近代教育の発祥と朱子学の終焉

東京医科歯科大学の前に建てられた説明板には「近代教育発祥の地」と書かれている.それによれば湯島聖堂と東京医科歯科大学の一帯は江戸時代に昌平坂学問所(昌平黌)があったところで,明治維新後の1871年に文部省が設置され,1872年に師範学校(1873年に東京師範学校に改称)が開校し,その隣地には東京女子師範学校が置かれた.東京高等師範学校は1903年に大塚窪町に移転し,その後に東京教育大学(現在の筑波大学),東京女子高等師範学校は1932年に大塚に移転してお茶の水女子大学となった.

近代教育発祥の地
仰高門
孔子像
入徳門
杏壇門
大成殿

湯島聖堂の仰高門から入った先には1975年に寄贈された孔子像が建っている.そして1704年建造の入徳門から階段を登り,杏壇門を抜ければ湯島聖堂の大成殿に到着する.

1630年に林羅山は儒学振興のため,江戸幕府3代将軍徳川家光から拝領して上野忍岡の地(寛永寺の敷地)に私塾と書庫を建設したが,儒教祭祀を行うための孔子廟がなかった.そこで家光の叔父である尾張藩主徳川義直の資金援助によって,1632年に孔子廟である先聖殿が完成した.

徳川綱吉は湯島に新たな聖堂を1690年に造営した.新しい聖堂は尾張藩による忍岡聖堂よりも規模の大きな湯島聖堂で,その孔子廟が大成殿だ.1691年に孔子像や神位が忍岡から湯島に移され,林家とその私塾も湯島に移されて聖堂の一部に含まれるようになった.忍岡聖堂の建物は1698年の火事によって焼失した.

1797年には林家の私塾が幕府直轄の昌平黌となった.学寮,宿舎が建てられて旗本や藩士の子弟を対象に教育が施された.教育内容は林羅山を祖とする林家が講ずる儒学(朱子学)で,柴野栗山,岡田寒泉,尾藤二洲,古賀精里,佐藤一齋,安積艮齋,鹽谷宕陰,安井息軒,吉野金陵らがその学問所の教官だ.1799年には荒廃していた湯島聖堂の大改築が完成した.

明治になって昌平黌はいったん閉鎖されたが,昌平学校と改称されて再開された.1869年に昌平学校・開成学校・医学校の3校を統合して,大学校とした.昌平学校が大学本校,開成学校が大学南校,医学校が大学東校だ.しかし,大学本校は1871年に閉鎖され,その後再開されることはなかった.明治政府で重視されたのは儒学や国学ではなく洋学だった.現在の湯島聖堂は1923年に入徳門と水屋を残して焼失し,1935年に鉄筋コンクリート造で再建された.

湯島聖堂と東京医科歯科大学の一帯は近代教育発祥の地であるが,朱子学が終焉を迎えた地でもある.1790年には寛政異学の禁によって,幕府の学問所では朱子学以外の学問を教えることが禁じられた.そして武士としての行動規範が武士道として確立されたことは朱子学による思想統制による成果だった.明治維新の顛末は儒学から洋学への思想転換が必要となり,学び直しに失敗した士族は滅びゆく運命に苛まれたことだった.

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