高輪界隈を巡って辿る赤穂浪士の足跡

1748年に人形浄瑠璃・仮名手本忠臣蔵が上演された.忠臣蔵は赤穂事件を題材にした物語だ.赤穂浪士の討ち入りは武士のみならず町人まで賞賛するところとなり,事件後,さまざまな芝居がつくられた.仮名手本忠臣蔵は大当たりとなって歌舞伎でも演じられ,その後,映画やテレビなどさまざまなメディアでも再演された.忠臣蔵は赤穂事件を脚色した作品なので事実とは異なるが,仇討ちを正当化する勧善懲悪のストーリーとなっている.

忠臣蔵で知られている赤穂事件は江戸時代中期の元禄期に発生した事件だ[1, 2, 3, 4].その概略は,

(1) 元禄14年3月14日 (1701年4月21日) に赤穂藩主浅野内匠頭長矩が江戸城松之大廊下で高家吉良上野介義央に「この間の遺恨,覚えたるか」と叫びながら斬りかかった[注1].

(2) 浅野内匠頭は即日切腹し,浅野家は所領の播州赤穂を没収の上改易となった.切腹の地は陸奥一関藩主・田村建顕の芝愛宕下邸 (現在の新橋4丁目交差点付近) で,そこには浅野内匠頭終焉の地の碑 (側面に自刃後240年記念と刻まれている) が設置されている.浅野長矩の遺体は菩提寺の泉岳寺に埋葬され,泉岳寺に植えられている血染の梅と境内に置かれている血染の石は浅野内匠頭が切腹したときにその血がかかったと伝えられている.

(3) 元禄15年7月18日 (1702年8月11日) に浅野内匠頭の弟である浅野大学 (浅野長広) の浅野本家預けが決まったことでお家再興の道が事実上閉ざされた.浅野内匠頭に切腹を命じ,お家再興の道を事実上閉じたのは吉良上野介ではないのだが,筆頭家老である大石内蔵助良雄は吉良邸に討ち入る事を正式に表明した.

(4) 元禄15年12月14日 (1703年1月30日) の午前4時頃に四十七士 (討ち入りに参加した大石内蔵助ら47名の赤穂浪士) は吉良邸に侵入して吉良上野介を討ちとった.上野介の首を小袖の袖に包み槍の柄に括り付けて引き上げたのは午前5時半頃であった (現代的な正しい日付は12月15日だが,当時は夜が明けるまでは14日だった).

(5) 吉良上野介の首を取った四十七士は泉岳寺に向けて出発した.鉄炮洲にあった旧赤穂藩上屋敷前 (現在の聖路加国際病院) を通って午前8時過ぎに泉岳寺に到着すると,吉良の首級を井戸水で洗って浅野内匠頭の墓前に供えた.その井戸が首洗い井戸である.なお,泉岳寺に向かう途中,吉田忠左衛門と富森助右衛門の2名は大目付・仙石伯耆守久尚の屋敷へ出頭して事の次第を報告した.

(6) 寺坂吉右衛門を除く46名は,4か所に分かれて切腹を待った[注2].そして幕府の指示に従って切腹が行われたのは元禄16年2月4日(1703年3月20日) であった.高輪皇族邸の隣には大石良雄外十六人忠烈の跡がある.切腹現場は現在,塀で囲われて近づけないが,塀の隙間から垣間見ることは可能だ.

(7) 切腹によって果てた赤穂義士46名が埋葬されたのが泉岳寺である.浅野内匠頭の墓の隣に設置された赤穂義士の墓所内には48名の墓がある.切腹で果てた46名の墓に,討ち入り前の1702年に自刃した萱野三平,そして1747年 (享年83歳) に病死した浅野内匠頭の陪臣であった寺坂吉右衛門 (吉田忠左衛門組足軽) の供養墓も加えられた.なお,義士墓入口の門は浅野家の上屋敷の裏門を明治時代に移築したものである.義士墓入口では入場者に線香を販売しているので,営業時間内に赤穂義士の墓に供える線香の煙が絶えることはない.

(8) その後,討ち入りに係わった赤穂義士の遺児に処分が下され,討ち入りを許した吉良上野介の近親にも処罰が及んだ[注3].

赤穂事件は大石内蔵助ら赤穂浪士47名が,吉良上野介の首を取って主君・浅野内匠頭の仇討ちを行った事件だが,その目的は吉良上野介の首を主君の墓前に捧げることであった.人生の目的を達成した四十七士のうち浅野内匠頭の直臣であった46名が次に行った行動は,切腹によって生涯を閉じることであった[注4].

