荏原台古墳群の遺跡と遺物
倭国大乱が終息して邪馬台国の卑弥呼を倭国王とする新体制に移行すると,墳墓の革新が起こった.円形部と矩形部を繋ぎ合わせたような形状の前方後円墳の築造だ.この古墳は石室を盛土で覆って墳丘として,その墳丘を葺石で覆い,後円部の頂上には家形埴輪や形象埴輪などを置いたものだ.そして周囲には円筒埴輪を置き,墳墓の周囲に環濠が巡らされる[1].
古墳は実生活を反映した遺構や遺物とは異なるが,納められている副葬品から当時の生活水準や技術を伺い知ることができる.古墳時代は卑弥呼の時代から,646年の大化の薄葬令までとされるが,地域によっては8世紀前半の古墳もある.一説には卑弥呼の墓とされる箸墓古墳,仁徳天皇陵と考えられていた大仙陵古墳,蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳,極彩色の壁画が発見された高松塚古墳とキトラ古墳などは有名だ.
古墳が築造された時代を3期に区分すれば,前期は3世紀から4世紀になる.中期は5世紀で墳丘の規模は最大となり,後期は6世紀から7世紀だ.東京では少し遅れて4世紀前半からの出現とされる.扇塚古墳,芝丸山古墳,宝萊山古墳および亀甲山古墳が東京南西部の前期古墳の代表だ.扇塚古墳は前方後方墳だが,この時代には前方後円墳が主流だ.野毛大塚古墳や御岳山古墳は中期古墳,後期古墳としては浅間神社古墳や武蔵府中熊野神社古墳などがある.
近隣の古墳といえば,荏原台古墳群だ.大田区田園調布から世田谷区野毛に広がる50基あまりの古墳からなる荏原台古墳群は田園調布古墳群と野毛古墳群に2分される.田園調布古墳群に属する多摩川浅間神社の社殿下にある前方後円墳の浅間神社古墳と調布大塚小学校の裏手にある円墳の鵜木大塚古墳は,いずれも墳丘の上に神社が建っている.扇塚古墳は前方後方墳で,4世紀前半に築造された都内で最古の古墳と考えられたが,1996年のマンション建設によって消滅し,現在は石碑が設置されている[1].
多摩川台公園の両端に鎮座するのは巨大な前方後円墳の亀甲山古墳と宝莱山古墳だ.その間に挟まれたところには8基の多摩川台古墳群が並んでいる.亀甲山古墳は発掘調査が行われていないので詳細は不明だが,古墳を覆う葺石や埴輪等がないことなどから,4世紀後半頃の築造と考えられている.なお,後円部の南側は削られて調布浄水場(現水生植物園)になった.宝萊山古墳は都内で現存する4世紀に築かれたこの地域最古の古墳だが,1934年の宅地造成工事で後円部の3分の2が失われた.いずれも樹木の生い茂った小山なので目視では墳丘の前も後ろも分からない.多摩川台古墳群は6世紀から7世紀に造られたもので,小型の墳丘は容易に視認できる.
多摩川台公園の古墳展示室には荏原台古墳群の解説と遺物の展示がある[2].宝萊山古墳からは小玉,丸玉などが発掘され,浅間神社古墳からは埴輪が出土した.多摩川台古墳群から出土した円筒形埴輪,金環,須恵器長頸瓶に加え,復元された古墳埋葬者の展示も見られる.
野毛古墳群に属する古墳のなかで,玉川野毛町公園内にある野毛大塚古墳と墳丘の周囲に円形埴輪が発見された御岳山古墳はいずれも帆立貝式の前方後円墳だ.これは前方後円墳の前方部分が縮小されたような形態だ.
野毛大塚古墳の墳丘の周囲には深さ2mの馬蹄形の周濠が掘られており,3段に構築された墳丘は葺石で覆われ,円形埴輪がそれぞれの段に巡らされていた5世紀(現場の解説板による説明では5世紀前半だが,文献1では5世紀後半)に築造された古墳だ.その後,野毛大塚古墳は復元され,周囲に円形埴輪が設置され,階段も設けられたとされる[1].しかし,2022年春の発見は,2010年には存在したはずの円形埴輪が見当たらないことだ.
御岳山古墳は草木が生い茂った小山で,5世紀後半から6世紀中葉の築造と考えられている.川原石による葺石,円筒埴輪を伴っていると説明されているが,立ち入り禁止なので現場では確認できない.なお,尾山台二丁目の宇佐神社の社殿裏にある八幡塚古墳は5世紀中頃,狐塚古墳緑地にある狐塚古墳は5世紀後半に築造された円墳とされている[1].
荏原台古墳群では50基あまりの古墳の存在が確認されているが,墳丘が現存するものは運よく公園や神社の境内で保護されているものに限られる.現存するものが朽ち果てて消滅へと向かうのは自然の成り行きなのだ.
文献
1) 大塚初重,東京の古墳を歩く,(2010)
2) 多摩川台公園古墳展示室 https://ota-tokyo.com/ja/destination/tamagawadai-park-kofun-tumulus-exhibition-room/27882
(岡田 明)