禁じられた海外渡航と江戸時代の漂流民

はじめに
鎖国令によって江戸時代の海外渡航は禁じられていた[注1].大船建造の禁によって朱印船のような航洋型の船は利用できず,江戸・大坂などを結ぶ国内航路には穏やかな瀬戸内海で発達した沿岸用の廻船 (弁才船と呼ばれる船形に統一された帆走専用の沿岸航路用荷物船) が使用されていた[1, 2, 3].

弁才船の建造は容易で安価でもあり,1枚の帆を10~15人程度の少人数で操れるためにランニングコストも低く抑えられて経済性は高いのだが,航海中に強風・荒波に襲われると漂流が始まるリスクも高く,異様に大きな舵 (たたみ6畳から9畳程の大きさ) が破壊されれば漂流は必至であった.

舵を失って漂流が始まれば,いずれ水と食糧が尽きて乗組員の命も尽きる.八丈島や種子島といった日本近海の島々に漂着した場合を除くと,漂流民の相互返還の関係にあった中国や朝鮮や琉球への漂着は幸運であり,帰国は容易に実現した[4].ベトナム (安南) に大乗丸が1794年に漂着したときにも,安南国政府に丁重に保護され,翌年の清国船で長崎に帰国したと「南瓢記」には記されている[4].

それ以外に生きて帰還した事例は,(i) 無人の島 (小笠原諸島や鳥島) に漂着して自力で船を建造して生還,あるいは (ii) 人の住んでいる海外の陸地への漂着 (カムチャツカ半島,アリューシャン列島および北アメリカ大陸などへの北方漂流) や外国船に救助され,外国船での帰国にほぼ限られる[5, 6].

南方漂流 (南海紀聞で知られるボルネオやバタン諸島などへの漂流) では,漂流民が原住民に捕らえられて奴隷化されてしまうケースが多く帰還は奇跡的であった[2, 6].そして太平洋での捕鯨船の活動が活発になった1800年代になると,アメリカ船による救助が急増した[6].

漂流事件の大部分は転覆・沈没して海の藻屑となって記録には残らなかったと推察されるが,漂流から帰還すればその事情調書は漂流事件として記録に残る.ただし,調書に記された内容は帰還者の記憶に基づくものだから必ずしも正確とは限らず,キリスト教の信仰を疑われないための偽証も含まれるとして読み解く必要があるのだろう[6].漂流の経緯がわかる事件としては,江戸時代の漂流記を所蔵する機関の図書目録から少なくとも341件が把握されている[4].ジョン万次郎に代表される有名な漂流記は氷山の一角なのだ.

無人の島 (小笠原諸島と鳥島) への漂着
1670年に長右衛門ら7名が無人の島であった小笠原諸島に漂着した[7, 8].紀伊の国から江戸に向かう途中に強風に襲われて漂流したのだが,長右衛門らはそこで新たな船を建造し,八丈島を経由して下田に帰還した (船頭の勘左衛門は漂着日に死亡したので帰還者は6名).

幕府は1675年に島谷市左衛門を船頭とする調査船を派遣し,父島に祠を建てて小笠原諸島の領有宣言を行ったのだが,小笠原諸島をそのままに放置した.その結果,1827年にはイギリス船が来航して英領宣言を行い,1830年になると5人の欧米人と20人のハワイ人が父島に入植した[6, 8].小笠原諸島は日本が領有する無人島であったが,領有宣言のみで150年以上もそのまま放置したために欧米人などが居住する有人島になっていた.

鳥島は多くの漂着者が辿り着いた無人の島だ[2, 5, 9, 10].弥三右衛門船は鹿児島湾の山川港から志布志への1696年の航海で激しい西風によって流され,54日間の漂流で鳥島に辿り着いた.帰還のために行ったことは,島での79日間の生活の間に外洋の航海に耐える船を建造することだった.そして本土へと向かう航海に漕ぎだすと,10日後の夜には遠江の川尻の砂浜に到着した[2, 5].なお,鳥島にはその後も次々と漂着者が辿り着いている[注2].