赤穂浪士の行動を理解するには当時の規範の理解が欠かせない.人間の行動は遺伝子に組み込まれた本能のみに支配されるのではなく,後天的に刷り込まれた社会的な規範などにも大きく影響されるのだから,赤穂浪士の行動は当時の社会的な規範に則して評価する必要がある.自力救済としての親敵討と喧嘩の解決策としての喧嘩両成敗法が,社会的な規範として受容されていた時代に起きた事件としての評価である.

警察と司法制度の発達以前の社会におけるトラブル解決は自力救済によるものだ[注5].桃太郎やかちかち山の昔話でも,公正な裁判を行うことなしに一方的な暴力の行使が行われた.暴力の行使は報復であるとの名目で正当化される.桃太郎は鬼ヶ島の鬼を無差別攻撃した.鬼の罪状を個別に咎めるのではなく,村人に対して悪いことを行ったとされる集団に所属していたことが暴力の対象とした理由だ.

かちかち山の兎は狸を殺した.狸はお婆さんを殺したから,その報復としての狸の殺害はかちかち山の話では正当化される.しかし,狸はお爺さんに捕らえられ,お婆さんによって殺害されて狸汁にされる寸前のところだったから,狸は暴力に対する自己防衛として殺害行為に及んだのだ.これが正当防衛なのか過剰防衛なのかについては議論のあるところであろう.かちかち山では既に報復の連鎖が始まっていて,狸が殺害されたところで話は終わっている[注6].

自力救済を認めれば,報復の連鎖によって一般に戦闘はますます激しくなる.これを阻止するためには報復を制限する必要がある.そこで自力救済を親敵討のみに限定したのだ.このような時代に赤穂浪士は主君の仇討ちに及んだ.主君の仇討ちは想定外の行動であったが,室鳩巣らはこれを武士の忠義とする肯定論を主張し,法を破ることは罪との見解を荻生徂徠らは示した.

自力救済のよる報復の連鎖を断ち切る法律が喧嘩両成敗法である.司法によって双方の言い分を聞いて,合理的な判決を下すことができれば司法が権威を保てるのだが,科学的捜査が未発達ならば拷問による自白に頼る取り調べが主流となる.このような取り調べでは,冤罪を免れることは困難だ.拷問によって虚偽の自白を行わなければ,小林多喜二が1933年の警視庁築地署で犠牲になったように,拷問によって死に至るからだ[注7].喧嘩両成敗は合理的な判決を棚上げにした次善の策だが,喧嘩の抑止効果への期待が大きいので,封建制社会においては社会制度として広く採用されていた.喧嘩両成敗法の発達には分国法が関係する.

北条泰時が制定した鎌倉幕府の御成敗式目と足利尊氏による室町幕府の建武式目に加え,戦国時代には大名が自分の領地を治めるために独自の法律を作った.これが分国法だ[5].分国法は大名によって異なるが,大筋は似ている.共通するルールは,
(i) 喧嘩両成敗:喧嘩をした者は両方とも処罰
(ii) 土地の売買禁止:大名から与えられた土地を勝手に売買することを禁止
(iii) 婚姻の許可制:他の大名との結婚は主君 (大名) の許可が必要
(iv) 守護不入の廃止:室町幕府が決めた守護不入を廃止し,幕府御家人の領地への特権を剥奪
(v) 百姓の逃亡禁止:農民たちが領地から逃げ出すことを防ぐために逃げたら罰する
といったものだ.

このなかの喧嘩両成敗法の先駆は1352年の室町幕府によって立法され,典型的な形態を備えたものは1445年の藤原伊勢守の高札に現れた法令とされている[6].そして喧嘩両成敗を明文化した最初の分国法は,1526年の今川かな目録 (今川氏親が制定した分国法) の第8条の規定 (喧嘩におよぶ輩,理非を論ぜず両方共に死罪に行ふべきなり) だ[7, 8].

この喧嘩両成敗法は戦国時代に急速に普及し,江戸時代以降には天下の大法と呼ばれるまでに至った.室町時代には些細なトラブルが大乱闘に発展するケースが多々見られた.乱闘によって殺害されれば,それに対する復讐は放任されていた.自力救済が繰り返された結果は復讐の輪廻による治安の悪化だ.しかも復讐のターゲットは喧嘩相手の特定の個人とは限らず喧嘩相手の親族などといった共同体の任意のメンバーだから.事件とは直接関係のないメンバーに復讐の連鎖は拡大し,その収拾は困難になる.室町時代は無罪放免となる親敵討と死罪となる殺人の2つの規範が共存していた時代だったのだが,江戸時代においてもこの規範は基本的に踏襲され,報復が親敵討だけに限定された時代に主君の仇討ちを行った事件が起こったのだ.

