ペリーの砲艦外交と幕府の政策転換
江戸時代が概ね平和な時代だったのは軍縮政策の成果だ.1600年の関ヶ原の戦い以降に1614年の大坂冬の陣と1615年の夏の陣,そして1638年から1639年に島原の乱が起こったものの幕末まで大きな戦闘が起こらなかったのは,軍事技術の発達を抑制し参勤交代や天下普請によって藩の財政を悪化させる政策に負うところが大きい.戦時の戦争を戦闘とすれば,平時の戦争は情報戦と経済戦争だ[注1].幕府は平時の戦争において藩に対して優位を保ち,平和を保ったのだ.
使用する武器を刀剣や槍や弓矢に限定すれば,その使用法に習熟するために長期にわたる訓練を受けた武士の優位性が保てることも銃を捨てる政策を進めた理由になるのだろう.江戸時代に銃は害獣駆除には用いられても兵器としての利用は制限されたのだ[1, 2].その帰結は銃や大砲といった軍事技術開発の停滞だ.国内平和が軍縮政策の成果だったとしても,それによる軍事的競争力の低下は異国に征服されるリスクを高めることになった.
1853年にペリー (Matthew Calbraith Perry) が4艘の艦隊 (2艘の外輪式蒸気船と2艘の帆船) とともに来航して開国を迫ったとき,老中・阿部正弘は湯島の鋳砲場と品川台場の築造に着手し,ペリー再来航に備えて意見を募った.意見書は800通を超えたとされ,軍艦の必要性に言及したものも少なくなかった[3].
幕府が大船建造解禁の令を発布して洋式帆船の国産化と蒸気船の入手に取り組んだのは意見書を重視したからだ.直ちに浦賀で西洋式帆船 (軍艦「鳳凰」) の建造が始まったのだが,完成はペリー再来航の後であった.そして幕府はオランダ商館長・クルチウス (Donker Curtius) に軍艦,鉄砲,兵書の輸入を依頼したが,オランダからの蒸気船入手もペリー再来航の後であった.中古の外輪式蒸気船「観光」の入手とスクリュー式蒸気船「咸臨」と「朝陽」のオランダへの発注である.
幕府は水戸藩に石川島造船所の設立を1853年に命じた.石川島造船所では西洋式帆船・旭日丸の建造を1854年に着手し,国産蒸気砲艦・千代田形の建造を1862年に開始した (千代田形の試運転が行われたのは1867年).なお,日本で建造された最初の蒸気船・雲行丸は1855年に完成した外輪式の蒸気船である[4].オランダの書籍 (G. J. Verdamが1837年に出版した蒸気機関の専門書「Gronden der toegepaste Werktuigkunst」を箕作阮甫が1849年に翻訳して島津斉彬に献上した「水蒸船説略」) を参考にして薩摩藩が江戸で蒸気機関を製作し,それを既存の帆船 (ジョン万次郎が設計した洋式帆船) に搭載したものだ.
反射炉の築造については佐賀藩主・鍋島直正が1850年頃から先駆的に取り組み,日本で初めての鉄製大砲が1851年に築地反射炉で鋳造され,1853年になると試射でも破裂しない良質の大砲の鋳造に至った[5].そこで幕府は佐賀藩に鉄製大砲の製造を命じた.佐賀藩は新設した多布施反射炉で1855年から1859年にかけて製造した鉄製大砲を品川台場に設置し,佐賀藩の技術協力によって江戸幕府直営の韮山反射炉が1857年に完成した.なお,佐賀藩の保有する大砲が威力を発揮したのは内戦 (上野戦争) だ.新政府が本郷台に設置したアームストロング砲で上野山の彰義隊を砲撃したのである.
1854年のペリー再来航で日米和親条約が締結されたが,それは曖昧な文面であった.英文と和文に加え,オランダ語と漢文の書類が作成され,英文版にはペリーが署名し,和文版には応接掛3名の署名・花押,オランダ語版と漢文版は日米の通訳の署名がされたが,日米双方が同じ版に署名したものは1通もなかった.そして正文を何語にするかの交渉は日米間で一度も行われず,条約にも正文に関する記載がまったくなかった.
さらに,この条約の第11条は和文と英文では内容が微妙に異なっていた.英文では「両国政府のいずれかが必要とみなす場合には調印より18か月後に米国政府は下田に領事を置くことができる」と書かれていたが,和文では「両国政府が必要と認めた場合は調印より18か月後に米国政府は下田に領事を置くことができる」と書かれていたのだ.
英文の条約に則して総領事ハリス (Townsend Harris) がヒュースケン (Henry Heusken) を伴って下田に入港したのは1856年だ.和文と英文に条約の内容が異なることが発見されたのはこのときだ.上陸したハリスは玉泉寺を宿舎として交渉を進め,1857年にオランダ語訳版を正文とする日米追加条約 (下田条約) を下田奉行との間に締結した.領事裁判権を認めた不平等条約である.
外交関係では双方の国々が異なる解釈を国民に説明するケースがあり,その矛盾が表面化しなければ何ら問題は起こらないのだが,その矛盾が露呈すると外交問題が国内問題になる.日米和親条約の場合も米国が条約の履行を企てたために,外交問題は国内問題になった.