ロシアに漂着した日本人
カムチャツカ半島やアリューシャン列島に漂着した日本人はロシアに渡った.大黒屋光太夫らは伊勢 (白子港) から江戸へ向かう廻船・神昌丸が漂流し,1782年にアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着した[2, 6, 11, 12, 13].後にアメリカの核実験が行われた島である.津太夫らは石巻から江戸へ向かう途中に若宮丸が漂流し,1794年にロシア人の住む陸地 (アリューシャン列島のウナラスカ島あるいはアンドリアノフ諸島の小島とされる) に漂着した[3, 5, 6, 12, 13].

光太夫は磯吉と小市とともにエカチェリーナ2世に謁見し,1792年にロシア最初の遣日使節アダム・ラスクマン (Adam Laxman) に伴われてオホーツクを出港して根室港に到着した (日本語教師となった新蔵はロシアに帰化).津太夫も儀兵衛,太十郎,佐平とともにアレクサンドル1世に謁見し,国交樹立のための遣日使節ニコライ・レザーノフ (Nikolai Rezanov) に伴われて1804年に長崎に到着した (通訳として同行した善六はロシアに帰化).いずれも帰国した漂流者は通商交渉のカードとして利用されたのだ[注3].

そして桂川甫周は大黒屋光太夫の体験談を「北槎聞略」に,大槻玄沢と志村弘強は津太夫の体験談を「環海異聞」にまとめた.なお,レザーノフの船はペテルブルグを出港し,南米回りでハワイ王国を経由し,カムチャツカ半島のペトロパブロフスクを経て来航したのだから,津太夫らは日本人初の世界一周を達成したことになる.

ロシアに漂着した日本人のなかには,新蔵や善六のように帰国せずに日本語教師となったものがいる[注4].1696年にカムチャツカ半島に漂着した伝兵衛 (デンベイ) はロシアで初めての日本語教師で,1701年にピョートル1世に謁見した[5, 11, 13, 14, 15].1710年にカムチャツカ半島に漂着した三右衛門 (サニマ) は伝兵衛の助手になり,1729年にカムチャツカ半島に漂着した権蔵 (ゴンザ) と宗蔵 (ソウザ) もサンクトペテルブルクで日本語を教えた.

1748年には南部多賀丸の漂流民・三之助らが日本語教師に任命され,日本語学校は1753年にサンクトペテルブルグからイルクーツクへと移転した.教師は日本人漂流民によって絶えず補充されたのだが,生徒がいなくなったので1816年に閉鎖された[注5].そして1855年になると日露和親条約が結ばれ,アイヌ民族の居住地である千島列島と樺太の領有をめぐる協議が始まることになる[注6].

アメリカ大陸への漂着と外国船による救助
小栗重吉は督乗丸で江戸から師崎に向かう途中に遭難し,1815年にカリフォルニア州サンタバーバラ付近の洋上でイギリスの商船フォレスタ号に生き残った3人が救助されるまで484日間にわたって漂流した[2, 5, 6, 14, 16, 17].フォレスタ号のピケット船長は航海の予定を変更して3人をカムチャツカに回航した.3人はそこで薩摩からの3名の漂流民 (喜三左衛門ら) と出会い,6人で丸木舟を漕いで得撫島に辿り着き,そこから択捉島に渡って1816年の帰国となった.

「船長日記」は池田寛親が重吉から聞き取った異国見聞録である.督乗丸で484日間にわたる長期間の漂流が可能だったのは,米はすぐに尽きたものの積み荷に700俵の大豆があり,ランビキ (兜釜式焼酎蒸留器) によって海水から真水を得ることができたからだ.しかし,航海中に10人が死亡し,得撫島への航海中にも1人が病死し,生還したのは重吉と音吉の2名だけだった.

1832年に鳥羽から江戸に向けて出港した宝順丸が14ヶ月の間,太平洋を彷徨って辿り着いた先は北アメリカ大陸のバンクーバーの近く (オリンピック半島のフラッタリー岬付近あるいはクイーンシャーロット諸島とされる) であった[1, 6].積み荷が米で,ランビキで海水を蒸留して真水を得ることができたのは幸いだったが,原住民に救助されたとき,乗組員14人のうちで生存者は3名だけだった.残る11人の死因は壊血病とされる.

3名の生存者 (音吉,岩吉,久吉) はイギリス人に引き取られ,ロンドン経由で1835年にマカオに届けられた[1, 6, 17].マカオでは聖書の和訳に協力し,1836年にギュツラフ訳のヨハネ伝とヨハネ書簡として完成したのだが,その和訳本が初めて日本に持ち込まれたのは,23年後の1859年にヘボン (James Curtis Hepburn) が来日したときである.