喧嘩両成敗法の狙いは,喧嘩を仕掛けられても反撃せず大名の法廷に訴え出ることを促すことだ.喧嘩両成敗法を適用することで喧嘩の拡大を未然に防ぐことが狙いなのだが,その真意が必ずしも正しく理解されていたとは限らない.あるいは不当な判決による冤罪がまかり通る時代の被害者は,権力者の裁定を信用せず,自力救済に活路を見いだしていたのかもしれない.いずれにせよ,被害者が真に望むものが加害者への倍返しであることを否定しがたいとすれば,些細な事件が引き金となって大戦争に至ることがありがちなことも否定しがたい.しかも,国家指導者への道は権力闘争の過程で数多くの政敵を打倒して勝利することで拓けるのだから,国家指導者が概して好戦的な性格であることも否定しがたいのだ.

[注1] 忠臣蔵では,高師直 (モデルは吉良上野介) が塩谷判官 (モデルは浅野内匠頭) の妻に横恋慕するが拒絶されて,塩谷判官に罵詈雑言を浴びせ,それに耐えかねた塩谷判官が殿中での刃傷事件を起こしたとされている.しかし,実際の赤穂事件で浅野内匠頭が抱いた遺恨が何であったのかは明確ではない.一説によれば,東山天皇が派遣した勅使の饗応役に任ぜられた内匠頭が上野介に賄賂を贈らなかったことで,朝廷から派遣された勅使を接待する儀式に必要な連絡を伝えられずに失敗を重ね,老中の前で恥をかかされたためだとされる.実際に,松の廊下事件の3年前に勅使の饗応役を務めた津和野藩主・亀井滋親は吉良上野介のいじめを受け明日こそ斬ってしまおうとの決意を家老の多湖主水に打ち明けたのだが,その翌日になると吉良の態度が変わって,ニコニコと下にも置かぬありさまだった.家老の多湖がその日の夜のうちに吉良邸に駆けつけてたっぷり賄賂を差し出していたのである.

[注2] 討ち入りに参加した赤穂浪士は,処分が下るまでの間,以下の4つの大名家にお預けとなった.肥後熊本藩江戸下屋敷 (細川家:現在の高輪皇族邸に隣接) に大石良雄や吉田忠左衛門ら17名,水野監物邸跡 (水野家:現在は慶應中通り商店街の中) に間十次郎ら9名,伊予松山藩の中屋敷 (松平家:現在は駐日イタリア大使館) に大石主税良金 (父は大石良雄) や堀部安兵衛ら10名,毛利甲斐守網元麻布上屋敷跡 (毛利家:現在は六本木の毛利庭園) に岡嶋八十右衛門ら10名である.

[注3] 赤穂義士の15歳以上の遺児 (男子のみに処罰) の4名 (親とともに討ち入りに参加した者9名は切腹済み) は伊豆大島への遠島に直ちに処せられ,15歳未満の者は15歳になるまでは親類に預けられ,その後,遠島に処せられることとなったのだ (流罪となった遺児は1706年に赦免され,それ以外の遺族の赦免は1709年であった).そして吉良上野介の遺族も処分された.家督を継いだ上野介の子・佐兵衛義周は信州高島藩へのお預け (高島城内で1706年に病死し,吉良家は断絶した),上野介の弟・東条隼人義叔は盛岡藩へのお預けとなった.討ち入りには関わらなかった浅野大学は,1710年に500石の所領を与えられて旗本となってお家再興を果たしたのだが,赤穂浅野家が再興されたのではなかった.500石の所領で召し抱えることのできる家臣はほんのわずかだ.ちなみに大石内蔵助は1500石の国家老である.

[注4] 封建制は主君と家来の主従関係で成り立っている.将軍と主従関係にあるのは,大名,旗本,御家人の3種類の家臣 (直接の家来,直臣) だ.大名は1万石以上の武士で,旗本は1万石未満で将軍にお目見えできる武士,御家人は1万石未満で将軍にお目見えできない武士で概ね100石未満である.大名の家臣は藩士 (大名の直臣) である.なお,将軍の家来が大名で,大名の家来が藩士だから,藩士は将軍の陪臣となる.また,藩士にも家来 (足軽など) がいるから,その家来は大名の陪臣となる.浅野内匠頭は5万石の大名,吉良上野介は4200石の旗本である.

