初めての浅草観光(その3:土人形と今戸焼)

今戸神社は1063年に奥州の安倍貞仁・宗仁兄弟の討伐に向かう源頼義と義家父子が京都の石清水八幡を鎌倉鶴岡(由比若宮にある元八幡のこと.それを1180年に現在の雪の下に遷したのは源頼朝)と浅草今津村(現在の今戸)に勧請したことに始まる[注1].今戸八幡宮と称していたが,1937年に白山神社を合祀して今戸神社と改称した.

隅田川の沿岸は瓦などの土器生産が盛んであったようで,今戸では18世紀前半頃に本格的な土器生産が始まったと考えられている.ほうろくや火鉢などの日用品の土器類や土人形を焼く今戸焼は江戸を代表する焼き物としてかつて繁栄し,今戸焼の土人形(今戸人形)は江戸・東京の郷土玩具として親しまれていた.ところが明治半ば頃になると今戸焼は衰退し,関東大震災や東京大空襲によって職人が区外に移ったことも衰退に輪をかけた.今戸人形の伝統は,関東大震災の後,「尾張屋」金沢春吉の尽力によって再興したが,その後は衰退の一途を辿った.今戸神社には今戸焼発祥之地の石碑が設置され,招き猫が飾られている.

今戸神社
今戸神社の招き猫

今戸焼の土人形の源流は京都の伏見人形だ.粘土を型に入れて成型し,それを素焼きしたものに胡粉(砕いた貝殻)をかけて白くした表面を泥絵具で彩色する.伏見人形の製法は全国各地に伝わり,そのひとつが今戸焼(今戸人形)だ.台東区の白井家に伝わる今戸人形の型は堅い粘土だが[1],今戸人形の昔ながらの姿を再現する赤羽での試みでは石膏の割型が使われている[2].仙台の芳賀つつみ人形製造所[3]では,粘土を3種類ほど練り合わせ,それを5~10年寝かせてから使用する.石膏型に粘土を詰めて人形を成型し,型から外した人形を乾燥させたのちに800℃で焼成する.そして焼きあがった人形には胡粉と膠をよく練り合わせたもので下塗りをする.その上に彩色を施して完成だ.土人形は江戸から昭和にかけて親しまれた玩具だったが,作り手が限られてしまった現在の主な活動は伝統技術の伝承活動だ[4, 5, 6].

[注1] 前九年の役は陸奥守・源頼義(源頼信の嫡男)と奥羽の豪族・安倍氏との戦いだ.戦況は安倍氏が優勢だったが,1062年に出羽の豪族・清原武則が参戦すると安倍貞仁は戦死して安倍氏は滅亡し,弟の安倍宗任は降伏し,清原武則は鎮守府将軍に任じられた.源義家(八幡太郎義家)によって都に連行されて流罪となった安倍宗任の末裔には安倍晋三らがいる[7].後三年の役は清原家の内紛だ.このときの陸奥守は源義家で,支援した清原清衡が勝利し,藤原清衡と名乗ったことで奥州藤原氏が誕生した.私財から後三年の役の恩賞を捻出した源義家の子孫には源為義(源義家の子あるいは孫),源義朝(為義の子),源頼朝(義朝の子)らがいる.

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文献
1.今戸人形の型:https://www.city.taito.lg.jp/gakushu/shogaigakushu/shakaikyoiku/bunkazai/yuukeiminzokubunkaza/imadoninngyo.html
2.街にひそむレアな職人技,散歩の達人 (2021年6月号,赤羽VS北千住):https://san-tatsu.jp/articles/108837/
3.仙台で育まれた土人形・堤人形(芳賀堤人形製造所):https://tetotetote-sendai.jp/tsutsuminingyo/inochi.html
4.福岡の津屋崎人形:https://tsuyazaki-ningyo.stores.jp/about
5.稲畑人形:https://web.pref.hyogo.lg.jp/sr09/ie07_000000063.html
6.富山土人形:https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/minzokumingei/tuti/tuti.html
7.長門 安倍氏系図:https://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-abe-nagato.html

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