阿部正弘は1857年に死去し,後継の堀田正睦は1858年に失脚して井伊大老が誕生した.そしてアロー戦争に敗北した清朝が不平等条約 (天津条約) を締結した年に,日米修好通商条約が神奈川沖に停泊する外輪式蒸気船ポーハタン号の艦上で調印された.同様な不平等条約はイギリス,フランス,オランダ,ロシアとも締結された.安政五カ国条約である.軍事的な優位性があれば威嚇が常套手段だが,威嚇による解決がなされなかった場合,武力行使による解決に踏み切ることになる.幕府は戦力に劣ることを悟って威嚇に屈し,不平等条約を受け入れたのだ.
条約締結に伴い各国の公使館および領事館が設けられ,外国から宣教師や商人が来日するようになった.米国長老教会の医療伝道宣教師・医師であるヘボン (James Curtis Hepburn) が1859年に来日し,米国オランダ改革派教会から日本派遣宣教師に選ばれたS・R・ブラウン (Samuel Robbins Brown),シモンズ (Duane B. Simmons),フルベッキ (Guido Verbeck) の3名もこの年に来日した[注2].
日米修好通商条約本書の批准交換のためにポーハタン号と咸臨丸で万延元年遣米使節が1860年にワシントンに赴いた.これには勝海舟,ジョン万次郎,福澤諭吉らも参加した.1862年には文久遣欧使節がヨーロッパに派遣された.この使節団には通訳として寺島宗則,箕作秋坪,福澤諭吉が同行した.兵庫と新潟の開港および江戸,大坂の開市期日の延期交渉のためだが,それは修好条約締結を契機に攘夷運動が激しくなって治安が悪化したからである.
第1回目の上海派遣官船の航海が1862年に行われ,長州藩の高杉晋作が従者として,薩摩藩の五代友厚は水手として3本マストの木造洋式帆船・千歳丸に乗り込み,上海には約2ヶ月間滞在した[注3].公式・非公式の留学も始まり,1862年には幕府から派遣された榎本武揚,西周ら10数名がオランダに留学し,1863年には伊藤博文や井上馨ら5名がイギリス留学のため幕府の許可を得ず渡航 (密航) した.開国に伴い外国人が来日するのみならず,日本人の海外渡航も始まったのだ.なお,この時期に修好通商条約を締結したアメリカへの留学が実施されなかったのは,1861年に勃発した南北戦争によって治安が悪化したからである.
日本の開国は砲艦外交によるものであったから,幕府の緊急対策は1853年の大船製造解禁の令に基づき,蒸気船を外国から導入して,その操作法を伝習によって学ぶことだった[注4].そこで1855年にオランダから木造の外輪式蒸気船・観光丸を入手し,それを練習艦として蒸気船の操作法を学んだ.1857年には長崎海軍伝習所で学んだ生徒が観光丸で江戸に移動した.長崎海軍伝習所で学んだ生徒が教師となり,築地の講武所内に開設した軍艦操練所で蒸気船の操作法を新たな生徒に教えるためだ.その後,長崎海軍伝習所は1859年に閉鎖され,神戸海軍操練所が1864年に設置された.
次の課題は蒸気船の建造技術の習得である.まず,1861年にオランダの協力を得て蒸気船の修理を行う長崎製鉄所を完成させた.次に勘定奉行・小栗上野介が中心となってヴェルニー (Léonce Verny) を招き,蒸気船の建造や灯台建設を行う横須賀製鉄所の建設が1865年に始まった.なお,艦船修理や横須賀製鉄所で使う各種器具や船舶用機械の製造のため,横須賀製鉄所に先立って建設されたのが1865年2月に着工し,9月に現在の石川町駅付近に開業した横浜製鉄所である.
幕府は海軍力の強化に続いて陸軍の強化にも取り組んだ.シャノワーヌ (Charles Chanoine) 大尉以下15名のフランス軍事顧問団を1867年に招聘し,幕府陸軍の指導を依頼したのだが,この招聘は遅きに失した[6].軍事顧問団の来日は幕府が事実上敗退した第二次征長戦の翌年で,その翌年には明治維新が起こって幕府は消滅したからだ[注5].
幕末日本の課題は西洋諸国に対して大幅に遅れた海軍力の立て直しであった.武力による威嚇または武力の行使によらずに,二国間交渉および仲介あるいは国際司法裁判所の判決受け入れなどによって国際紛争が解決された事例が決して多くはないことを鑑みれば,防衛体制の強化を喫緊の課題と捉えたのは当然である.緊急対策としての蒸気船の導入とその操作法の学習についてはオランダの協力を得て早急に着手し,中期対策としての蒸気船の国産化については横須賀製鉄所を建設して取り組んだのが,その完成を見ることなく幕府は滅び,明治政府に引き継がれた.
