お玉ヶ池の種痘所とその界隈

現在の岩本町辺りにあったお玉が池は桜の名所だったことから桜が池と呼ばれていた.お玉が池と呼ばれるようになったのは,ほとりにあった茶店のお玉という看板娘が池に身を投げたからだ.お玉ヶ池は徳川初期には不忍池ほどの広さであったものが,安政のころには小さなものになり現在はその跡形もない.池のほとりには千葉周作の道場・玄武館や東条一堂の瑶池塾があり,川路聖謨の屋敷内にはお玉ヶ池種痘所があった.お玉が池児童遊園と稲荷大明神にはお玉が池の名残を見ることができる.

児童遊園に設置されたお玉が池の柱
神田お玉が池の説明板
お玉が池跡の稲荷大明神
お玉ヶ池種痘所跡の碑
お玉ヶ池と種痘所の説明板
お玉ヶ池種痘所記念の碑

お玉ヶ池種痘所跡の碑はビルの壁面にある.勘定奉行川路聖謨の屋敷内に種痘所は設けられ,東京大学医学部発祥の地だとその説明板には記されている.伊東玄朴,戸塚静海,大槻俊斎,林洞海ら江戸在住の蘭方医83名が資金を出し合って1858年5月に種痘館を設立したのが,1860年に幕府直轄となる種痘所の始まりだ.なお,ジェンナー(Edward Jenner)の牛痘種痘法の発明は1796年だが,本邦における最初の接種が成功したのは1849年だった.そこから200mほど北にあるのが,お玉ヶ池種痘所記念の碑だ.12月の神田大火で類焼し,和泉橋通りに移転したと書かれている.

さらに神田川を越えて北に行くと神田和泉町に津藩藤堂家の上屋敷跡の説明板がある.お玉ヶ池種痘所の移転先だ.種痘所は幕府の西洋医学所になった.明治政府は江戸幕府から接収した医学所を医学校と改称し,さらに1870年の大学東校,1871年の東校に続いて1874年には東京医学校と改称した.その後,東京医学校は1876年に本郷に移転し,1877年に東京開成学校との合併によって東京大学に再編された.神田和泉町の跡地には三井記念病院が建っている.なお,伊東玄朴居宅跡・種痘所跡はその数百メートル北にある.

神田和泉町の説明板
藤堂和泉守の上屋敷跡
玄武館跡

北辰一刀流開祖の千葉周作が開いた道場・玄武館跡は岩本町の駅前交番から10メートルほど先に石碑と説明板が設置されている.練兵館,士学館と並ぶ幕末の江戸三大道場にひとつだった.そして東条一堂の瑶池塾がその東隣にあったとも書かれている.

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