人を動かす(その2)

生物の行動は遺伝的に組み込まれたものが基本だ.生まれたばかりの水鳥の雛は刷り込み(Imprinting)によって親鳥を追って歩くようになる.生まれた直後に見た大きな物体を親と認識するプログラムが遺伝子に組み込まれているからだ.人間の赤ちゃんが言葉を学ぶのも聞こえた音声を言葉と認識するプログラムが備わっているためらしい.遺伝的なプログラムが発動して,学習機能が作動するためだ.

ベルを鳴らすと条件付けされた犬が涎を垂らすパブロフの条件反射は後天的な学習によって獲得したものだが,生命の危機が訪れれば習得した条件反射が消えてしまうこともパブロフは発見している.条件反射を消す方法は1924年に起こったレニングラードの大洪水のときに発見された.実験室が浸水して,犬が生命の危機に瀕したのだ.すると,その後に条件反射の実験を再開しようとしたときに条件反射は消えてしまっていたのだ.しかも犬の性格が正反対に変化したことも認められた.極限状態に追い詰められると後天的な学習によって獲得したものが失われるのだ.

条件反射が成立した後で,ベルを鳴らしても餌を与えたり与えなかったりすると犬は混乱する.犬は不安になり相手の顔色を見るようになる.その後,しばらくしてから何が気に入らないかをほのめかすと,喜んで相手の言いなりになる.これは気まぐれで支配的な人物が依存的な人格を支配するパターンでもある.レーニンはパブロフの報告書を読んで「これで革命の未来は保証された」と語った.共産主義の思想改造教育はパブロフの条件反射の研究がもとになっている[1 - 3].

思想改造教育の事例が次第に西側にも知られるようになったのは,朝鮮戦争で米軍捕虜が洗脳され,共産主義を信奉するようになったからだ.エドワード・ハンター(Edward Hunter)によれば,この洗脳プロセスは次のようなものだ[4].まず,監禁によって抵抗力を弱める.そして,それに続いて思想改造の洗脳教育が行われるのだが,これは勉強会での学習に始まり,集団学習会での自己批判へと続く.そして,最後に賞罰と同調圧力によって思想改造は完成するのだ.

Lawrence HinkleとHarold G. WolffによるCIAの報告書によれば,ソ連で行われていた思想改造教育の一般的な手順は次のようなものだ[5].まず,相当な期間(通常4~6週間)にわたって監禁して,孤独な状態に置く.次の段階は完全な支配とコントロールを達成する局面だ.自分の過ちや罪状を告白するのだ.相手に気に入られる告白をしなければ暴力を振るわれる体験を重ねる中で,でっち上げの告白を相手に信じてもらおうと涙ぐましい努力をするようになる.この過程は無意識下で行われるため本人は自分を欺いているという意識を持つことはない.

監禁の効果は感覚遮断による効果が大きいと考えられている.ドナルド・ヘブ(Donald Olding Hebb)は子犬を一定期間,現実世界から隔離すると,現実感覚を失い危険から身を守ることもできないようになることに気が付いた.この研究に興味を持った軍は資金を提供して,人間を対象とした研究が行われた.被験者を外界からの刺激を断った状態に置いたのだ.ホワイトノイズのみが聞こえるようになっていた完全防音のカプセル内に24時間以上留まることができたのは僅か半数で,2日間留まれた被験者はほとんどいなかった.しかも被験者は現実感覚を失って感覚障害に陥り,幻覚や被害妄想が現れた.

ホワイトノイズの代わりに超常現象の録音テープを聞かせたときには,超常現象など信じていなかった被験者が超常現象を図書館で調べるようになり,実際に幽霊が見えるようになったと言う者もいた.感覚遮断状態のなかで与えられた刺激が強い影響力を持ったのだ.この感覚遮断実験を進めたジャック・ヴァーノン(Jack A. Vernon)は,カプセル内でイスラム教についてのテープを聞かせたあと,カプセルから出てきた被験者がイスラム教に好意的な見方をするように変わってしまったとも報告している[6].

アメリカは洗脳についての人体実験「MKウルトラ計画」を開始した.1953年にはシドニー・ゴッドリーブ(Sidney Gottlieb)が,1957年にはマギル大学のドナルド・ユーウェン・キャメロン(Donald Ewen Cameron)が薬物投与や電気ショックなどの人体実験を行ったとされるが,1973年に記録のほとんどが破棄されたため全貌解明は困難とされている.

薬物投与や物理的に脳を操作する手法は精神病の治療法の応用だ.社会生活に支障をきたすアルコール依存症,鬱病やノイローゼ,非行や犯罪者などの社会復帰に際しては,薬物投与や脳外科手術などが行われてきた.第二次世界大戦中には,薬物投与による自白剤の研究が行われ,メスカリン,マリファナ,LSD,リタニン,アンフェタミンなどの効果が研究された.ロボトミーは1940年代前期から1950年代にかけて行われた脳の前頭前野の神経線維の切断を伴う脳神経外科的な精神障害の治療法で,精神障害の症状を緩和するために行われた.

電気痙攣療法(ECT: Electroconvulsive Therapy )はてんかん発作を起こした患者の両側のこめかみに電極をあてて100ボルト程度の電圧で脳内に通電する治療法だ.この操作を低電圧で行うと意識を失わず脳に大量の電流が流れて,被験者は激しい苦痛と恐怖を味わう.ECTには記憶障害という副作用を伴う.自分がECTを受けたことも忘れてしまう副作用だ.精神障害の治療に用いられている電気痙攣療法を応用した脳内への通電処理によって記憶を消去する技術は,ロボトミーにように処理の痕跡を残さないから,情報機関が不都合な記憶を消したいときには便利な手法だ.

隠蔽されているものがどれだけあるかは不明だが,権威主義国家の未来を保証する技術がパブロフの時代から,長足の技術的な進歩を遂げていることだけは確かなようだ.

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文献
1. リチャード・キャメリアン,洗脳の科学,第三書館 (1994).
2. 西田公昭,マインド・コントロールとは何か,紀伊国屋書店 (1995).
3. 岡田尊司,マインドコントロール,文藝春秋 (2016).
4.E・ハンター,洗脳 中共の心理戦争を解剖する,法政大学出版局 (1953).
5. L. E. Hinkle Jr. and H. G. Wolff, Communist Interrogation and Indoctrination of "Enemies of the States"; Analysis of Methods Used by the Communist State Police (a special report), Arch Neurol Psychiatry, 76 [2]115-174 (1956).
6. ジャック・ヴァーノン,暗室のなかの世界,みすず書房 (1969).

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