音吉,岩吉,久吉の3名は,庄蔵,寿三郎,熊太郎,力松の4名の漂流民とマカオで対面する[1, 6].4名は1835年にルソン島に漂着し,1837年にマカオに移送されたのだ.合流した7名は帰国のためアメリカの商船モリソン号に乗ってマカオから江戸に向かった.しかし,浦賀沖 (野比村の沖合) に停泊すると砲撃を受け,鹿児島で薩摩藩と交渉すると「オランダ人から日本に送還すべし」と引き取りを拒否されてマカオに戻った[4].アメリカ商船による帰国が実現しなかったのは,異国船打払令が1825年に発布されていたからだ.

その後,音吉は上海に渡り,1843年からイギリス系商社のデント商会 (中国名は宝順洋行で,英名はDent & Beale Company) で貿易に従事した[1, 17].そして,1849年に浦賀に来航したイギリス東インド会社の帆船マリナー号で通訳を務め,1854年にイギリス極東艦隊司令長官スターリング (James Stirling) が長崎で日英交渉を開始したときにも再度来日して通訳を務めた.その後,1862年にシンガポールへ移り,1864年にイギリスに帰化し,ジョン・マシュー・オトソン (John Matthew Ottoson) を名乗った.

モリソン号事件を日本が知ったのは翌1838年のオランダ風説書による[注7].幕府の事件対応への批判が高まったのはその事実が公になったからだが,幕府の批判への対応は弾圧 (蛮社の獄) であった.渡辺崋山は西洋社会を紹介する啓蒙活動を行い,モリソン号の来航を機に「慎機論」を書いて開国につなげようとしたのだが,在所蟄居中の1841年に自決した.高野長英は1838年に打ち払いに反対する「戊戌夢物語」を著して1839年に投獄された.

蛮社の獄の理由として目付・鳥居耀蔵による洋学弾圧説が通説として定着しているが,真の理由は無人島渡海計画だとの指摘もある[7, 18].小笠原諸島は公式には無人の島 (島名も無人島) とされるが,そこに欧米人が居住している有人の島であることを知っていて渡航を計画したことを真の理由だとするものだ.

異国船打払令が撤廃され,それに替わって薪水給与令が発布されたのは1842年である.モリソン号事件での幕府の対応に批判が高まったことに加え,1840年に始まったアヘン戦争における清の劣勢に驚愕したためだ.

万次郎らの帰国とマクドナルドの入国
異国船打払令が撤廃された1842年以降には漂流民の外国船による帰国が可能となったのだが,その帰国経路は中国の乍浦 (上海の近く) あるいは琉球経由が多かった.そして1841年に遭難した栄寿丸 (あるいは永住丸) と1850年に遭難した栄力丸の乗員,および1848年に漂流を偽装して密入国したラナルド・マクドナルド (Ranald MacDonald) の帰国も無事に実現した.

兵庫を出航した栄寿丸は,1841年に鹿島灘を航行中に強風に襲われ漂流を始めた[4, 5, 19].そして1842年にスペインの密貿易船に乗員13人が救助され,9人がサン・ホセに着いた.その後の帰国途中に立ち寄ったホノルルでは4人の日本人漂流民と出会っている.土佐を出発し,1841年に鳥島に漂着した5人が,アメリカの捕鯨船に救助されてホノルルに来ていたのだ.後にジョン万次郎と呼ばれることになる中浜万次郎はアメリカ本土へと去っていたが,4人はホノルルに残っていた[19].

栄寿丸の長尾初太郎と善助がマカオ,乍浦を経由して長崎に帰還したのは1844年であった (栄寿丸に乗船していた他の3名もその直後に帰国した).そして万次郎とホノルルに残っていた2名 (筆之丞と五右衛門) も1851年に琉球経由で帰国した.漂流者の全員が必ずしも帰国を選択したのではなかったのだ.長尾初太郎の漂流の次第を徳山藩が尋問した記録が1844年に藩主に献上された「亜墨新話」で,それは1854年に「海外異聞」として刊行された.そして「漂巽紀畧」は河田小龍が1852年にまとめた万次郎の事情聴取の記録である.