世界の軍事技術は江戸時代の始まりから幕末にかけて飛躍的に進歩していた.槍や弓矢を主要な武器とする戦闘に鉛の弾丸を発射する火縄銃が加わった時代が江戸時代の始まりであったのに対し,幕末にはライフル銃や蒸気船が開発されていた.武器を扱う技能訓練から兵器開発が重視される時代への転換が進んでいたのだ.その時代において,先進的な軍事技術を入手することは当面の対策ではあったが,恒久的な対策は軍事技術の開発を通じて軍事的優位性を高めることであることは言うまでもない.
滑腔銃身で前装式の火縄銃は扱いやすく,射程が長く,命中度を高める方向に進化を遂げた.技術的には,(i) 雷管を用いた火薬への点火,(ii) 銃身の内部に螺旋状の溝を刻んだライフル銃,(iii) 前装式から後装式への銃器の進歩とそれに伴う銃弾の進化だ.銃弾は弾頭・発射薬・雷管を薬莢に収めて一体化した円錐形の実包が開発された.そしてガトリング砲に始まる連発銃 (機関銃) の開発が進められ,昨今の戦場で標準的に携行するのは自動小銃だ.他方,外燃機関である蒸気機関はその後,内燃機関へと進化し,船舶用にはディーゼル機関が普及した.そして一部の船舶には原子炉を熱源とする蒸気タービンが用いられるようになった.
銃や大砲は火薬の爆発力を利用して弾丸を発射するのだから,発射するときの初速度と角度によって飛行体である弾丸の到達位置は支配され,その射程距離には限界がある.さらに射程を伸ばすためには飛行体自身に推進能力を付与する必要がある.空中・宇宙を移動するロケット弾・ミサイルや水中を進む魚雷は,弾頭に爆薬を搭載し,エンジンで推進する破壊兵器だ.命中度を高めるには誘導システムの導入が効果的だ.ロケット弾は誘導装置を取り付けて目標に向かって飛行するミサイルへと進化した[注6].
軍艦に搭載された大砲や兵士が携行する銃器の基本的な活用法は軍事拠点の爆撃や敵軍兵士の殺傷であり,魚雷やロケット弾やミサイルの攻撃目標も通常は軍事施設等に設定される.しかし,民間人を含む無差別殺人を目的とするならば,細菌兵器,化学兵器,核兵器などの大量破壊兵器は効果的だ[注7].
ヨーロッパ人がアメリカ大陸に進出すると,先住民の人口が急速に減少したのは旧大陸から持ち込まれた感染症の寄与が大きい.麻疹や天然痘などの深刻な感染症に加えて,ジフテリアやおたふく風邪もアメリカ先住民には深刻な脅威であり,熱帯アメリカにはマラリアと黄熱病がアフリカから持ち込まれて猛威を振るった[7].実際,1492年には約800万人であったイスパニョーラ島 (ハイチとドミニカ) の先住民の人口は1535年にゼロとなり,ハワイの先住民の人口も感染症の流行によって1779年の50万人から1853年に8万4000人にまで減少した[8].
病原菌に汚染された衣料品などの先住民への贈り物はトロイの木馬だ.天然痘に感染した人々が接触した衣料品などは細菌兵器として機能するのだ.好意を装った先住民への贈り物には,無差別殺人を意図する悪意が秘められていたと言っても過言でない.
風上から毒ガスを流せば,風下の兵士は甚大な被害を受ける.アンモニア合成で知られるハーバー (Fritz Haber) は第一次世界大戦中に毒ガス開発に従事し,塩素ガス (Cl₂),ホスゲンガス (COCl₂),マスタードガス (C₄H₈Cl₂S) などが実戦で使用された.ハーバーは「戦争をこれによって早く終結することができれば,無数の人命を救うことができる」とオットー・ハーン (Otto Hahn) に語り,1915年に毒ガス (塩素ガス) を実戦投入した.夫の毒ガス開発に反対していたハーバーの最初の妻であるクララ・イマーヴァール (Clara Immerwahr) はその直後にピストル自殺し,ハーバーは毒ガス開発に従事していた1918年のノーベル化学賞を受賞した[9].
核兵器の開発については,オットー・ハーンとシュトラスマン (Friedrich Strassmann) の実験データを解析して核分裂の起きたことを発見したリーゼ・マイトナー (Lise Meitner) の寄与が大きい.ユダヤ系女性研究者のマイトナーは1938年にドイツからスウェーデンに脱出していたときに,共同研究者のハーンらの実験データを甥のフリッシュ (Otto Robert Frisch) とともに解析して核分裂の起きたことを発見したのだが,この情報は1939年に論文が公開されるまでによく知られるようになった[注8].なお,ハーンは核分裂の発見により,1944年のノーベル化学賞を単独受賞した.
連鎖的核分裂反応の研究がアメリカで急速に進められた.1942年には原子炉で臨界に達したことをフェルミ (Enrico Fermi) が確認した.1945年7月にニューメキシコで行われた世界初の原子爆弾 (原爆) の実験は,プルトニウム239の核分裂連鎖反応による核実験だ.プルトニウム239は原子炉でウラン238が中性子を捕獲し,それがβ崩壊して生成する.なお,長崎に投下された原爆も同じプルトニウム原爆である.
