暗殺現場の確認を兼ねて散歩する

犬養毅は1932年に9名の海軍将校らの一団に銃で撃たれて殺害された.殺害現場となった内閣総理大臣旧官邸は1929年の竣工で1936年までに6代の歴代総理(田中義一,濱口雄幸,若槻禮次郎,犬養毅,齋藤實,岡田啓介)が入居したところだ.当初の暗殺対象は濱口内閣(立憲民政党)がロンドン海軍軍縮条約を締結したときの全権大使だった若槻禮次郎だったが,1931年12月13日に総理を辞任してしまったので,新たに総理に就任した犬養毅(立憲政友会)が支配階級の象徴として標的となった.犬養毅は軍縮条約に反対する軍部に同調して,統帥権干犯問題で濱口内閣を攻撃した側だったから攻撃対象の選定は支離滅裂だ.敵の敵も敵だという論理なのだ.実際,犯行後に犯人たちは犬養毅に対する個人的な怨恨はなかったと明言している.これが五・一五事件である.なお,武力によらない対中融和外交(幣原外交)を堅持していた第2次若槻内閣が総辞職したのは,満洲事変での軍部の行動を抑えることができなかったからだ.

五・一五事件の前には,未遂となった2つのクーデターが陸軍の急進派を中心に計画されていた.1931年の三月事件と十月事件だ.三月事件は陸軍将校が3月にクーデターで濱口雄幸内閣を倒し,陸軍大臣であった宇垣一成を首相とすることを目的とした事件だったが,宇垣が同意しなかったので未遂となった(この事件は軍の内部に厳重に隠され,終戦後にその事件の存在が一般国民に知られるようになった).なお,濱口は1930年11月14日に狙撃されて重傷を負い,1931年4月14日に首相を辞職,8月26日に死去した.十月事件は第2次若槻内閣の首相らを暗殺して,荒木貞夫陸軍中将を首相とする計画だったが,事前に発覚して一斉に検挙された(若槻内閣が倒れると,次の犬養内閣で荒木は陸軍大臣に就任した).そして,事件直前には右翼団体による血盟団事件があった.政治家と財閥を対象とした連続テロ事件だ.1932年2月9日に井上準之助(前大蔵大臣,立憲民政党)を選挙演説会場となった駒本小学校の通用門で待ち伏せて短銃で暗殺,3月5日には三井財閥の総帥(三井合名理事長)である團琢磨を三井銀行本店の玄関で待ち伏せてピストルで殺害したのだ.1931年の陸軍によるクーデター計画は頓挫したが,1932年に行われた右翼団体によるテロは成功だったのだ.

五・一五事件は戒厳令政府の設立とその後の軍事政権による国家改造という当初のクーデター構想が放棄されて集団テロ計画に変更された.実行犯の分担と手順は以下の通りだ.海軍青年将校率いる第1組の9名(5人が表門組,4人が裏門組)が総理大臣官邸,第2組の5名は内大臣官邸,そして第3組の4名は立憲政友会本部を襲撃する.その後,警視庁を襲撃して決戦を挑み,憲兵隊本部に自首するというのが主な計画だ.集団テロ計画なので,首相を暗殺してから先の計画はなかったようだ.

第1組の9名は犬養毅を殺害後,タクシーに分乗して決戦のため桜田門の警視庁本部へ向かった.しかし,先発5名が警視庁本部に到着したとき,警視庁では何の警戒体制も取られていなかったので,決戦は取りやめて麹町の憲兵隊本部へと向かった.第2組はタクシーに乗車して三田の牧野伸顕内大臣邸に向かい,邸内に手榴弾を投げ込んで爆発させてから,警視庁に向かった.そこでも手榴弾を投げたが,不発だった.第3組は立憲政友会本部の玄関に手榴弾を投げて損傷を与え,警視庁前の電柱上部を爆破した.警視庁に遅れて到着した第1組の残り4名は,ガラス扉を蹴破って損傷を与えたのち,憲兵隊本部へと立ち去った.このように襲撃計画は状況に柔軟に対応して実行されたようだが,憲兵隊本部に自首することだけは計画通りだった.なお,襲撃はこれだけに留まるものではなかった.三菱銀行本店の裏庭に向けて投擲した手榴弾は手前の道路に落ちて爆発し,日本銀行では手榴弾で玄関付近を破壊した.さらに農民決死隊6名は6か所の変電所を襲い,当初の目的であった送電機能にはダメージを与えられなかったものの,配電盤などを破壊した.