栄力丸は江戸に向かう途中に難破して漂流し,南鳥島付近で1851年にアメリカの商船・オークランド号に乗員17名が救助された[5, 6, 20, 21].1852年にサンフランシスコから香港に到着し,ペリーの船に同乗し日本へ帰還するはずだったが,香港で出会った日本人・力松 (モリソン号事件での漂流民のひとりで香港の新聞社に勤務) から日本に入国を拒まれたモリソン号の顚末を聞いた浜田彦蔵は亀蔵,次作とともにアメリカに戻った.

浜田彦蔵はジョセフ彦 (Joseph Heco) としてアメリカに帰化した後,1859年に帰国して1864年に英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を横浜 (現在の横浜中華街) で発行した.なお,多くの栄力丸乗組員は,同じくモリソン号事件の関係者で上海に定住していた日本人・音吉の支援によって,清国船で長崎に向かい1854年に帰国している[注8].

イギリス人とインディアンの混血であるラナルド・マクドナルドは漂流を装って1848年に蝦夷地に密入国し,収監された長崎では幕末に通訳として活躍することになる森山栄之助らに英語を教えた[1, 17, 19, 21, 22, 23].日本への密入国を企てたのは,子供時代を過ごしたフォート・バンクーバー (Fort Vancouver) の近くに漂着した日本人 (宝順丸の生存者:音吉,岩吉,久吉) の影響が大きい.インディアンはアジアから黒潮に乗ってやってきたモンゴロイドの子孫だと言う考えに取り憑かれて神秘の国・日本を目指し,約10ヶ月間滞在したのだ.

1842年に異国船打払令が撤廃されてからは,漂流日本人の外国船による帰国が可能となったのだが,日本人の密航は依然として重罪であった.吉田松陰は1854年に下田に停泊中のペリー艦隊 (ポーハタン号) をめがけて小舟を漕ぎ出して密航を企てたものの,ペリー艦隊がこれを拒否したため,吉田松陰は密航未遂の罪で長州の野山獄に幽囚された[19].密航未遂には規制緩和は適用されず,死罪にもなりかねない重罪であったことには何ら変わりはなかったのである.なお,1864年に密出国に成功した新島襄は上海経由でアメリカに渡ったのだが,明治維新後の1871年に駐米公使・森有礼より正規な留学生と認可され,訪米中の岩倉使節団に途中参加している[19].

おわりに
江戸時代の平和は規制強化によって保たれたことは明らかだ.銃の所持・使用は規制され,大船の建造も禁止されたため,銃砲や造船技術の進歩は停滞した.鎖国によって海外からの情報は制限され,「井の中の蛙大海を知らず」の生活を強いられていたのだ.参勤交代に多額の出費が嵩み,藩の財政が困窮すれば幕府への抵抗も困難になる.規制強化によって活力を削がれた江戸時代の平和の代償が露呈したのは幕末であった.

1771年に日本に来航した「はんべんごろう (本名はモーリツ・ベニョヴスキーでロシアの捕虜となり,流刑先のカムチャツカ半島から脱走して日本に向かった)」の書簡に記載された情報に基づき,工藤平助が1781年から1783年にかけて「赤蝦風説考」でその実情を紹介し,林子平が1791年に「海国兵談」でその具体的対応策を提案したように,ロシア人は樺太,カムチャツカ半島,そして千島列島にまで進出していた.そして高島秋帆が1841年に徳丸原で行った洋式砲術調練で示したように,洋式砲術の優位性は明らかであった.

江戸時代の欧州では,三十年戦争 (1618~1648),七年戦争 (1756~1763),ナポレオン戦争 (1803~1815) といった大戦争が絶えず起こり,それに連動して軍事技術も急速に進歩していた.当時の日本の知識人は書物を通じて欧米の先進技術を理解したが,幕府が理解に至ったのはペリーの黒船来航を目にしたときだ.「百聞は一見に如かず」を幕府は実証したのである.

幕府が江戸時代の技術の停滞にようやく気付き,その当面の打開策を打ち出したのは黒船来航からである.老中・阿部正弘が1853年に大船建造の禁を解き,高島秋帆の禁固を解除し (蛮社の獄を主導した鳥居耀蔵によって,高島秋帆は1842年に投獄された.洋式砲術が普及すれば幕府の軍事的優位性が失われることは明らかだが,高島秋帆の投獄は荒唐無稽な謀反の疑いを罪状とする冤罪だったとされている),蒸気船をオランダから入手してその操作方法の学習に取り組み始めたのだ.