広島に投下された原子爆弾は高濃縮ウランの核分裂連鎖反応による世界初のウラン原爆だ.臨界質量以下のウラン235の2つの塊を合体させて臨界質量以上にすると核爆発が起こる.天然ウランの約99.3%はウラン238だが,原爆に利用するには天然ウランに約0.7%程度しか含まれていないウラン235を濃縮する必要がある.ウラン235を20%以上に濃縮すれば核兵器への転用が可能な高濃縮ウランになるが,一般には90%以上の兵器級に濃縮して利用される.
濃縮ウランやプルトニウムの臨界質量は濃縮度に依存し,それは大きな危険を伴う実験によって決定される.2つの塊を次第に接近させたときの放射線をガイガーカウンターで検出するのだ.ロス・アラモスでの臨界実験では多量の放射線を浴びて落命した犠牲者を出しながら,ウラン235は56 kg (中性子を反射するタンバーで覆うと15 kg),プルトニウム239は11 kg (タンバーで覆うと5 kg) という臨界質量の値を計測した[10, 11].
原爆における核分裂連鎖反応は急速に進むために爆発に至るのだが,その連鎖反応を制御して一定の規模に抑制すると原子炉になる.減速材に普通の水を用いる原子炉が軽水炉だが,それに用いる燃料はウラン235の濃度を3~5%に高めた低濃縮ウランの酸化物 (UO₂) である.なお,ウラン235やプルトニウム239の核分裂は中性子を吸収した直後に起こる.そして核物質が吸収しやすい中性子は速度の遅い熱中性子だが,核分裂が起こると原子核は2つに分裂し,そこから放出される中性子は高速の中性子である.そこで,原子炉では核分裂反応を継続させるために,核分裂で発生した中性子の速度を低下させる減速材が用いられる.高速の中性子は減速材との弾性衝突によって運動エネルギーを徐々に失って熱中性子になる.減速材に中性子の質量に近い水素の原子核を利用するものが軽水炉だ.
天然ウランによる核分裂反応が実際に起こっていた痕跡はガボン共和国のオクロ鉱床で発見されている.現在は核反応が停止してしまったオクロの天然原子炉である.約20億年前のウラン235の同位体比率が高かった時代に,ウラン濃度が高くなった地層で核分裂反応が起こったものと考えられている.ちなみにウラン235の半減期は約7億年でウラン238の半減期の約45億年よりはるかに短いから,ウラン鉱物中のウラン235の同位体比率は時間の経過とともに減少する.
水素爆弾 (水爆) は重水素および三重水素の核融合反応を利用した核兵器だ.起爆には原爆が用いられ,それによって核融合が生じる高温・高密度の状態を達成するのだ.そして実用的な水爆開発には材料開発も重要だ.1952年にエニウェトク環礁で行われた人類初の水爆実験では冷却液化した重水素を用いた巨大な装置だったのだが,固体の重水素化リチウムを用いる技術開発は水爆の小型軽量化に寄与した.ただし,リチウムの寄与は小型軽量化のみならず核融合反応も促進した[注9].
軍事技術の発展を振り返れば,道具としての武器使用の段階では,刀剣,槍,弓矢と言った武器使用に習熟することが重要で,長年にわたる技能訓練を行った武士階級が重用された.その後,銃砲が普及すると武器使用技術の習熟に要する時間は短縮され,武士階級は没落し,国民皆兵制度が普及した.さらに,化学兵器や核兵器といった大量破壊兵器が登場する段階になって重要性が高まったものは,基礎科学とそれを応用した技術開発能力だ[12a, 12b].軍事的優位性の担保は,(i) 武器を扱う兵士の属人的な能力から,(ii) 保有する兵器の性能に移行し,さらに (iii) 軍事技術による差別化が重要な時代へと変化を遂げてきたのである.
工業化時代の戦争は軍事拠点への破壊攻撃から一般市民を含む無差別殺戮を狙った攻撃へと拡大したが,殺傷と破壊を目標とすることには揺るぎはなかった.今後の進化の方向は不確定だが,人工知能 (AI) の技術を援用した自律型兵器の技術開発が発展すると予測されている.現状はミサイルに情報技術を組み合わせて,ピンポイントへの攻撃が可能な段階だ.
軍事情報には偵察衛星や無人偵察機によって得られるもの以外にも,さまざまな防犯用の監視システムの流用も可能であり,命中精度を高めるにはGPS精密誘導爆弾や画像センサを取り付けてターゲットを画像認識する弾頭なども効果的だ.このように軍事情報の技術をAIなどの先端的民生技術から区分することが極めて難しくなっているのが現状である.
情報技術を援用した無人のドローンやロボット兵士による攻撃の技術進歩は著しい[注10].オペレーターの遠隔操作によるミサイルやドローンによる攻撃から,ミサイルやドローン自体が判断を下す致死性自律型兵器 (LAWS: Lethal Autonomous Weapon System) への進化である[13a, 13b, 13c].このようにピンポイントの攻撃精度が高まれば,特定の個人を遠隔で攻撃する暗殺技術へと進化すると予測される.大規模な殺傷と破壊を目標とする消耗戦から軍事指導者の殺害等によって敵軍隊の機能を停止させる麻痺戦への転換だ[14].
