登戸研究所の跡地を訪ねる

登戸研究所[1, 2a, 2b, 2c, 2d]は戦前に旧日本陸軍によって開設された研究所の秘匿名だ.正式名は第九陸軍技術研究所だが,水面下で行われる防諜(スパイ活動防止),諜報(スパイ活動),謀略(破壊・攪乱活動・暗殺),宣伝(人心の誘導)といった秘密戦のための兵器開発が目的であったから,活動内容が外部に知られないように秘匿名でよばれていた.

登戸研究所は1937年に陸軍科学研究所登戸実験場として開設され,電波兵器,無線機器,宣伝機器などの開発を担っていた[注1].1939年には陸軍科学研究所登戸出張所に改称され,役割も拡充された.従来の電波・無線関係が第一科となり,毒物・薬物・生物兵器を扱う第二科と偽札や偽造パスポート製造を行う第三科が新たに設置されたのだ.登戸研究所の正式名称は陸軍技術本部第九研究所を経て,1942年には第九陸軍技術研究所となった.この頃には兵器の量産部門として第四科が置かれ,第一科では風船爆弾の開発が行われていた.

1950年に登戸研究所の敷地の約半分が明治大学の生田キャンパスとなった.そのためキャンパス内には登戸研究所の遺跡がいくつか残っている.倉庫跡は生田キャンパスに現存する登戸研究所の施設だ.弾薬庫とよばれ,実際には薬品庫だったとも言われているが,詳細な用途は不明だ.キャンパス内に2つ残っている消火栓(現在は機能を失っている)も登戸研究所時代のものだ.空襲による火災だけでなく,研究所内で化学兵器の開発・製造に伴う火災を想定して設置されたと考えられている.弥心神社(現在は生田神社に改称)は戸山ヶ原(現在の新宿区百人町3丁目)にあった陸軍科学研究所(跡地には東京山手メディカルセンターや東京都健康安全研究センターが建っている)の「八意思兼神」という知恵の神が祭神として分祀されたものだ.神社の脇には登戸研究所跡碑が1988年に建立された.キャンパス正門の近くには動物慰霊碑がある.これは研究所で用いられた実験動物の霊を慰めるために1943年に建てられたものだ.

倉庫跡(通称は弾薬庫)   
消火栓(図書館前のもの)
弥心神社(右手に登戸研究所跡碑)
登戸研究所跡碑 
動物慰霊碑    
動物慰霊碑の裏面
登戸研究所資料館
展示パネル(その1:偽札)  
展示パネル(その2:ヤマ機関)

登戸研究所資料館は登戸研究所第二科の実験棟(細菌兵器の開発棟)だった建物だ[2].資料館には各課の活動概要の展示がある.風船爆弾の開発や偽札製造などだ.

第一科ではさまざまな電波兵器の開発を進めたが実用化に至らず,1943年に風船爆弾の開発に変更された.電磁波で人体を攻撃する「く」号兵器(怪力電波),「ち」号兵器(超短波レーダー),標的が発する赤外線を感知して熱線源を攻撃する「ね」号兵器(熱線利用射撃管制装置),トーチカや鉄条網を破壊する無人戦車のような「い」号兵器(有線操縦兵器)などの開発を進めたのだが,いずれも実用化に至らなかった.

第二課では生物兵器,毒物,スパイ機材などの研究を行っていた.第一班は乾くと文字が消え特殊な薬品を塗ると文字が浮き出る秘密インキや風船爆弾に用いる気球用和紙の材料研究など,第二班は毒物合成や「え」号剤(番犬や軍用犬の追跡能力を一時的に失わす薬剤)の研究,第三班は暗殺用の毒物(青酸ニトリル)開発など,第四班は炭疽菌など,第五班は秘密カメラ(カバン型,ライター型,ステッキ型)など,第六班は対植物用細菌(小麦条斑病菌や小粒菌核病菌)など,第七班は対動物用細菌(牛痘ウイルスなど)の研究を行っていた.

第三課では法幣偽造工作を行っていた.法幣とは中華民国蔣介石政権が発行した銀行券のことだ.法幣はイギリスとアメリカの技術によって製造されていたために偽造は困難だったが,1940年には法幣と同じ水準の偽札製造が可能となっていた.そして1941年の香港占領後の法幣印刷工場の占拠とアメリカ商船の拿捕によって日本は未完成の法幣と資材を押収し,本物の法幣製造が可能となった.第三課ではソ連の偽造パスポート,偽造インドルピー,偽ドルの印刷も行っていた.

戦前の大日本帝国は典型的な権威主義国家だったから,秘密戦の準備も秘密裏に行われた.陸軍中野学校[3, 4a, 4b]は秘密戦要員の教育機関で[注2],登戸研究所がその技術を提供する研究機関,そしてその秘密情報を提供していたのが極秘機関「ヤマ機関」とする体制だったようだ[3, 5, 6, 7, 8].

ヤマ機関の創設に強く関わったのは,岩畔豪雄と中野学校の初代校長(後方勤務要員養成所初代所長)に就任する秋草俊で,その主な任務は電話盗聴と郵便物の開封による諜報活動だ[注3].電話盗聴には,逓信省の某課長の協力によって対象目標の電話回線に盗聴線を接続した.そして通話内容の録音には陸軍科学研究所が特別に設計したレコーダーが用いられ,費用は民間からの国防献金で賄われた[5].そして外国公館が発着信する郵便物の開封では,中央郵便局から郵便物を受け取って,開緘,写真撮影,封緘,返還を怪しまれないよう2時間で済ます必要があり,これも通信当局の協力と陸軍科学研究所の技術支援なしには実行不能な作業だった[5].