江戸幕府の体制が長きにわたって維持されたことは国内平和に大きく寄与したが,国際競争力の低下は免れなかった.江戸時代の日本は規制強化による国内平和を維持したが,林子平や高島秋帆の指摘にも係わらず,それが技術力の衰退による国際競争力の低下へと至る道でもあったことに幕府がようやく気付いたのは,それが砲艦外交によって顕在化した時であった.18世紀末から19世紀前半の日本を度重なる外国船の来航にもかかわらず何の打開策も打ち出さなかったゆでガエルの時代とすれば,黒船来航で平和ボケした井の中のカエルはようやく目を覚ましたのだ.

[注1] 1635年の鎖国令では密航者は死罪,異国居住の日本人が帰国したときも死罪とされた.1637年には天草・島原の乱が起こり,1639年にはポルトガルとの通商断絶に踏みきり,1641年からは出島オランダ館が西洋との唯一の窓口となった.ただし,江戸時代の日本は鎖国によって海外との自由な交流を制限したが,交流がなかったのではない.江戸時代の日本はスペインとポルトガルをキリスト教の布教問題で追い出し,後継に欧米の中では唯一オランダに貿易の権利を与えていた.そして李氏朝鮮とは対馬藩を通じ (対馬口),琉球とは薩摩藩 (薩摩口),アイヌとは松前藩 (松前口),オランダ人や唐人 (中国や東南アジア) とは長崎口を通じた交流によってさまざまな情報を入手していた.江戸時代を通じて対外貿易の窓口として開かれた四つの口である.

[注2] 鳥島への漂着者は1696年の弥三右衛門船以降も度々あったことが記録に残っている.1719年には甚八ら12名が鳥島に漂着した[2, 5, 6, 9].そして,その20年後の1739年に富蔵以下17名が乗り込んだ船が流れ着いたときに甚八,仁三郎,平三郎の3名は存命だった.一行は順風の吹く日を待ち,八丈島に辿り着いた.1759年に佐市郎らの船が遭難して鳥島に着いたときには,1754年に漂着した五郎兵衛船の幸助と藤八が生き残っていた[5, 9].佐市郎らが2人を乗せて出帆するときに,18人が乗った伝馬船が近づいてきた.大宝丸の乗組員だ.浸水が激しいので,本船を捨て伝馬船に乗り移ったのである.佐市郎らの船は20人を救助して伊豆に帰り着いた.1785年に松屋儀七船が鳥島に漂着したときには乗組員のなかで長平だけが生還した[9, 10].鳥島には,1788年に亀次郎船の11名,1790年には薩摩船の6名が次々と漂着し,生き残った14名 (松屋儀七船の長平と亀次郎船の9名と薩摩船の4名) が協力して船を建造し,1797年に青島経由で八丈島に帰還したのだ.なお,鳥島への初めての上陸は,小笠原諸島に派遣された調査船 (富国寿丸) が小笠原諸島に到達する前の1675年に立ち寄ったときとされる.そして,鳥島への漂着は1681年と1684年にもあったのだが,一般世間に広く知られることはなかった[9].1681年の同じ日に鳥島に漂着した2艘の船はいずれも漂着時に破損したが,7人の漂着者は協力して1艘の船を建造して三宅島にたどり着いた.また,1684年に鳥島に漂着した船も破損したが,伝馬船は無事だったので翌年に出帆して本土にたどり着いた.いずれも土佐の船であったので,土佐ではこの漂流談が語り継がれたのだが,その漂流の詳しい記録は残っていない.