無線操縦による無人機・プレデターの初の実戦投入は1995年であった[15].半自律型兵器としては,イージス兵器システム,無人戦闘航空システム (X-47B UCAS) やMQ-9リーパー (MQ-9 Reaper) が開発された.X-47B UCASでは航空母艦への離発着に人間が介在することはないが,兵器の発射だけは人間が制御するシステムであり,MQ-9 Reaperは半自律型の無人攻撃機である[16].そしてAIの発達によって,半自律型から自律型兵器への進化は時間の問題となった.
ドローンに取り付けた拳銃を遠隔操作で発射させる実演を2015年に行ったのはティーンエージャーである[17].顔認証システムと銃の電子制御システムを組み合わせて特定の個人を狙い撃ちにするシステム構築も技術的には極めて容易である[17].自律型のドローンやロボットに殺傷システムを搭載し,画像認識システムを組み合わせれば,熊退治に有用なことは論を俟たないが,殺傷対象は熊に限定されるものではない.しかし,このような既存の先端的民生技術の軍事転用を妨げることは極めて困難だ.
監視カメラと顔認証システムを組み合わせて特定の個人を狙い撃ちにする殺傷システムは銃撃とは限らない.猛毒リシンを傘の先端に仕込んでターゲット (ブルガリアからの亡命者) に注入して殺害した事件は1978年のロンドンで起きた.そしてロシアからの亡命者がロンドンで毒殺された2006年のリトビネンコ事件では,放射性物質のポロニウム210が盛られた.
高出力のレーザーやマイクロ波をターゲットに向けて照射する指向性エネルギー兵器 (Directed Energy Weapon) も現在は非致死性兵器 (Active Denial System) の段階に留まっているが,さらなる高出力化が進めば間違いなく殺傷システムに組み込まれるであろう[18].
暗殺技術の進化は,暗殺を担う諜報部員の命がけの行動から自律的暗殺システムへの進化であることも間違いなさそうだ.既に,顔認証システムと電子制御された殺傷装置を組み合わせた自律的暗殺システムが秘密裏にどこかで稼働していることも想定しなければならない時代になっているのかもしれないのだ.
通信技術が未発達な時代における情報戦の主役は手紙による調略,噂や偽情報の流布によって意図的に引き起こす敵陣営の混乱などが中心であったが,工業化時代には通信技術の発達によって通信の傍受やプロパガンダとしての偽情報の発信が可能となった.インターネットが発達した情報化時代には,不正アクセスによる情報の窃取や情報システムの機能停止を引き起こす攻撃が現実化した.なお,海底ケーブルや偵察衛星の破壊のような情報システムへの物理的な攻撃も効果的だ.
冷戦時代に核抑止力による平和が保たれたのは,核兵器による報復攻撃を恐れたためだが,情報技術の進歩によってサイバー攻撃による戦時の指揮系統や軍事システムの無力化のみならず,平時の社会システム等への攻撃も可能な時代となっている.核兵器を作動させる情報システムを破壊してしまえば,核報復の懸念もなくなるのだ.
生物における戦いの起源は縄張りの防衛であったと推察されるが,人間における戦いの目的は敗者の奴隷化を通じた階級社会の成立を経て,異民族の殺害による民族浄化へと移行が進んでいるのかもしれない[注11].奴隷に代わる労働力をロボットを含む機械が担うとすれば,世界を支配しようとする権力者が獲得を目指すものは何だろうか.暗殺に手を染めた権力者が自身の安全を希求するなら,弾圧以外に選択肢は思い浮かばないかもしれない.独裁的専制政治をモットーとする権力者は恐怖政治に向かいがちだ.幕府は不平等条約を甘受するなかで軍事力増強を図ったのだが,恐怖政治を主導した井伊直弼は弾圧の報復として暗殺された.
[注1] 戦時における情報戦にはさまざまな偵察・諜報活動,通信施設や情報システムに対する攻撃を通じた通信妨害,指揮統制システムへの武力攻撃などが含まれる.他国の個人をターゲットにした心理戦では,弱みを握って脅迫によって行動を支配することは工作員活動の成果の1つだ.検閲,プロパガンダ,洗脳教育などによって自国民の心理に影響を及ぼすことも心理戦の働きだ.敵国の世論を自国に有利な方向に誘導する情報操作については工作員の地道な活動が主体であったが,近年はWebサイトやSNSへの投稿を通じた偽情報流布などによる認知戦も行われている.敵国の一般市民に自国に有利な情報を吹き込み,世論を分断して自国に有利な世論が形成されれば作戦は大成功である.認知戦では,言論の自由を保障された民主主義国家が権威主義体制に対して不利な戦いを強いられることは否定しがたい.捕虜を捕らえて身代金を要求するのは戦時の行動だが,コンピュータをターゲットとしたサイバー攻撃で金銭を要求するのは平時の行動だ.機関投資家が独立国家に仕掛ける平時の攻撃には通貨をターゲットにした金融戦も含まれる.1997年のタイの通貨危機では,通貨に空売りを仕掛け,安くなったところで買い戻すことで機関投資家は利益を得たのだが,その機関投資家の利益がターゲットとされた国家財政の損失に相当するのはゼロサムゲームの帰結だからだ.非軍事の戦争行動には,経済秩序に打撃を与える密輸戦,他国の世論を誘導するメディア戦なども含まれる[19].新しい戦争の形態 (ハイブリッド戦) では平時と軍事の境界もなくなるとされる.恫喝によって侵略を企てる国家戦略が平時でも稼働していることに無頓着な国家・国民は格好のターゲットとなる.戦時での戦争に巻き込まれていなくても,平時での戦争を放棄することはできないのだ.