犬養首相が死亡したので(11日間は高橋是清が総理大臣を臨時兼任),後継首相の選定が行われた.まずは天皇から元老の西園寺公望に対して後継者推薦の下命があり,西園寺がこれに奉答して後継者が決められたのだ.西園寺は政党内閣を断念し,軍を抑えるために退役海軍大将で穏健な人格であった齋藤實を次期首相として奏薦し,齋藤は立憲民政党・立憲政友会の両党の協力を要請して挙国一致内閣を組織した.テロ計画は杜撰だったが,少なくとも原敬に始まる政党内閣に終止符を打つことには成功した.それは太平洋戦争が終わるまで復活しなかった.

1931年のクーデター計画や1932年のテロは,協調外交を進める政府の転覆が主な狙いだった.これはアメリカ発の世界恐慌が日本にも及んだ昭和恐慌による不景気に加えて,日露戦争で勝ち取った満州権益が中華民国との間での外交問題として浮上してきたことが関係する.

1930年の昭和恐慌は悲惨なものだった.企業の倒産で失業者は増加し,生糸輸出は激減して農家は困窮し,欠食児童や農家の娘の身売りが社会問題となった.資本主義の不具合が露呈したのだから,その解決策が緊急に必要なのだが,政府の施策は無力だった.選択肢は基本的に2つだ.富裕層から貧困層への冨の再分配と国外からの富の獲得のいずれかだ.立憲民政党の融和的な国際協調路線ならば強力な富の再分配を急がねばならず,富を国外から獲得するには迅速な軍事侵攻がその手段だ.前者は社会主義に,後者は軍国主義に呼応する.既成政党と財閥などの特権階級への憤りが高まって,社会主義革命の起こる条件は揃いつつあったのかもしれないが,急進的な青年将校らは満州に進出して生活の糧を得ることが困窮した日本を救う解決策と考え,そのためには財閥や議会政治を倒す昭和維新によって新たな軍事国家をつくる必要があると考えたようだ.

1912年に誕生した中華民国では孫文が臨時大統領となったが,袁世凱が溥儀の退位(清朝の滅亡)と引き換えに臨時大統領に就任する取引が成立し,孫文は海外に亡命した.袁世凱は中華民国の首都を南京から北京に移したが,1916年に死去すると軍閥が跋扈する分裂状態となった.そして孫文は1917年に中国国民党を組織し,陳独秀は1921年に中国共産党を結成した.孫文が1925年に死んだ後,1927年に南京国民政府を樹立した国民党の蒋介石は,1928年に北京政府の実権を握っていた張作霖を破り,北伐を完成して中国を統一した.その結果,1928年になると日露戦争で勝ち取った満州権益が,蒋介石の中華民国との間の外交問題として浮上してきたのだ.

中華民国との協調路線か権益を軍事で守り抜く強硬路線の間でいくつかの選択肢があったようだが,満州に赴任した関東軍(満州鉄道の守備兵)の選択は軍事的な解決だった.1931年9月の柳条湖事件に始まる満州事変で,1932年に満州国を樹立してしまったのだ.関東軍の行動は独断だったから,それを正当化するには追認する政府の樹立が必要となり,それを暴力の行使によって実現したのだった.犬養毅は満州国を承認しなかったが,齋藤實は承認した.

満州事変もそうだが,五・一五事件は綿密に計画されたものではなく,農村の貧困と政財界の腐敗を打破して国家の革新を遂げるという純真な動機が青年将校らにはあったとされる.減刑嘆願運動が高揚したのも特権階級に反旗を翻したことが大衆の心を捉えたからのようであり,赤穂浪士にも通ずるところがあったようだ.しかし,1人の死刑もなく青年将校らに対する大幅な減刑が実現したことは,本格的なクーデターを決行する軍の意欲を高めてしまった可能性がある.純真な動機を行動に移したことを賞賛すべきなのかどうかは疑問だ.何も行動しなければ何も変わらないが,やみくもに行動しても良い結果は得られず,事態をさらに悪化させることにもなるからだ.当時は真意が尊重される精神重視の時代だったようだ.

犬養首相暗殺現場の近くの桜並木(現場は塀の内側)

暗殺現場の確認はできなかったが,その近くの桜は満開だった.

文献
事件については多くの資料があり,それをまとめた書籍やwebsiteの数も膨大だ.そのなかで,主に参考にしたものを以下に示す.
1. 小山俊樹,五・一五事件,中央公論新社 (2020).
2. https://ja.wikipedia.org/wiki/五・一五事件

(岡田 明)

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