[注3] ニコライ・レザーノフが1799年に設立した露米会社はロシア帝国の勅許によってアラスカ (ロシア領アメリカ) とアリューシャン列島の植民地経営と毛皮交易を独占的に認められた会社だ.課題は食糧調達であり,米国からの調達に依存していたのだが,米国からの食糧の安定供給は望むべくもなかった.ビーバーなどの毛皮を扱うカナダのハドソン湾会社 (Hudson's Bay Company) はライバルであり,キャプテン・クック (James Cook) がバンクーバー島のヌートカ湾で発見したラッコの毛皮を広東に持ち込むとそれが高値で取引されることを1784年の航海記に記してから,欧米諸国がラッコビジネスに参入したのだ[24, 25].そこでロシアは日本との通商によって露米会社の食糧問題の解決を目論み,1855年に締結された日露和親条約によってロシア船への補給は可能となったのだが,1860年代になると露米会社の経営は悪化した.乱獲によるラッコ資源の枯渇と食糧調達の問題に加え,毛皮を陸路で中国との交易地に輸送するコストが嵩むためだ.1867年にアラスカがアメリカ合衆国に売却されたのは,不採算事業からの撤退であった.

[注4] 大黒屋光太夫らとともにロシアに漂着した新蔵は1792年にイルクーツクで日本語教師の職を得たのだが,漢字の読み書きができなかった.若宮丸で1794年に漂着した善六は漢字の読み書きができたので,新蔵は善六に帰化を提案した[3, 5].そしてロシアに帰化した善六はニコライ・レザーノフの通訳として1802年の日本行きに同行することになる.

[注5] ピョートル1世は1689年に清朝とネルチンスク条約を締結し,国境を定めて通商を開始した (国境は1728年に締結されたキャフタ条約によって変更される).ロシアはシベリアで獲ったクロテンの毛皮をイルクーツクの毛皮商人がネルチンスク (国境変更後はキャフタ) で中国に販売して利益を得た[25].そしてクロテンの資源は17世紀の乱獲によって18世紀になると大きく減少する.ピョートル1世はさらに東方への進出を図り,ベーリング探検隊を派遣した (1725~1730年と1733~1743年の2回のカムチャツカ・アラスカ探検).彼らはベーリング海峡やアリューシャン列島を発見し,1741年にアラスカ上陸を果たしたのだが,最大の成果はベーリングが壊血病によって息を引き取ったベーリング島でのラッコの発見である.日本近海の調査についてもシュパンベルグ探検隊を派遣し,日本側の記録によれば,1739年に安房や伊豆の沿岸に出没し,仙台藩牡鹿郡沖の綱島では日本の漁師が乗り込んで交歓があったとされる.元文の黒船である.ロシアはクロテンを追ってシベリアに進出し,ラッコを追って北太平洋を目指し,先住民を制圧して毛皮税 (ヤサクと呼ばれる毛皮による貢租で,実態は恐喝による強奪) を課したのだ[13, 25].反抗する先住民は殺害され,ヤサクを納めたのは隷属する先住民だ[15].コマンドルスキー諸島やアリューシャン列島のラッコを取りつくした後にロシア人が狙った獲物は千島列島のラッコである.ラッコの猟場が移ると,ロシア人は氷海の猟師であるアリュート人を移らせて猟を強要した[25].アリュート人はロシア人の銃に屈服したのだ.ロシア人は1711年にアイヌの住む千島列島最北端の占守島,1713年にはその隣の幌筵島に上陸した[13, 26].ロシア人は千島列島を南下し,1768年に得撫島と択捉島に上陸し,隷属した住民から毛皮税を徴収した.得撫島は択捉島のアイヌが一時的に居住する無人の島であったが,択捉島は松前藩の支配するアイヌの定住地であった.1768~1780年にはロシア人がラッコの生息する得撫島に来島し,1794~1805年には集落を形成して定住が始まった[27].千島列島の先住民であるアイヌ民族がロシア人の来訪を歓迎していなかったことは,1771年に択捉島と羅処和島のアイヌが協力して,得撫島と磨勘留島でロシア人を数十人殺害する事件が発生したことからも伺える[26].ロシア人は千島列島のアイヌをラッコ猟に従事させたのだが,毛皮は期待したほど得られなかった[25, 26].ラッコの毛皮はイルクーツクの商人によって清との国境に設けられたキャフタの市場で売られ,その毛皮はラクダのキャラバンで北京に届けられた.イルクーツクの日本語学校が活況を呈した時期はロシア人が千島列島を南下しつつあった時期でもあった.