[注2] 医学博士のヘボンは横浜に到着して医療活動を開始し,1862年に発生した生麦事件では負傷者の治療にあたった.1863年に横浜居留地に開設したヘボン塾は明治学院及びフェリス女学院の源流となった.そして1867年に編集した日本最初の和英辞典である「和英語林集成」では日本語を英語で表記したのだが,その表記法は後にヘボン式ローマ字として知られるようになった.フルベッキはオランダ出身でアメリカ合衆国に移民し,エンジニアから宣教師に転身した.長崎に到着すると,私塾で英語などを教えながら日本語を学んだ.1864年に幕府が長崎につくった長崎英語伝習所の英語講師,1869年には大学の設立のため江戸に出仕し,開成学校の教頭を務めながら学校の整備を行った.ブラウンは神奈川で日本語の学習と聖書の和訳を始め,1862年には英語通訳養成のために開校した横浜英学所で英語を教え,1873年に横浜市山手に開いたブラウン塾は明治学院や東京神学大学の源流となった.そしてシモンズはヘボンとともに横浜の近代医学の基礎を築いた.
[注3] 第1回目の上海派遣官船は1862年,第2回目は1864年,第3回目は1865年,第4回目は1867年に行われた.
[注4] 幕府はオランダ商館長・クルチウス (Donker Curtius) に蒸気船を発注したのだが,クリミア戦争が1853年に勃発したためにオランダからの洋式艦船の購入は難しくなった[3, 20].そこでオランダは長崎に1854年に入港した外輪式蒸気船「スンビン (Sembing)」の滞留中,ファビウス (Gerhardus Fabius) が造船術,航海術,蒸気機関学などの伝授を行った.さらにファビウスが幕府に提出した意見書をもとに,幕府はオランダと協議し,オランダは (i) スンビンを日本に贈呈し (船の日本名を「観光丸」とした),その操縦法を長崎海軍伝習所で教えること,(ii) 新たにスクリュー式蒸気船2艘 (咸臨丸と朝陽丸) を建造することとした.長崎海軍伝習所では1855年からライケン (Pels Rijcken) が練習船「観光丸」を使用して教授した.その後,観光丸は1857年に長崎から江戸に向かい,築地に開設された築地軍艦操練所での伝習に使用された.長崎海軍伝習所では,1857年から1859年までカッテンディーケ (Willem Johan van Kattendijke) が「咸臨丸」を練習船として伝習を担当した.
[注5] 1853年にペリーが黒船で来航すると日本の海軍力の劣勢が危惧され,1863年の薩英戦争 (生麦事件の賠償金を幕府から獲得したイギリスが,さらに薩摩からの獲得も目指して鹿児島湾で威嚇し,停泊中の蒸気船を拿捕して金品を強奪して始まった戦い) と1863年と1864年の下関戦争 (長州藩が1863年に行った攘夷決行に対する報復砲撃) では劣勢が実証された.そして1866年の第二次征長戦では幕府の軍事力の劣勢が明白になった.長州藩は最新式の銃を保持していたのに対し,幕府の銃器は旧式であったためだ.長州は薩摩藩の協力を得て,南北戦争で使用された射程の長い中古の銃を入手していたのだ.なお,幕府が進めた横須賀製鉄所の建設および軍事顧問団の招聘にフランスを選択したのは消去法による[6].幕府はアヘン戦争をはじめとするイギリスの侵略行為およびロシアの北海道への侵入行為に警戒心があり,初期には最も友好的であったアメリカでは南北戦争の混乱があったからだ.ただし,1864年に横浜外国人居留地の背後にあった埋立地で横浜駐屯のイギリス軍と野毛に駐屯していた幕兵との共同大観兵式が行われ,その後もイギリス公使に軍事教練依頼も行っていたのだから,軍事顧問団の招聘についてはイギリスとフランスの二又をかけて交渉を行っていたことになる[6].
