死の恐怖と唯我論

アーネスト・ベッカー(Ernest Becker)は「死の拒絶」の序論の結論でヒロイックな問題が人間の生の中心問題であると述べた.複雄複雌群を形成するニホンザルなどの社会では群れ同士の争いで勇敢に闘ったオスザルはメスザルからの評価が高く,狩猟採集社会でも大きな獲物を仕留めた狩人は賞賛の対象だ.人間に限らず複雄集団におけるメスによるオスの評価は群れに利益をもたらす英雄的な行動が重視され,そのオスが多くの子孫を残すのに有利となるのは共通のメカニズムのようだから,英雄となることを目指すことは男性的な思考であり,著者の性格が男性的であることは容易に類推される.

ベッカーの思想を発展させたものが恐怖管理理論(Terror Management Theory)だ.死を意識することが人間行動に及ぼす影響を調査した結果を体系化したものだ.死の恐怖を軽減するために薬物依存や喫煙が増加することは死を意識したときに予想される反応だが,自分たちの価値観や文化を重視するようになって感情的・保守化する傾向も認められたのだ.

死が避けることができないことを受容すれば,肉体は滅びても魂は不滅であるという考えに取り憑かれる.心と身体は分離可能で身体は滅びても心の本体である魂は不滅だといった考えだ.自尊心が高ければ,生き恥を晒すより死を選ぶことも不滅の魂の思想は後押しをするのだろう.デカルトが「我思う故に我在り」と述べたように自己が確実に存在を認識できるのは自分自身だけだから,科学的データを伴わない唯我論を否定することは困難で,魂の不滅はすべての宗教の前提だ.アニミズムに始まる超自然世界の創造は死の恐怖と唯我論の理論的帰結なのかもしれない.

デレク・パーフィット(Derek Parfit)は思考実験によって人格の同一性に疑問を投げかけた.脳を別の肉体に移植したときに自意識は新たな肉体に移植されるのだろうか,もし脳に意識が存在するならば,脳を2つに分割して,それぞれ異なる肉体に移植したときの自意識は2つに分裂するのか,すべての記憶を失って新たな記憶を移植された私は私なのかといった思考実験だ.永井均が取り上げた1つの事例(思考実験)は,次郎とぶつかった瞬間に身体が入れ替わった太郎だ.その瞬間から太郎の自意識は次郎の身体のなかに移行したが,他者は2人の心が入れ替わったと考える.これを元に戻したのがブラック・ジャックだ.彼は太郎の記憶を消去して,次郎の記憶を植え付ける手術を行ったのだ.

永井均が取り上げたもう1つの事例は,パーフィットの思考実験で取り上げられた遠隔輸送機による地球から火星への転送だ.私のすべての細胞の正確な状態をスキャナーで記録して火星に送り,火星ではレプリケーターが地球で暮らしてきた私と完璧に同一な人物(レプリカ)を創り出すのだ.他者はこの人物を心も身体も地球にいた私とまったく同じであることを認め,瞬間移動した同一人物に間違いないと考えるだろうが,地球上の私がまだ存在していることが分かれば当惑するだろう.他方,私の意識はどちらに存在するのだろうか.他者は単細胞生物が細胞2分裂によって増殖したように2人の私が存在すると考えるかもしれないが,私の意識が分裂することはあり得ない.私の意識の中では過去は記憶の中に,未来は想像の中にしか存在せず,我が存在するのは現在のみだからだ.

自己が存在を確認した自分を他者がどのように認識するかは別の問題だ.地球にいる私は火星にいる私に似た他人(レプリカ)が私だと主張していることを奇妙に思うが,火星にいる私でない私(レプリカ)は地球にいる私でない私(レプリカ)に似た他人の奇妙な主張に当惑するだろう.他者は2人の私が出現したと当惑しながらも認識するだろうが,もし地球の私が完全に削除されていれば瞬間移動が成功したと考えるだろう.遠隔輸送機の利用者は瞬間移動に何の問題も起こらなかったと口を揃えるが,彼らはレプリカなのだ.便利で快適な瞬間移動は死への旅立ちだ.削除された私は死を迎えたのだが,完璧なレプリカが火星に創られることを知っていれば死の恐怖は軽減されるのだろうか.本件に関する科学的データはまだ報告されていないが,スキャナーで取り込んだデータをコンピュータに移してロボットへの生まれ変わりや仮想空間のなかでの永遠の生を得ようとする輩が出現する可能性は否定できない.

文献
1. アーネスト・ベッカー,死の拒絶,平凡社 (1989).
2. シェルドン・ソロモン,ジェフ・グリーンバーグ,トム・ピジンスキー,なぜ保守化し、感情的な選択をしてしまうのか,インターシフト (2017).
3. デレク・パーフィット,理由と人格,勁草書房 (1998).
4. 永井均,転校生とブラック・ジャック,岩波書店 (2001).

(岡田 明)

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