襲撃現場の確認を兼ねて散歩する
大日本帝国陸軍内には統制派と皇道派の2つの派閥があった.前者は陸軍大臣を通じて政治上の要望を実現するという合法的な形で列強に対抗し得る「高度国防国家」の建設を目指す陸軍大学校出身者を主体とするもので,後者は天皇親政の下での国家改造(昭和維新)を目指すものだ.極論すれば,統制派は富裕層に属するエリートで,皇道派は農民や貧困層を代弁する革命家だった.
1935年8月には皇道派に共感する相沢三郎中佐が,統制派の中心人物である軍務局長永田鉄山少将を斬殺する相沢事件が起こった.そして1936年には皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが,「昭和維新,尊皇斬奸」をスローガンに,約1,400名の下士官と兵を率いて蜂起する二・二六事件が起こった.このうち直接行動の全参加者の約70%は入営後まだ1か月余りの約1,000名の初年兵だ.彼らは前日の夜に上官の命令で動員されたのだ.明智光秀に従って本能寺に向かった手勢が13,000名にも及ぶことに比べれば決して多くはないが,五・一五事件の連続テロに比べれば比較にならないほど大規模な動員だった.
事件は首相官邸,国会議事堂,警視庁などを襲い,一時,東京の中心部を占拠した大規模なものだった.政治腐敗や農村困窮の要因と考えていた元老や重臣を殺害して天皇親政を実現すれば,昭和維新による解決が図れると考えていた決起将校らは岡田啓介内閣総理大臣,鈴木貫太郎侍従長,齋藤實内大臣,高橋是清大蔵大臣,渡辺錠太郎教育総監,牧野伸顕前内大臣を襲撃し,首相官邸,警視庁,内務大臣官邸,陸軍省,参謀本部,陸軍大臣官邸,東京朝日新聞を占拠した.
海軍大将だった岡田啓介首相は陸軍の青年将校らに襲撃されたが,女中部屋の押入れに隠れて危うく難を免れた.高橋是清蔵相は私邸を襲撃され,拳銃で撃たれ,軍刀でとどめを刺された.その暗殺現場は青山の高橋是清翁記念公園になっている.海軍大将だった齋藤實内大臣も私邸を襲撃され,その遺体からは四十数発もの弾丸が摘出された.そして,海軍大将だった鈴木貫太郎侍従長も複数の拳銃弾を撃ち込まれて瀕死の重傷を負ったが,一命を取り留めた.陸軍大将だった渡辺錠太郎教育総監は機関銃掃射により私邸で殺害され,牧野伸顕前内大臣は湯河原で襲撃を受けたが,危うく窮地を脱した.
彼らは陸軍首脳を通じて昭和天皇に昭和維新の実現を訴えたが,天皇は激怒してこれを拒否し,自ら近衛師団を率いて鎮圧するも辞さずとの意向を示した.これを受けて,陸軍首脳部は武力鎮圧することを決定した.叛乱将校たちの一部は自決したが,大半の将校は投降した.過激なクーデターやテロを目指す勢力は陸軍内から一掃され,これを契機に統制派が主導する軍国主義が台頭した.
1931年の三月事件では関係者の同意が得られず計画は中止され,十月事件では事前に計画が発覚して検挙されたが,二・二六事件では大規模なクーデター計画であるにも係わらず,事前に発覚することなく実行されたことは不可解だ.ひとりの裏切り者も現れず,関係者以外に情報が洩れなかったほど緻密に計画されていたのだろうか.もし,天皇が激怒しなければ,陸軍首脳部はどのような決断をしたのだろうか.満州事変の前例を踏襲して,追認を予定していた勢力のあった可能性も否定できない.いずれにしても,隠蔽された何かがありそうな不可解さが払拭できない事件だ.歴史は残された記録を根拠に創られるものだから,事実の隠蔽やプロパガンダおよび偽情報の流布によって歴史を書き換えることは可能なのだ.
事件直後の1936年3月9日に岡田内閣は総辞職した.後任は,外交官を経て外務大臣に就任した広田弘毅だったが,陸軍の統制派は組閣に干渉し,自由主義的な閣僚候補者は排除された.内閣総理大臣にはその後,陸軍大将の林銑十郎,貴族院議長の近衛文麿,枢密院議長の平沼騏一郎,陸軍大将の阿部信行,海軍大将の米内光政,再び近衛文麿,そして陸軍大臣の東條英機が就任したが,いずれも政党内閣ではなく,挙国一致内閣だった.なお,1936年2月20日および1937年4月30日の衆議院議員総選挙では第1党はいずれも町田忠治総裁の立憲民政党だったが,選挙結果が組閣に反映されることはなかった.そして,1942年4月30日の衆議院議員総選挙では東条内閣の推薦する翼賛政治体制協議会推薦議員が圧勝した.
皇道派は北一輝や大川周明らの妄想に盲従した可能性もあるが,天皇の意向を全く理解していなかったことには間違いがない.三月事件ではクーデター後のことも事前に検討していたが,二・二六事件では元陸軍大将の真崎甚三郎を後継の内閣総理大臣とする計画はあったものの,27日に会談したときに真崎は決起側の要求を受け入れず,しかも本人には黒幕説がありながら軍法会議では無罪を勝ち取っている.さらに27日に,陸軍首脳部は山本英輔海軍大将を革新政府の首班とする相談を行っていた.したがって,どこまで緻密な検討が事前になされていたかは疑わしい.なお,北一輝は二・二六事件の皇道派青年将校の理論的指導者として逮捕され,死刑判決を受けて刑死した.1923年に出版した日本改造法案大綱で国家社会主義を提案し,天皇大権によるクーデターでその実現を企てたとされるからだ.また,大川周明は貴族院議員の徳川義親侯爵(尾張徳川家第19代当主)から金銭的援助を受けて,三月事件,十月事件,血盟団事件などに関与した.そして,五・一五事件では禁錮5年の有罪判決を受けて服役し,戦後はA級戦犯の容疑で起訴された.
襲撃現場の確認はできなかったが,その近くの桜は満開だった.
文献
事件については多くの資料があり,それをまとめた書籍やwebsiteの数も膨大だ.そのなかで,主に参考にしたものを以下に示す.
1. 高橋正衛,二・二六事件,中央公論社 (1994).
2. 北博昭,二・二六事件全検証,朝日新聞社 (2003).
3. https://ja.wikipedia.org/wiki/二・二六事件
(岡田 明)