[注6] 火薬の爆発力で銃弾や弾丸を飛ばす銃砲は,一端を封じた金属筒のなかで火薬を爆発燃焼させ,その燃焼で生じた圧力で銃弾や弾丸を飛行させる仕組みだ.他方,一端を封じた金属筒のなかで火薬を燃焼させれば,燃焼ガスが後方に押し出される反作用で金属筒は前方に飛び出す.これがロケットで推力の発生する原理である.ロケット式火箭は中国で明の時代に使用され,黒色火薬を用いたロケット式花火・龍勢 (農民ロケット) は日本の秋の祭事として,現在でも打ち上げが行われている[21].1799年にインドのマイソール公ハイデル・アリはイギリス東インド会社に対して火薬ロケットで攻撃した.これがロケット兵器の初めての主戦兵器としての使用とされる.マイソール軍のロケット技術をもとにしたコングリーヴ・ロケットがイギリスのコングリーヴ (William Congreve) によって1802~1804年に開発され,それはナポレオン戦争や米英戦争に投入された[21].火薬ロケットは液体燃料ロケットへと進化する.液体燃料ロケットの考案者はツィオルコフスキーだが,米国クラーク大学のゴダード (Robert Hutchings Goddard) は液体燃料ロケット (液体酸素とガソリン) の飛行実験に1926年に成功し,ドイツのフォン・ブラウン (Wernher von Braun) のチームはこの研究を継承してV2ロケット (開発時の名前はA4ロケットだが,ロンドン爆撃のときの名前はV2ロケット) を1942年に開発した[22].V2ロケットの技術は戦後にアメリカとソ連に移植され,弾道ミサイルと宇宙ロケットの技術開発が進んだ.V2ロケットの技術をもとにして,1952年にアメリカが生産を開始した弾道ミサイル・レッドストーンは核ミサイルとして配備され,それを改良したジュノーⅠはアメリカ初の1958年の人工衛星打ち上げに利用された.ソ連の宇宙開発を支えたR-7ロケットはセルゲイ・コロリョフが開発したもので1957年に世界初の人工衛星・スプートニク1号の打ち上げに使用された.1959年から実戦配備された大陸間弾道ミサイル (ICBM) がアトラスミサイルで,1962年にアメリカ初の有人地球周回飛行に成功したときにはアトラスロケットが利用された.ロケットはミサイルを人工衛星打ち上げや有人飛行用に改良したものだ.
[注7] 一般市民の無差別殺戮に使用される兵器はさまざまだ.東京大空襲やベトナム戦争では有機化学の教科書で知られるハーバード大学のフィーザー教授 (Louis Frederick Fieser) が開発したナパーム剤 (ガソリンにアルミニウムの脂肪酸塩を加えてゲル状にしたもので,焼夷弾の着火剤は白リン) 入りの焼夷弾が使用された[23, 24].人口密集地に投下した焼夷弾は,水による消火が困難なため効率的に市民を殺害することができるのだ.焼夷弾や核兵器が効率的に市民を殺害したことは否定しがたいが,大量破壊兵器に勝る高い効果の得られた手法は人為的な飢餓による餓死だ.20世紀に発生した世界の民衆殺戮の統計によれば,ソビエト連邦は 6,191万1千人,中国共産党は3,870万2千人,ナチスは2,200万人,中国国民党は1,021万4千人,日本の軍国主義者は589万人を殺した[25].スターリンの大粛清やホロドモール (ウクライナで起きた人為的な大飢饉) の犠牲者,毛沢東の大躍進政策や文化大革命による餓死者などが民衆殺戮の犠牲者数の上位にランクされている.政治権力による民衆殺戮の犠牲者は,1900年以来の第一次世界大戦と第二次世界大戦を含んだ戦死者数3,565万4000人をはるかに凌駕する.免疫のない先住民への感染症の導入が無差別殺戮に効果的であったことはヨーロッパ人の新大陸の進出の際に実証されたが,人為的な飢餓や強制労働による民衆殺戮の効果はソビエト連邦および中国共産党などが実証した.
[注8] マイトナーとフリッシュ (当時,ボーアの研究所に在籍) の論文が公開されるまでに核分裂発見のニュースが広がったのは,ボーア (Niels Bohr) が1939年に渡米したときの船の中での議論が始まりだ[26].フリッシュはボーアに論文の公開前に論文の内容を公表しないように伝えていたのだが,アメリカ行きの船上で行われた物理学者ローゼンフェルト (Leon Rosenfeld) との議論でボーアは核分裂の仕組みを説明してしまった.ローゼンフェルトはすぐさまプリンストン大学のセミナーでその話を公表してしまったので,ボーアがアメリカに到着した直後にはマイトナーの発見はよく知られるようになっていた.
[注9] 1954年にビキニ環礁で行なわれた水爆実験で第五福竜丸が被害を受けたのは,核融合反応に重水素のみならずリチウムが関与したために予測以上の大爆発になったからだとされる[27].リチウム7の原子核に入ってきた1個の中性子が2個の中性子を叩きだす反応を見落としたために,5メガトンの爆発力の予想が実際には予想よりはるかに大きな15メガトンの爆発力となった.爆心地での被害は核爆発による超高温によるものなので即死を免れることは困難だが,その外側での被害は放射線,爆風および熱線によるので,自己防衛がある程度は可能となる.爆風から身を守るには地面に伏せることで一定の効果があり,熱線や放射線から身を守るには建物の中にいるだけでもある程度の効果がある.自己防衛の効果が大きいのは,地下 (地下鉄駅に退避すれば,安全な出口からの脱出も可能) に退避することだ.広島,長崎の被害者の多くが熱線による焼死だったのは,核爆発のエネルギーのかなりの部分が熱線となって広範囲に被害を及ぼしたからだ.核爆発による即死を免れたとしても,放射性降下物 (フォールアウト:死の灰) による被害を免れるとは限らない.核爆発によって中性子線やガンマ線などが発生するのだが,初期フォールアウトは爆心地での土砂や建物の残骸が中性子を吸収して放射化され,それが新たな放射線源となって爆発の直後に降ってくるものだ.遅延フォールアウトはキノコ雲の中に生成した放射性物質が上空に留まって,それが世界各地に遅れて降り注ぐものだ.被ばく線量が高ければ急性放射線障害,低ければ癌発生の確率が高まる.第五福竜丸の乗組員の被害は主に初期フォールアウトによるものだった.そして核爆発によって発生したガンマ線は大気中の分子から電子を弾き飛ばして電磁パルス (EMP: Electro-magnetic Pulse) を発生させ,電子機器の動作に影響を及ぼす.
