溝口さんぽ(No.9 二ケ領用水)

 ここのところ、猛暑もおさまり少しずつ散歩に適した日が増えて来ましたね。そろそろ夏の散歩コースから通例の二ケ領用水沿いのコースに切り替えられるようになってきました。そこで今回は、二ケ領用水について少し紹介したいと思います。

大山街道の大石橋にある二ケ領用水の説明板


 二ケ領用水は江戸時代の川崎領(ほぼ現在の幸区と川崎区)と稲毛領(多摩区、高津区と中原区)に農業・生活用水を供給する目的で豊臣時代後期の1597年に工事が開始され、江戸時代に入った1611年に完成したとのことです。現在の多摩区、上河原と宿河原の堰から多摩川の水を取り入れ、本流は多摩区、高津区、中原区を通り幸区まで約32kmの距離を流れています。本流からはいろいろな方面に分水され、網の目状に広がっていますが、水の配分をめぐって争いが絶えなかったことから、円筒分水のような合理的な設備も導入されています。
 高津区の久地地区には多摩川の支流の平瀬川が流れており、用水はこの平瀬川と交差する必要があります。このような場合、通常は橋を作って交差する方式が多いのですが、ここでは平瀬川の川底をトンネルで用水が流れるように通し、その交差前後の高低差を利用してサイホンの原理により下流側で自噴させます。そして、外側の円筒部分をオーバーフローするところでそれぞれの円周の長さによって厳密に分水できる設備、久地円筒分水を1941年に完成させました。ここでは用水本流のほかに西側の溝の口駅方向、南東の二子新地駅方向、久地・二子地域に分水できるようになっています。このような円筒分水の施設は、日本各地に6か所ほど存在していますが、分水の考え方は、武田信玄が整備したと言われている3つの村に分水するための三角分水、信玄分水(山梨県北杜市)が起源であると言われています。信玄は国を治めるために信玄堤を作ったり、水争いを解決したり、やはり異色の戦国大名だったのですね。ところで、この久地円筒分水は国の登録有形文化財に指定されています。現在、本来の役目は終了していますが、桜の季節にはお祭りが開かれ、地域住民の憩いの場所になっています。

久地円筒分水の設備。手前側のオーバーフローが分水された水、奥に本流が見える。

 余談ですが、明治になって横浜は海外との貿易港として急速に開発され、人口が爆発的に増加しました。このため、水不足が深刻になり、川崎の二ケ領用水の水を融通してほしい旨の申し入れをしたとのことです。しかし、この要請は受け入れられなかったため、横浜は自前で水源を開発する必要に迫られました。その解決策が丹沢水系の水を導水することにつながり、今では首都圏でも利根川水系や多摩川水系に頼らない独自の水源を確保している大都市として、水不足を心配する必要がなくなったとのことです。チャンチャン!

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