東京駅の遭難現場をめぐる

東京駅には2枚の遭難現場のプレートが設置されている.凶器が短刀と拳銃の違いはあるが,いずれも単独犯で現職の総理大臣が被害者だ.

立憲政友会総裁の原敬が1918年に内閣総理大臣に任命された.大正デモクラシーの最中での平民宰相の誕生であった.それまでの総理大臣は明治維新に功績のあった薩長の藩士あるいは公家だったから,本格的な政党内閣を組織したのは原敬が初めてだった.大学令を1918年に公布して高等教育機関の拡充を図り,鉄道や道路などのインフラ整備を通じて経済振興を図ったのだが,1921年11月4日午後7時20分,東京駅で殺害された.東京駅から神戸行きの夜行列車に乗る予定で改札口に向かっていたとき,刃わたり5寸の短刀で右胸を刺されて殺されたのだ.東京駅丸の内南口(東京駅南ドームの一角)には殺害現場を示すタイルと「原首相遭難現場」のプレートが設置されている.

東京駅丸の内南口
原首相遭難現場のプレート
原首相が襲われた場所を示すタイル

濱口雄幸は大蔵省に入省し,大蔵次官に就任した後,衆議院議員に転じた.1925年に25歳以上の男性全員に参政権が与えられ,初の男子普通選挙が1928年に実施されたのだ.その普通選挙は立憲政友会と立憲民政党の一騎打ちとなった.立憲政友会は元陸軍大将の田中義一が党首で対外拡大路線と公共投資の促進を掲げ,立憲民政党は濱口雄幸が党首になって国際協調路線と緊縮財政で不況を乗り切る政策を掲げた.結果は立憲政友会217議席,立憲民政党216議席だったので,田中義一内閣は政権を継続した.しかし,関東軍が奉天軍閥の張作霖を爆殺した事件への田中義一内閣の対応について天皇が激怒したという話を聞いて内閣が総辞職したため,立憲民政党の党首が1929年7月に総理大臣となったのだ.協調外交を展開し,軍縮や金解禁を断行したが,ウォール街の大恐慌の影響を受けて深刻な不況が訪れた.

濱口首相遭難現場のプレート
濱口首相が襲われた場所を示すタイル 
仲間の像(圓鍔勝三作)

1930年11月14日午前8時58分,濱口雄幸は東京駅のプラットフォームを歩いていた.岡山県で行われる陸軍大演習の視察と昭和天皇の行幸に付き添うため,列車に乗る予定だった.このときポンという小さな音がして,濱口首相は腹部をおさえて崩れ落ちた.かけつけた医師の手で応急手当が加えられ,手術を受けて一時は快方に向かったが,翌1931年に他界した.犯人は岩田愛之助が主宰する右翼の愛国社の社員だ.なお,岩田は陸軍の橋本中佐を中心とする桜会にも加わっていた.ロンドン条約批准問題などで軍部の圧力に抵抗したことに不満を抱いて凶行に及んだと言われている.濱口首相の意向で一般利用者に迷惑をかけたくないという理由から一般利用者の立ち入り制限を行っていなかったのも災いした.現場には濱口首相遭難現場のプレートと場所を示すタイルがある.新幹線への乗り換え口に近くにある仲間の像の近くだ.

原敬は戦後恐慌,濱口雄幸は昭和恐慌の最中に暗殺された.恐慌の最中に凶行が行われたのだ.

(岡田 明)

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