江戸城跡を散策する

江戸城は1457年に太田道灌によって築かれ,北条氏が滅亡した1590年に徳川家康の居城となった.それ以来,家康,秀忠,家光の3代にわたって西の丸(現在の皇居),北の丸の増築や外郭の整備が行われて江戸城の総構が完成した.明治維新後,江戸城は皇居となった.皇居の正門からは2つの橋が見える.手前が正門石橋,奥の橋が正門鉄橋だ.そしてその後方には伏見櫓が見える[注1].正門石橋が二重橋と呼ばれたのは,かつては木造の橋でその下に橋桁を支えるもう1つの橋があったからだが,正門石橋と正門鉄橋の2つの橋を総称して二重橋と呼ぶこともある.桜田二重櫓は濠の突端に突き出た櫓だ.江戸城本丸のあった皇居東御苑への入場には制限があるが(原則として月曜と金曜を除く昼間のみ),桜田二重櫓は濠の対岸からいつでも見ることができる.

伏見櫓
桜田二重櫓
大手門

大手門から入場して本丸に向かえば,待っているのは番所だ.番所は警備詰所だ.江戸城には同心番所,百人番所,大番所の3つが残っている.同心番所は大手門から入って宮内庁三の丸尚蔵館の先にある.そこには同心と呼ばれる武士が詰め,登城者を監視した.大手中之門に向き合って設けられた警備詰所が百人番所だ.甲賀組,伊賀組,根来組,二十五騎組という4組の鉄砲百人組が昼夜交代で勤務した.そして各組は20人の与力と100人の同心で構成されていた.大番所は大手中之門の内側に設けられた位の高い武士が勤務していた警備詰所だ.

同心番所
百人番所
大番所

本丸御殿は南から順に表,中奥,大奥となっている.いずれも1863年に焼失してから再建されることはなく,現在は完全な更地だ.松の大廊下跡が表の西側にある.1701年に赤穂藩主浅野長矩が吉良上野介(吉良義央)に斬りかかったところだ[注2].江戸城本丸の東側にある展望台の見晴らしがよいのは,1863年に焼失した御台所前三重櫓の跡だからだ.展望台からは白鳥濠の先に汐見坂が見える.汐見坂は本丸と二の丸をつなぐ坂で,その坂から日比谷入り江を眺めることができたので汐見坂と名付けられた.汐見坂を下った先には白鳥濠があり,そのさらに先には二の丸雑木林と二の丸庭園がある.

更地となった本丸跡
江戸城本丸御殿の説明板
展望台からの見晴らし

富士見櫓は本丸南端の高さ15メートルの石垣の上に設けられた防御施設だ.1657年の明暦の大火で焼失したが,その後まもなく再建された三重櫓だ.各階の窓からは鉄砲や矢で攻め手を攻撃することができる.

富士見櫓
天守台
寛永度天守の復元模型

徳川家康の入城以降,1607年に慶長度天守,1623年に元和度天守,1638年に寛永度天守が建てられた.現在の天守台は1657年の明暦の大火で寛永度天守が焼失した後の1659年に築かれたものだが,天守台に天守は建てられなかった.江戸時代の江戸城に天守があったのは50年間,天守がない状態が210年間続いたことになる.なお,寛永度天守の30分の1の復元模型は本丸休憩所の隣の建屋内に展示されている.

[注1] 多聞は長屋づくりの防御施設だ.御休息所前多聞とも呼ばれる現在の富士見多聞は1657年の明暦の大火で多くの建物が焼失した後に建てられたと考えられている.伏見櫓の両横には大規模な多聞(十四間多聞と十六間多聞)が続いている.

[注2] 赤穂事件の結末は,浅野長矩の切腹だけでは終わらなかった.吉良上野介は1703年に大石内蔵助を含む47名(四十七士)の旧浅野家家臣(赤穂浪士)によって暗殺された.

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