元麻布の善福寺と高輪の東禅寺で想いを馳せる
幕末の尊王攘夷の思想は討幕運動に結実した.尊王攘夷で横行したのは弾圧と暗殺だが,倒幕運動は内戦ないしは革命である.弾圧であれ,暗殺であれ,戦闘であれ,現実にはそのなかで行われるのは人殺しだ.
1858年に日米修好通商条約が締結されると朝廷から水戸藩に密勅 (戊午の密勅) が下ったのだが,それを幕府に報告すると大老の井伊直弼は梅田雲浜,橋本左内,吉田松陰らを捕らえた.1859年に梅田雲浜は獄死し,橋本左内と吉田松陰は処刑された.安政の大獄は幕府による弾圧である.受刑者は公家や藩主にも及び,徳川斉昭 (徳川慶喜の実父) は永蟄居,徳川慶喜と松平慶永 (松平春嶽) らは謹慎処分を受けた.
1860年に水戸浪士らによる井伊直弼の暗殺事件 (桜田門外の変) が起きた.安政の大獄に対する報復テロである.1861年には公武合体によって幕藩体制の立て直しを図るために和宮降嫁が行われたのだが,1862年には水戸浪士による坂下門外の変が発生した.薩英戦争が起こった1863年には八月十八日の政変,1864年には禁門の変 (蛤御門の変) と下関戦争が起こり,急進的な攘夷論の長州藩は弱体化し,長州征討 (第一次征長戦争) では幕府に恭順した.
しかし,追い詰められた長州藩では1865年に起こった内戦によって討幕派が牛耳る結果となり,1866年には薩長同盟の密約が締結された.幕府が長州征伐 (第二次征長戦争) に敗退したのは,薩摩藩が出兵を拒否したためだ.追い詰められた幕府は1867年に大政奉還を行ったが,1868年に宮中で王政復古の大号令が読み上げられた.討幕派のクーデターである.
そして王政復古の大号令が読み上げられた夜に行われた小御所会議では徳川慶喜を排除することが決議されたが,この決議はその後の親幕派諸藩の抵抗によって骨抜きにされ,徳川慶喜も各国の公使たちに自分が主権者であることをはっきりと宣言した.戊辰戦争はその決着をつける戦いであったのだ.話し合いではなく暴力の行使による決着である.徳川慶喜は幕府軍を撤退させて内戦の拡大を抑止したが,その結果は討幕派による革命の成就であった.このような治安が損なわれてテロが横行した混乱の時代には外国人襲撃事件も多発した.



元麻布の善福寺は1859年にアメリカ公使宿館が置かれた寺だ.勅使門をくぐった先にはタウンゼント・ハリス (Townsend Harris) の初代米国公使館跡の碑と最初のアメリカ公使宿館跡の説明板がある.奥書院や客殿の一部を当時の宿館として使用していたが,1863年の水戸浪士による焼き討ちによって書院などが消失したので,本堂や開山堂も使用したと書かれている.なお,当時の建物は戦災で焼失したが,1875年に築地に移転するまで公使館として使用された.現在,善福寺の背後にそびえ立っているのは,善福寺を見下ろすタワーマンションだ.
ハリスの通訳兼書記を務めていたのが,ヒュースケン (Henry Heusken) だ.1861年1月15日 (万延元年12月5日) の夜9時ごろ,プロイセン使節の宿舎となっていた赤羽接遇所から随行者7名とともに騎馬にて帰宿する途上,尊王攘夷派の薩摩藩士に襲われて負傷し翌日に死亡した.
1856年にハリスとともに下田に入港したヒュースケンは,日米間の折衝に尽力した.1858年からは通商条約の交渉を行って日米修好通商条約の調印に漕ぎつけた.その後,江戸幕府は同様の条約をオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも次々に結んだのだが (安政五カ国条約),1860年になってプロイセンが通商条約の締結 (プロイセンを盟主とする関税同盟諸国との条約) を申し出たときに幕府は難色を示した.そこでプロイセンとの交渉の斡旋をハリスが申し出た経緯があって,ヒュースケンは赤羽接遇所を訪れていたのだ.日普修好通商条約 (プロイセン一国との条約) が締結されたのは1861年1月24日のことであった.






