幕府の蕃書調所と明治政府の開成学校
蕃書調所は勝海舟の尽力によって1856年に設置された.その痕跡を示すものは地下鉄の九段下駅から階段を登った地上出口の先にある蕃書調所跡の説明板だ.昭和館の隣,九段下交番のすぐ近くにある.蕃書調所は江戸幕府によって西洋の書籍を解読し,海外事情を調査するための組織として設立されたものだ.そこには幕臣・諸藩の家臣らに対して,英語や西洋の文物を教育する官立学校としての機能も付け加わった.内部に置かれた画学局では高橋由一を始めとする明治期に活躍する西洋画家たちも学んでいた.九段下から神田一橋通りに移転し,洋書調所,開成所と改称された後,幕府の崩壊によって閉鎖されたが,開成学校として生まれ変わり,神田和泉町にあった医学校と統合されて東京大学の前身となった[注1].
蕃書調所が九段下から移転した先は護持院ヶ原の一帯(神田錦町)だ.その場所を示す護持院ヶ原の碑は神田警察所に隣接する公園内(錦三会子供遊び場)にある.明治政府による開成学校は語学課程が1873年に東京外国語学校(後の東京外国語大学)になり,専門学課程は1877年に旧制東京大学となった.東京外国語学校発祥の地の碑は一橋講堂の前に,東京大学発祥の地の碑は学士会館の前に設置されている.なお,学士会館には新島襄先生生誕之地と日本野球発祥の地の碑も建っている.
学士会館の前に設置されている我が国の大学発祥地の説明によれば,1877年に東京開成学校(神田錦町)と東京医学校(神田和泉町から本郷元富士町に移転済み)が合併して,東京大学が創立された.創立当初は法学部.理学部,文学部,医学部の4学部で構成され,そのなかの法学部,理学部,文学部は神田錦町3丁目に設けられていた.1885年に法学部は文学部の一部を統合して法政学部と改称され,理学部から工芸学部が分離し,そのころまでには本郷への移転を完了していた[注2].1886年に東京大学は帝国大学と改称され,工部大学校と工芸学部が合併して工科大学となった.その後,東京農林学校が農科大学として加わり,6つの分科大学(法・医・工・文・理・農)と大学院からなる総合大学となった.1897年には京都帝国大学の設立によって,東京帝国大学と改称され,1947年には東京大学と改称されたと書かれている.開成学校と東京大学はいずれも消滅と復活を経験したことになる[注3].
[注1] 江戸幕府は明治維新で政権を新政府に譲ったが,江戸幕府の組織の一部は新政府に引き継がれた.その多くは教育・研究機関だ.幕府の開成所は新政府の開成学校として1869年に開校し,フルベッキ(Guido Verbeck)が教頭に就任して外国人教師による教育が始まった.他方,明治政府はそれぞれの省庁で官僚養成所(工部大学校や東京法学校など)を設置したが,大学南校(開成学校)と大学東校(医学校)の起源は幕府の開成所と医学所だ.この2つを統合して,1877年に東京大学が設置されたが,儒学を研究する昌平坂学問所,漢方医の小石川養生所は継承されず,明治時代に廃止となった.なお,1869年には幕府由来の昌平学校が大学本校,開成学校が大学南校,医学校が大学東校と改称され,この3校を統合して大学校が設置された.そして大学本校が1871年に閉鎖されると,大学南校は南校から東京開成学校へと改称され,大学東校も東校から東京医学校へと改称されていた.
[注2] 東京医学校は合併前の1876年に神田和泉町から本郷元富士町の加賀藩邸跡地に既に移転していたが,神田錦町からの移転は遅れた.本部と法・文学部の移転は1884年,理学部の移転は1885年だった.理学部は実験室の設備に校舎の手狭さが問題となって早期の移転を希望していたが,1877年に起きた西南戦争による財政の混乱(戦費を賄うために行った大量の不換紙幣の発行によってインフレーションが起こり,それを収拾させるために増税と緊縮財政を行うとデフレーションが起きた)のため予算がつかず移転は遅れた.
[注3] 開成学校の初めての開校は1869年だった.幕府の開成所を新政府が復興したものだが,1870年に大学南校に改編されて消滅した.大学南校は1871年に南校に改称され,1873年には再度の改称によって開成学校の名称が復活した.その後,開成学校は東京開成学校と改称され,1877年に東京医学校との統合によって東京大学が発足して消滅した.東京大学は1886年に帝国大学に改編されて消滅したが,その名称が復活したのは1947年だった.開成学校は2回消滅したが,東京大学の消滅はまだ1回だ.