[注5] ハンムラビ法典は紀元前1760年頃にバビロニアのハンムラビ王が制定した282条からなるバビロニア法典のことで,当時の慣習法を成文化したものだ.「目には目を歯には歯を」はバビロニア法典の第196条と第197条の文言に由来する.第196条には「もし人がアウィルムの子の目を潰したときは彼の目を潰す」,そして第197条には「もし人の骨を折ったときは彼の骨を折る」との規定がある.アウィルムは市民のことで人との違いは不明だが,当時の階級社会における階級の1つだと考えられている.現代には,第197条の条文における「骨」が「歯」に変えられて伝わったとされている.当時の人々もやられたらやり返すといった自力救済によるトラブル解決を基本としていたので,たとえば倍返しを繰り返せばどんな些細なトラブルであっても,大規模な大乱闘に発展して流血の大惨事に至ることは必至であった.そこで,これらの法文で報復の上限を規定したのだ.ハンムラビ法典の規定は,復讐の連鎖による暴力の拡大を抑止することを狙いとする古代社会の良識と見なすことも出来よう.

[注6] かちかち山はお爺さんに代わって兎がお婆さんの敵である狸を殺害した昔ばなしだが,親敵討腹鞁はかちかち山の後日談だ[9].1777年に朋誠堂喜三二が発表した黄表紙 (画は恋川春町) で,親を殺された子狸が狩人 (宇津兵衛) の協力を得て親敵の兎を討つ話である.川魚料理 (大蒲焼) で有名な中田屋は狸と狩人に追われた兎を匿ったのだが,追い詰められた兎は切腹に至った.そして狸が兎の胴体を輪切りにすると,上半身からは黒い鳥,下半身からは白い鳥が飛び去った.上半身が鵜,下半身が鷺になったのだ.その後,日照り続きで魚が底をつき中田屋が困っているところへ生前の恩を感じた鵜と鷺がやってきて,反吐のようにウナギとドジョウをはらりはらりと吐き出した.兎の恩返しである.中田屋はこれを「へど前大蒲焼」として売り出したが,その後,汚らしいので「へど前」は「江戸前」に改められたといった話だ.

[注7] 警察は小林多喜二の死因を心臓麻痺だと言い張ったが,「靴でたてつづけに踏まれたらしい内出血で紫褐色に膨れあがった両方の股,これも靴で蹴上げられた痣のある睾丸,焼火箸を突き刺したらしい二の腕とこめかみの赤茶けた凹みが多喜二の遺体にはあった」と千田是也は自伝に記している[10].また,江口渙は多喜二と一緒に捕まった今村恒夫の証言を紹介している[11].それによれば,警視庁から特高係長警部中川成人が部下の須田巡査部長と山口巡査を引き連れてやってきて訊問に取り掛かった.中川警部の指揮の下で多喜二を丸裸にして握り太のステッキで打ってかかり,これを手伝ったのが築地署の水谷主任,小沢,芦田などの特高係である.3時間以上も打つ,蹴る,撲るがひっきりなしに行われ,やがて半死半生になった多喜二の肉体は留置場に運び込まれ監房のなかに放り込まれた.意識を回復した多喜二が小便をしたいと言うので同室の留置人が担ぐように便所に連れて行ったが,小便は出ず肛門と尿道から夥しく出血して便器を真赤に染めた.そして間もなく息を引き取ったのである.警察は拷問死を認めていないが,遺体には拷問の跡が残っていたのだ.1928年に改正された治安維持法で死刑が適用されたことはなかったが,拷問によって100人以上の人々が殺害されたと言われている.

文献
1.忠臣蔵新聞:http://chushingura.biz/gisinews10/news10_ndx.htm
2.赤穂事件:https://akoinfo.com/akogisi/akogisitop.html
3.山本博文,東大教授がおしえる忠臣蔵図鑑,二見書房 (2019).
4.山本博文,東大教授の「忠臣蔵」講義,KADOKAWA (2017).
5.清水克行,戦国大名と分国法,岩波書店 (2018).
6.辻本弘明,両成敗法の起源について,法制史研究,1968 [18] 103-120 (1968).
7.清水克行,喧嘩両成敗の誕生,講談社 (2006).
8.静岡県立中央図書館・静岡県歴史文化情報センター,資料に学ぶ静岡県の歴史・22喧嘩両成敗 戦国大名今川氏の権力:https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/50/1/ssr2-22.pdf
9.例えば,小池正胤,宇田敏彦,中山右尚,棚橋正博編,江戸の戯作絵本3,筑摩書房 (2024).
10.千田是也,もうひとつの新劇史 千田是也自伝,筑摩書房 (1975).
11.江口渙,三つの死,新評論社 (1955).

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