家で、お客が来ると「お客さんだよ〜」という声を聞いて田んぼから鰻を捕ってきてこれを捌いて焼いて出すと聞いた。田舎臭く祖母は幸楽園の方を好んでいた。幸楽園が火事になった後、小島屋はゴルフ帰りの客をうまく取り込んで大きくなった。祖母が亡くなる前、私の法事は精進料理よりも鰻の方が良いと言い残したので、毎年一回は小島屋に行った。

15年前浦和に戻ってからも時々小島屋に行き、友人が来ると小島屋に連れて行った。しかし、店員の態度が「うちの店は格が高いのだ」と威張った感じで、皮が固く、鰻以外の料理も殆ど出さないので、孫達の食べるものがある谷田川に行く事が多くなった。

 先週、一年振りに小島屋に行った。値上がりしていた。一番安い鰻重の松(肝吸とお新香付)が¥5000だった。

 この記事を書きながら一寸浦和の鰻の歴史を調べてみた。

 さいたま市浦和区には白幡沼や別所沼が有り、沼影、井沼方、見沼といった”沼”が付く地名があったり、”田”が付く地名も多く、沼や用水路などが多かった事が判る。即ち江戸時代には、浦和はうなぎの生息に適していたようである。そのたくさん獲れるうなぎを中山道三番目の宿場町・浦和宿を行き交う人々に蒲焼にして提供し、大評判になったのが浦和のうなぎの始まりと聞く。

 20店舗以上ある浦和の鰻屋で、一番古いのは山崎屋(著者の小学校の同級生の家)で、江戸時代に紀州藩邸に献上し、昭和天皇、上皇、今上天皇と3代に亘って山崎屋の鰻を食されたとある。小島屋は創業200年、萬店は明治19年、満寿屋は明治21年、幸楽園は昭和5年、谷田川は昭和47年創業と有った。

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