豊橋さんぽ(No.18 東海道以外の街道)

 前回の豊橋さんぽでは、毎日散歩しているコースに江戸時代の東海道が含まれていることから、東海道五十三次の宿場である吉田宿について紹介しました。当時、吉田宿周辺には東海道以外にも4つほどの街道があったので、今回はそれらについて紹介することにしましょう。

吉田宿に関係の深い五街道。(edo-map.comより)

本坂街道(別称:姫街道)

 江戸時代には江戸から東海道を京に向かって進んでくると、浜松宿と新居宿の間に浜名湖が海と繋がっているために干満差により流れの急な水路を舟で渡る、今切の渡しを利用する必要がありました。また、渡り終えると次には新居の関所が待ち構えていました。この関所では、特にいわゆる”入り鉄砲に出女”と言われる、鉄砲などの火器と女性(いわば人質として江戸住まいを強要されていた大名の奥方を特にターゲットとして)に重点を置いた厳しい取り調べが待っていました。一方、天候不順などで渡しが利用できないリスクを回避する目的で浜名湖の北側を通る街道が整備されていました。これが本坂街道であり、取り調べが厳重な新居の関所を避ける女性が多く利用したことから、通称として”姫街道”とも呼ばれていました。この街道は見附宿(現静岡県磐田市)から東海道と別れ、遠州と三河の国境にある本坂峠を越えて御油宿(愛知県豊川市)で東海道と合流します。道程は約60 kmの距離で、途中には宿場として、市野宿(現浜松市東区)、気賀宿(現浜松市北区)、三ヶ日宿(現浜松市浜名区)、嵩山宿(現豊橋市)が設けられていました。ただし、途中には引佐峠(260 m)と本坂峠(328 m)があり、東海道よりもアップダウンが厳しい街道でした。また、宿場もそれほど大規模ではなかったので、少し寂しい街道だったのではないでしょうか。また、女性の街道利用が多く、かつ、山間部を通過しなくてはいけないということから治安面でのリスクは高かったかもしれませんね。

別所街道と伊那街道

 最近、プロバスケットボールのBリーグが人気上昇中ですが、地元には豊橋市と浜松市をホームグラウンドとした三遠ネオフェニックスのチームがあり、三河と遠州の両地域を省略した形で“三遠”というチーム名がつけられています。また、日本の各地では高速道路網の整備が進んでいますが、豊橋市や浜松市から長野県方面に繋がる道路として、三遠南信自動車道なるものができています。これはつまり、東三河や遠州と南信(伊那地方)を結ぶ道路で、鉄道ではJR東海の飯田線が同じような地域間の交通手段としてあります。この伊那地方と三遠地方は、地質構造としては西日本を内帯と外帯に分ける中央構造線(諏訪湖付近から天竜川、豊川に沿って、紀伊半島と四国の中央部、さらには九州の大分から熊本を東西に横断するという、我が国では最も規模の大きな構造線)に沿った隣接地域といえます。そのため、両地域を結ぶ街道が江戸時代にも存在しており、それが別所街道と伊那街道です。

 別所街道は吉田宿から富岡宿(現新城市)、長篠宿(現新城市)、湯谷宿(現新城市)、東栄宿(現東栄町)、別所宿(現東栄町)、金越宿(現豊根村)、を経て南信の新野峠(長野県売木村)まで続いていました。 想像するに、海に面した三遠地方からの塩や海産物などの物資が飯田を中心とする南信地域に運ばれる際の主要街道であったのでしょう。この街道は東栄宿の辺りまでは豊川水系の谷を進むので高度差はそれほど大きくはないのですが、東栄宿の先は豊川水系から離れて山間部に分け入るため、次第に高度が高くなり、新野峠では1000 mを少し超える高さに達します。そのため、かなり険しい街道であったものと思われます。

 一方で伊那街道は三州街道の一部とも言えます。三州街道のメインは南信の飯田と西三河の岡崎を結ぶ街道で、伊那街道は三州街道の根羽宿(現長野県根羽村)から分岐して吉田宿に向かう道です。別所街道で越える新野峠よりは西側で南信に入るので、峠越えはこちらの方が楽ですが、距離は少し遠くなります。吉田宿に近づくにつれて別所街道と並行するようになり、豊川の東岸を別所街道、西岸を伊那街道が通ることになります。伊那街道は吉田宿の人からすると、豊川稲荷への参拝道としてなじみ深い街道といえます。

田原街道

 吉田宿から渥美半島の方向には田原街道がありました。この街道は、一応、渡辺崋山が家老を勤めたことで知られている田原藩の城下町までということになりますが、その先は渥美半島の先端近くの福江(現愛知県田原市)までつながっていました。福江からは舟で伊良湖水道を渡り鳥羽まで海運があり、伊勢神宮への参拝道として盛んに利用されていたようです。また、渥美半島一帯には平安時代後期あたりから渥美焼きが造られ、日本三古窯の一つとも言われています。田原市伊良湖町には東大寺の大仏殿などの屋根瓦の窯跡があり、ここから東大寺まで瓦が運ばれた記録も残っているとのことです。渥美焼きのルーツは日本六古窯の一つである猿投焼き(現愛知県豊田市)で、灰釉陶器を特徴としています。静岡県湖西市の湖西焼とも共通点が多いことが知られていますので、この辺り一帯で陶器の生産が盛んであったようです。中には国宝に指定されている作品も存在しますが、残念なことには十三世紀末には生産が途絶えてしまいました。

 さて今回はいつも散歩していることとは少し離れた話題となりましたが、豊橋市周辺のことまで含めて興味の範囲を広げていただければ幸いです。             (岡田清)


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