初めての浅草観光(その1:浅草寺と浅草神社)

浅草は東京の代表的な観光名所として知られているが,浅草を通ったことはあっても観光したことはなかった.浅草寺の表参道入口にある雷門とそこから続く仲見世通りを通り抜ければ,正面に宝蔵門,左手には五重塔が見える.浅草寺本堂(観音堂)は宝蔵門を通り抜けた先にある[1].その本堂の右手にあるのが重要文化財に指定された二天門だ.重要文化財に指定された浅草神社は浅草寺に隣接する[2].

浅草寺の正式名称は聖観音宗総本山金龍山浅草寺だ.628年3月18日の早朝に江戸浦(現在の隅田川)で漁師の檜前浜成・竹成兄弟の投網にかかった聖観世音菩薩像を供養したことが始まりで,これが浅草寺の御本尊(秘仏)とされる[注1].観音堂を勝海上人が建立したのは645年だが,浅草寺が江戸庶民文化の拠点として繁栄したのは徳川家康が浅草寺を幕府の祈願所として定めてからだ.五重塔は平公雅(平将門の宿敵・平良兼の長子)が942年に創建したものだが,その後に倒壊と再建が繰り返された.徳川家光によって1648年に再建された五重塔は関東大震災では倒壊しなかったが1945年の戦災で焼失した

1865年に焼失した雷門は1960年に鉄筋コンクリート造で再建された.仲見世通りに立ち並ぶ店舗は1925年に鉄筋コンクリート造で再建されたもので,1964年には宝蔵門が鉄筋コンクリート造で再建されている.そして東京大空襲で焼失した本堂は1958年に鉄筋コンクリート造で再建され,五重塔は1973年に鉄筋コンクリート造で再建された高さ53メートルの建造物だ.なお,聖観世音菩薩像が見つかった場所(駒形橋のほとりにある浅草観音示現の地)には,2003年に駒形堂が再建された.

1960年に再建された浅草寺の雷門(表)
1960年に再建された浅草寺の雷門(裏)
1925年に再建された仲見世通り(その1)
1925年に再建された仲見世通り(その2)
1973年に再建された五重塔
1964年に再建された宝蔵門
1958年に再建された本堂
1649年頃に建造された二天門
1649年に完成した浅草神社

1649年頃に建造された二天門は関東大震災にも東京大空襲にも焼け残った建造物だ.浅草寺の東門として建てられたようだが,浅草寺観音堂の西側に建てられた東照宮の隋身門であると江戸時代を通じて伝えられた.徳川家光が寄進した浅草神社の社殿も1649年に完成したもので,関東大震災にも東京大空襲にも焼け残った建造物である.

重要文化財に指定されていても,関東大震災にも東京大空襲にも焼け残った古ぼけた木造建造物の人気は低いようだが,鉄筋コンクリート造で再建されたきらびやかな建造物の人気は高いようで多くの観光客が群がっている.インスタ映えすることが観光地の人気を左右する時代なのだ.

[注1] 飯能市岩渕にある岩井観音堂(真言宗智山派寺院)に安置されていた岩井堂観音像が,嵐で成木川に流されて行方不明になり(531~535年頃),それが約100年後に漁師の網で海上げされたものが浅草寺の秘仏であるとの口碑伝承がある.約1400年後の1933年には浅草寺から岩井堂に観音像(浅草観音の分身)が贈られて盛大な法要が営まれた.檜前浜成・武成兄弟の投網にかかったものが浅草寺の御本尊となる観音像であることは,土師真中知(観音像を祀って浅草寺の創建に関わった)に見せて判明した.そして土師氏の子孫はこの三人を祀る三社権現社(現在の浅草神社)を創建した.1868年に名称を三社明神社と改めたが,1873年には現在の浅草神社になった.浅草神社の例大祭は三社祭と呼ばれている.

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文献
1. 聖観音宗浅草寺:https://www.senso-ji.jp/
2. 浅草神社:https://www.asakusajinja.jp/


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