[注6] ニコライ・レザーノフは,1792年にラスクマンに与えた許可証 (信牌) を1804年に持参して来航したのだが,すでにその効力は失われていた.幕府の体制が変化し,その12年間にロシアとの交易推進派は死亡し,通商反対派が牛耳る幕府に変化していたからだ.そのためレザーノフの日本との話し合いによる交渉は不調に終わったのだが,その後の展開は軍事的なものであった.レザーノフの部下のニコライ・フヴォストフが1806年に樺太の松前藩居留地を襲撃し,1807年に択捉島駐留の幕府軍を攻撃したのだ.文化露寇である.これに対し日本は1811年にロシアの軍艦ディアナ号艦長を捕縛・抑留するゴローニン事件によって報復した.さらにロシアは1812年に高田屋嘉兵衛の観世丸を拿捕したのだが,この報復合戦は高田屋嘉兵衛の提案によって1813年に決着した.ロシア政府高官による文化露寇についての公式の釈明書提出の提案である.なお,1812年にナポレオンは60万の大軍を率いてロシアに遠征しモスクワは制圧されていたから,当時のロシアとしては日本との厄介な問題は早急に解決したかったのだろう.その後の厳しいモスクワの冬の訪れによってナポレオン軍はロシアから敗退するのだが,日本がナポレオン戦争の状況をどこまで把握していたかは明らかではない.その後,再び話し合いによる日露交渉が始まり,1855年に日露和親条約が結ばれることになるのだが,その交渉はプチャーチンが来航した1853年から断続的に始まっていた.断続的であったのは,ロシアがクリミア戦争でイギリスと交戦中であったからだ.イギリス船が日本に来航すれば,日露交渉は中断を余儀なくされる.交渉が手間取ったのは千島列島と樺太の国境問題が絡んだからだ.そして軍事的な争いは,ロシア軍艦が対馬に無断上陸した1861年の対馬事件によって再開された.対馬藩も幕府もロシア領事もこの問題解決には無力であったが,イギリス軍艦の威嚇によって落着した.なお,1861年はクリミア戦争で完敗したロシア皇帝アレクサンドル2世が近代化を目指して農奴制の解体を含む大改革を始めた年である.アレクサンドル2世は1867年にアラスカをアメリカに売却し,1875年には樺太全島をロシア領として千島18島を日本に譲渡する樺太・千島交換条約を結び,1881年のサンクトペテルブルクでの暗殺によって生涯を閉じた.

[注7] オランダ風説書は長崎オランダ商館長が幕府に世界情勢を伝える1641年に始まる報告書だ[28].商館長が提供した情報を,通詞が和訳して長崎奉行から幕府に提出したのだ.さらに1840年から1857年まではオランダ東インド政庁の植民局が別段風説書を作成した.これは蘭文の報告書で,長崎で翻訳された和文を付して幕府に届けられた.アヘン戦争についての詳細な情報提供を求めたのが始まりで,世界情勢に関する詳細な報告書である.唐船風説書は鎖国期に唐船がもたらした海外情報の報告書で,中国における明朝から清朝への政権交代に関する記事などが含まれる.中国の動向については複数の情報源を有していたが,西洋諸国の情勢についてはオランダが唯一の情報源であった.

[注8] 栄力丸の乗員17名の多くは,音吉の支援によって1854年に乍浦から清国船・源宝号で長崎に帰国したのだが,彦蔵,次作,亀蔵,岩吉,仙太郎の5名はすぐには帰国しなかった.彦蔵,次作,亀蔵の3名は1852年にアメリカに戻ったのだが,岩吉 (伝吉) は日米和親条約を締結して戻ったペリー艦隊のミシシッピ号で仙太郎とともに1854年に上海からアメリカに渡った後,1859年にイギリス総領事・オールコック (Rutherford Alcock ) に同行して帰国した[17, 20].1860年にイギリス公使館 (オールコックの公使昇進によって品川の東禅寺の領事館は公使館になっていた) で暗殺された通訳・小林伝吉である.仙太郎はただひとりペリー艦隊に同行して1853年と1854年に日本に到着したものの上陸せずにアメリカに戻り,1860年に帰国したときにも3週間も船から降りず,終生,外国人居留地に住み続けた[17, 19, 29].漂流から帰国すれば揚屋に収容されて,犯罪者に準じた取り調べが待っていたのだ[15].多くの栄力丸の乗員がペリー艦隊に同行して帰国することを拒んだのは,帰国後の身の安全にかかわる懸念があったからだ.

文献
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