北の丸公園とその界隈
江戸城北の丸のあったところが北の丸公園になった.田安門と清水門は旧江戸城の現存する遺構だ.田安門は靖国通りに面した北側の位置にある.1620年に建築され,1636年に修繕されたものが現在に伝わっている.その高麗門は現存する旧江戸城建築遺構のうちで最古のものだ.清水門は北の丸の東門で創建年代は不明だが,現在の門は1658年に再建された.清水門は写真正面の高麗門とその右手の櫓門から構成されている.
怡和園(いわえん)の碑の脇にある説明板には,幕末の江戸城北の丸には西側に田安家,東側に清水家の屋敷があったと書かれている.明治になって田安家の跡に近衛歩兵第一聯隊,清水家の跡に同第二聯隊の兵営が建てられ,終戦まで駐屯して皇居の守護を担ってきた.怡和園の碑のある場所は近衛歩兵第一聯隊の地域で明治中頃までは土を盛り上げただけの土堤であったものを,1908年に手を入れて小庭園とした.怡和園と命名して石碑を建てたのは時の聯隊長由比光衛大佐だ.ちなみに怡和とは「喜び和らぐ」の意だ.
一橋家の屋敷は1740年から一橋門の門内にあった.北の丸の外側だが,屋敷は気象庁・大手町合同庁舎にまで及ぶ広大なものだった.現在の一ツ橋は1925年に架けられた橋だが,徳川家が江戸に入ったときには既に大きな丸木を1本架けただけの橋があった.一橋門はその橋のふもとに置かれた門だ.現在の一橋門跡には川岸に残された僅かな高石垣が当時の面影を伝えている.
田安門を出て歩道橋を渡った先には靖国神社がある.1907年に設置された品川弥二郎像はその歩道橋からよく見える.品川弥二郎は長州藩に生まれ,尊王攘夷運動,戊辰戦争で活躍し,1891年に内務大臣に就任した.像の説明文には学校や信用組合や産業組合の成立にも係わったと書かれているが,1893年に大日本窯業協会の代表者として初代会頭に就任したことにはまったく触れられていない.その隣には高燈籠(常燈明台)が建っている.1871年に靖国神社の燈籠として設置されたもので,当初は靖国通りを挟んで反対側に設置されていたが,関東大震災の後,坂を緩やかにする改修工事が行われて,1925年に現在地に移設された.当時は品川沖を航海する船の目印として東京湾から望むことができたと書かれている.
田安門から九段下駅の方向に向かえば蕃書調所跡があり,その先を進めば九段会館を経て清水門に至る.九段会館は1934年に軍人会館として造られたものだが,戦後になって進駐軍宿舎として使用されたのち,名称変更されて九段会館となった.現在は旧九段会館の一部を残して九段会館テラスに建て替えられている.牛ヶ淵に面した通路を清水門の方向に進めば,北の丸公園に茂る緑の先に武道館が見える.日本体育会体操学校之跡と愛國婦人會發祥之地と九段精華学校発祥地の碑は牛ヶ淵に面してひっそりと置かれている.