[注10] ロボットの概念は古くからあったが,20世紀後半の実用的なロボットの大半は工場で働く産業用ロボットであった.自動車工場ではスポット溶接や車体塗装に利用されていたが,その産業用ロボットは組み立て作業や搬送業務へと用途が拡大し,製造ラインや倉庫作業の自動化に大きく貢献した.21世紀になると自律走行型のロボットが登場して,既に家庭での床清掃のみならずレストランでの配膳業務に従事している.二足歩行ロボットの構想は古いが,1980年代に公開が始まった本田技研工業のアシモ (ASIMO) の開発は注目を集め,四足歩行型ロボットとしては,1999年に発売された仔犬型のエンタテイメントロボットのアイボ (Aibo) は人気を集めた.21世紀には実用化も進み,自律走行型の四足歩行ロボットのビッグドッグ (Big Dog) が軍馬の担っていた戦地での物資補給を担うようになっている.既にホテルの受け付け業務などに従事しているのは人間類似型や動物型ロボットだが,外見を限りなく人間に近づけた人間酷似型ロボットの開発も進められている[28a, 28b].
[注11] 多くの鳥類における戦いは,捕食・被食関係を除けば,営巣場所の確保とその防衛が中心だ.哺乳類や昆虫では餌やメスの確保を目的とする縄張り争いが知られている.オオカミやライオンなどの肉食獣の縄張りは草食動物の豊富な狩場で,カブトムシやクワガタムシの縄張りは樹液の豊富な餌場だ.一雄多雌群を形成するハヌマンラングールなどではメス集団を支配する1頭のオスが繁殖に関与するが,一夫多妻のハーレムを形成するマントヒヒにおけるメス同士の結束は極めて弱い.メスは幼いときに親元から拉致され,オスの暴力的支配によって集団に留められているからだ.人間の社会では,狩猟採集社会から農耕社会への移行に伴い,農民を暴力的に支配する階級社会が誕生した.それは農業生産物に価値があったから,その生産者を支配することに価値が生じたのだ.実際,近世のロシアでは毛皮が富を生み出すので,シベリアの狩猟採集民を暴力的に支配して毛皮税を徴収した.農作物であれ毛皮であれ,権力者は富の生産者を支配してその富を強奪するのだ.15世紀のヨーロッパで戦闘を極力避ける制限戦争が行われていたのは,専制君主の権力が傭兵に依存していたためだ.傭兵は戦争をビジネスと捉え,敵を殺傷するよりは捕虜として捕らえてその身代金を得ることで大きな利益を得た[29].絶対王政の発達した17世紀から18世紀にかけては,戦闘を避ける必要はなくなり消耗戦が盛んになった[14, 29].徴兵による常備軍が設置され,兵士の消耗は徴兵適格者名簿で迅速に補うことができるようになると兵士は安価な消耗品となったからだ.工業が発達すると鉱物資源の確保が重要となり,戦争の主要な目的がそれまでの耕作地に付随する農民の支配や敗戦国からの賠償金の徴収から,先住民を追い払って土地を強奪することに変化する.搾取可能な富を生みださないインディアンやアポリジニをかつては殺害してその居留地を略奪したのだが,民族浄化が隠された戦争目的として重視されるようになったのは,富の主要な源泉が農作物から鉱物や工業製品への転換に関係するのかもしれない.1829年にチェロキー族の居住地の近くに金鉱が発見されると搾取可能な富を生みださない先住民は土地を奪われ,強制移住の対象となった.1838年に行われた強制移住は涙の道だ.チェロキー族の絶滅は免れたのだが,多くのインディアンが命を落とした.オーストラリアへの侵略者は先住民のアボリジニを虐殺して植民地化を進めた.アボリジニの人口は急速に減少したものの絶滅には至らなかったのだが,19世紀前半に起こった黒い戦争 (Black War) ではタスマニア人が侵略者 (入植者) に虐殺され,ほぼ絶滅に追いやられた.ナチスはユダヤ人を殺害して民族浄化を図ったが,その報復対象をナチスからアラブ人に変更するならば支離滅裂だ.スターリン政権は1917年から1921年のソビエト・ウクライナ戦争で敗北したウクライナ人を標的としたホロドモール (人為的な大飢饉) を1932年に開始したが,生き残ったウクライナ人は2022年に始まったロシアによるウクライナ侵攻で再び多くの民間人が犠牲となった.多様な人類社会における絶滅危惧民族はアイヌ民族だけではないようだ.
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