ヤマ機関を創設した岩畔豪雄は1938年に陸軍次官だった東条英機から電話盗聴の対象を外国公館から日本国内の重臣,政治家,陸海軍高等官に拡大することを仄めかす指示に「そのような目的で防諜機関を作ったのではない」と言い放ったが,その後,防諜の対象は国内にも拡がった.1940年に東条が陸軍大臣に就任すると,ヤマ機関は軍事資料部となり憲兵司令官が部長を兼任した.1941年に東条内閣が成立すると,憲兵の防諜機能を自身の権力保持に利用するようになった.

中野正剛事件は東条批判を行った中野正剛衆議院議員を議会に出席させないため1943年10月21日に警察に逮捕させた事件だ.25日に釈放されたが,帰宅後に自殺した.1943年からはヤマ機関長は陸軍大臣の直属となっていた.そして1944年の時点で吉田茂の電話は既に盗聴され,憲兵隊と陸軍省防衛課のスパイ2名が吉田家の女中として偵諜活動を行っていた[3].陸軍省防衛課のスパイはヤマ機関が企画して潜入させたものだが,その時には既に憲兵隊の女スパイが潜入を果たしていたのだった.その後,ヤマ機関は中野学校出身者を書生として新たに吉田家に送り込んだ[6].

権威主義国家に入国する予定があるなら,登戸研究所資料館は必見だ.権威主義国家における統治の手口を知ることで,出国するまで権威主義国家で安全を確保する方策を学ぶことができるからだ.民主主義体制のもとでも秘密戦は水面下で行われているだろうが,自由を守る不断の努力を怠らない限り国民の被害は大きくならないと信じたい.

[注1] 登戸研究所が1937年に開設されるまでは,ブラジル移民を養成する日本高等拓殖学校の校舎があった.1932年に設立されたもので,卒業生の多くはアマゾンの開拓事業に従事しジュート産業拡大に貢献したが,日中戦争の始まった1937年に閉鎖された.新宿区にあった陸軍科学研究所では電波兵器の屋外での実験は不可能であり,その実験を行うには障害物のない高台が好適だった.日本高等拓殖学校の土地・建物を購入して登戸実験場の開設に至ったのは,電波兵器の開発が目的だった.

[注2] 1937年に情報勤務要員養成所設立準備事務室が開設され,1938年に後方勤務要員養成所が九段の愛国婦人本部の別館に開所した.これが1939年に中野囲町(電信隊の軍用鳩研究所のあった裏側.その後,隣地には陸軍憲兵学校の新校舎が建てられた)に移転し,1940年に正式に陸軍中野学校となった.陸軍中野学校は1695年に生類憐れみの令に則って設置された中野犬屋敷の跡地に設置されたのだ.ただし,「陸軍中野学校」の校名は学生も口にすることは固く禁じられ,陸軍部内でも秘密だった.中野学校の卒業生の多くは海外での工作活動(南方特務機関要員・支那蒙古要員・北方満州特務機関要員)に従事したようだ.アジア地域における秘密活動の中心はイギリスの植民地であったインドとビルマ(現在のミャンマー)の独立運動支援だった.蒋介石を支援する軍事物資の輸送ルートであるビルマ・ルートの遮断がその大きな狙いだ.インドについては,F機関(規模拡大に伴って名称はその後,岩畔機関,光機関と変わった)が担当し,ビルマについては南機関が担当した.いずれも活動は中野学校出身者が関与するものだった.

[注3] ヤマ機関が設置された場所は尾張徳川家の下屋敷(戸山山荘)の跡地,現在は戸山公園などになっているところだ.当時は東京陸軍第一病院,陸軍軍医学校,陸軍戸山学校,近衛騎兵連隊などが置かれていた陸軍要地の一角に設置された.兵務課が1937年に創設したときの地下秘密機関の秘匿名は警務連絡班だったが,庁舎が新築されてからは秘匿名を「山」と称するようになった.

文献
1.伴繁雄,陸軍登戸研究所の真実,芙蓉書房出版 (2010).
2.例えば,(a) 明治大学平和教育登戸研究所ガイドブック (2012).
 (b) 渡辺賢二,陸軍登戸研究所と謀略戦,吉川弘文館 (2012). 
 (c) 山田朗,陸軍登戸研究所〈秘密戦〉の世界,丸善 (2012). 
 (d) 山田朗,日本陸軍の秘密戦と登戸研究所,日本音響学会誌,73 [8] 517-523 (2017).
3.畠山清行,秘録陸軍中野学校,新潮社 (2003).
4.例えば,(a) 斎藤充功,陸軍中野学校全史,論創社 (2021).
 (b) 加藤正夫,陸軍中野学校 秘密戦士の実態,潮書房光人社 (2014).
5.岩井忠熊,陸軍・秘密情報機関の男,新日本出版社 (2005).
6.東輝次,保坂正康,私は吉田茂のスパイだった,光人社 (2001).
7.斎藤充功,幻の特務機関「ヤマ」,新潮社 (2003). 
8.林武,和田朋幸,大八木敦裕,陸海軍の防諜,防衛研究所紀要, 14 [2] 89-110 (2012).

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