高輪の東禅寺は1859年にイギリス総領事館が置かれた寺だ.山門前には最初のイギリス公使宿館跡の碑と東禅寺の説明板がある.ラザフォード・オールコック (Rutherford Alcock) の公使昇進により領事館は公使館となったが,2度の東禅寺事件により公使館員が殺傷された.
1861年の第一次東禅寺事件では攘夷派浪士14名がイギリス公使オールコックらを襲撃し,イギリス人2名が負傷した.オールコックは公使館を横浜に移したが,オールコックが帰国中の代理公使・ジョン・ニール (Edward St. John Neale) は公使館を東禅寺に戻した.第二次東禅寺事件は1862年に起こった.東禅寺警備の松本藩士・伊藤軍兵衛がジョン・ニールを襲い,警備のイギリス兵2人を斬殺した事件である.
公使館は1865年まで使用された.境内の本堂,大玄関,玄関,三重塔,鐘楼等は公開されているが,玄関の背後にある庫裏,隠寮,僊源亭と池のある庭園は非公開だ.大玄関の柱にある穴と傷は,第一次東禅寺事件の銃弾と刀傷との指摘もあるが,虫食いのようにも見える.
東禅寺事件の前触れかも知れない殺人事件は1860年に起こっている.イギリス公使オールコック付きの通訳・小林伝吉がイギリス公使館の門前に立っているところを2人の侍に背後から刺されて殺害されたのだ.同年にはオランダ人船長と商人が横浜で斬殺された事件も起こり,幕府はオランダに1700両の賠償金を支払っている.
東禅寺事件の後に,イギリス人が襲われた事件が1862年の生麦事件だ.日本人通訳殺害事件および2度の東禅寺事件は殺害が目的であったが,生麦事件は殺害を目的としたものではなく偶発的な事件であったものの幕府は10万ポンド (約30万両) の賠償金を支払った.砲艦外交を得手とするイギリス人の命の値段はオランダ人よりはるかに高額だったのだ.
攘夷思想が蔓延していた幕末には外国人を襲撃する事件が多発したが,明治になって幕藩体制の崩壊とともに外国人襲撃事件は沈静化し,それに代わって士族の反乱が始まった.明治政府に対する不平士族の反乱は1874年には江藤新平をリーダーとする佐賀の乱,1876年には神風連の乱,秋月の乱そして萩の乱,1877年には西南戦争が勃発した.そして鎮圧に馳せ参じた政府軍の軍人には,雀の涙と勲章が振舞われた.
士族の反乱が収まって始まったものは,政府要人をターゲットとした襲撃である.1878年には大久保利通が紀尾井坂で襲撃されて殺害された.東京駅で原敬は1921年に短刀で刺され,濱口雄幸も東京駅で1930年に銃撃されて死亡した.そして1932年の五・一五事件や1936年に起きた二・二六事件の襲撃の主役は陸軍の若手将校だ.
反体制派によるテロリズムから体制側からの弾圧へと移行すれば,加害者の行為を制止することは極めて困難な状況になる.言論の自由を行使すれば官憲に拉致されるから,すべての命を惜しむ国民は軍の政策に賛同し,異論を封じて公権力への賛美を表明する平和で不幸な時代が訪れる.その時代の日本は,命を惜しむ国民が恐怖支配による国内平和を受容する国でもあったのだ.そして逃げ場を失った若い国民が神風特攻隊に志願して命を捨てる時代が始まった.日本がこの強権体制から脱却したのは敗戦による降伏だ.軍事政権下での弾圧を許し,革命等によって排除することができなかったことは反省点だが,さまざまな弾圧が現在でも世界中で行われていることも紛れもない事実だ.民主主義を護る不断の努力を怠れば,権威主義体制そして全体主義体制への移行は必然なのであろうか.静かな寺の境内は思索を巡らすには好適な場所である.