壮士演歌とその系譜

戊辰戦争によって幕府が消滅して明治政府が成立したが,すぐに新政府の組織が発足したのではなかった.1869年の版籍奉還そして1871年の廃藩置県によって藩も消滅したのだが,新たな政治体制の構築には岩倉使節団による欧米諸国の実地調査が必要だった.そして佐賀の乱 (1874年),神風連の乱 (1876年),秋月の乱 (1876年),萩の乱 (1876年) および西南戦争 (1877年) によって戊辰戦争に貢献した士族の勢いが急速に衰え,維新の三傑 (西郷隆盛,大久保利通,木戸孝允) も1877年から1878年までの間にこの世から退場し,1881年には大隈重信が政権から追放されるクーデター (明治十四年の政変) が起こった.

明治政府が共和制ではなく立憲君主制を目指すことは想定済みであったが,イギリス式の議会制民主主義ではなくドイツ帝国憲法をモデルとしたのは,当時の権力者が国民主権を制限して国民を支配するために天皇の権限を利用したからだ.イギリス式の議会制民主主義を主張する大隈重信を追放した伊藤博文は憲法調査のため1882年に渡欧し,1885年には薩長中心の内閣が発足した.1887年の夏には金沢八景の料亭・東屋と横須賀の夏島にあった伊藤博文の別荘で憲法草案の起草が進められ,1889年に明治憲法として発布された.そして総選挙が1890年に始まったのだが,この時代に強化されたものは民権論者 (板垣退助の自由党や大隈重信の立憲改進党) への弾圧であった[注1].

演説や新聞では言論弾圧によって思うような活動ができないため,1887年頃になると民権壮士の路傍演歌や伊藤痴遊,奥宮健之らの読売壮士による新講談,そして角藤定憲や川上音二郎の壮士芝居が始まった[1, 2].板垣退助が「自由の思想はむしろ社会の下層に鼓吹すべきものであるから,むずかしい演説より通俗な小唄や講談の方がかえって効き目があるかも知れぬ」と言ったことが発端とされる[3].

演歌の始まりは1887年に流行った「ダイナマイト節」である.街頭に突っ立ってドラ声を張り上げてダイナマイト節をうたうと,たちまち人垣ができる.ひとくさり放吟したあとで歌詞を刷り込んだザラ紙の折本を売るのだ.「いまうたった歌は,これにちゃんと刷ってある.賛成の諸君は活発に持っていきたまえ,1部1銭だ」とかざして見せると,それだけで売れたのであった[1, 2].壮士節である.この壮士演歌の団体の参謀本部が中央青年倶楽部であり,選挙のときには運動員として活動した[1].演歌は政治活動の手段であったのだ.

演歌の事情は日露戦争後の遊学熱によって変わった[1].東京の学校に入るために上京する者が増加したのだが,無資産者の子弟が上京すれば苦学生になる.新聞や牛乳の配達,桶を天秤で担いで売る豆腐屋などが苦学生のアルバイトだが,演歌苦学生も激増した.書生節である.夜間の短い時間で金になるので通学には都合がよいからだ.演歌はザラ紙の折本を販売する収益事業でもあったのだ.

書生は学業を終えれば演歌をやめるので,商売として思想性も批判性もない演歌をやる演歌屋が明治末期から大正初期にかけて増えた.女性にちやほやされることを狙って演歌屋になるものが増えると,風俗的な点で演歌屋が官憲の監視を買うことになる.そこで壮士演歌以来の最長老であった添田唖蝉坊を担ぎ出して演歌組合を作り,不良視されるようになった演歌を安全な職業としての公認を取る運動が始まった[1].

世間の悪印象を払拭して演歌の興隆期を迎えることができるようになったのは1917年以降である.演歌は体制批判の政治演説から流行歌へと変貌し,ヒットソングが誕生すれば演歌師の懐が潤った.なお,初期の演歌には楽器の伴奏はなかったが,ヴァイオリンの伴奏を伴うヴァイオリン演歌が登場し (始めたのは神長瞭月),その後はギターやアコーディオンによる伴奏も行われるようになった[1].演歌は政治演説を脱して利益を目論む流行歌を目指したのだ.

演歌壮士団 「ダイナマイト節」by 土取利行
川上音二郎一座 「オッペケペー節」
添田唖蝉坊 「ノンキ節」by 土取利行
添田唖蝉坊 「続・ああわからない」by 土取利行

演歌の流れを整理すると,以下のようになるだろう.川上音二郎の「オッペケペー」は 1889年のヒットソングで,「改良節」もダイナマイト節とほぼ同時代の歌だ.自由民権運動を担う壮士節を起源とする演歌には節調を同じくするさまざまな替歌がある.久田鬼石の「愉快節 (1889年作)」と若宮万次郎作の「欣舞節 (1889年作)」が演歌の代表的な節調である[3].時勢によって歌詞は変化するが,替歌ではこの2つの節調を飽きずに繰り返したのである.

他方,演歌のビジネスモデルは歌詞を刷り込んだザラ本の販売による収益事業だ.添田平吉は不知山人の名で1892年に「ゲンコツ節」や「チャクライ節」を作り,1900年には「東雲節」がヒットした.その後,添田唖蝉坊の名で発表した「ラッパ節」が日露戦争後に流行し,1907年に「ああ金の世や」,1910年には「増税節」,1911年には「むらさき節」,1912年に「奈良丸くずし」と数多くの演歌を作詞・作曲した.大正期に入っても,1915年の「青島節」,1918年の「ノンキ節」などのヒット曲を連発した[4].添田唖蝉坊がヒットソングを連発するようになったのは渋井のばあさん (渋井かく) の提案によって,くだけた文句を取り込んだ「ラッパ節」を作ってからである.当時の音声や映像はほとんど残っていないが,土取利行は添田唖蝉坊のカバー曲を三味線の伴奏で発表している[5a, 5b, 5c, 5d].

演歌は演説が弾圧されたために発生したのだから,自由な演説が許されれば無用の長物だ.いわゆるプロテストソングには演歌のような事件の報道とそれに関する論説は含まれず,Pete Seeger (ピート・シーガー) の「We Shall Overcome (勝利を我等に)」やJohn Lennon (ジョン・レノン) の「Give Peace a Chance (平和を我等に)」に代表されるようなスローガンの連呼が一般的な様式のひとつだ.

もうひとつのプロテストソングの様式は歌詞に遠慮がちに秘められた反戦等の主張だ.このジャンルの代表曲は,1955年にピート・シーガーが作った「Where Have All the Flowers Gone? (花はどこへ行った)」やBob Dylan (ボブ・ディラン) が1963年に発表した「Blowin' in the Wind (風に吹かれて)」や1964年の「The Times They Are a-Changin' (時代は変わる)」などで,これらは放送禁止にはならず,ヒットソングとして世に知られるようになったものだ.これらの曲をプロテストソングだと理解するには一定の読解力 (あるいは想像力) が必要であるが,現実には単なるポップスやフォークソングとして受け入れられてヒットしたようである.日本では1968年に高石友也が「受験生ブルース」をヒットさせたが[6],1969年に発表した岡林信康の「くそくらえ節」は歌詞に問題があるとされて放送禁止になった[7].

プロテストソングとして最も効果的な楽曲は,ジョン・レノンが作った「John Sinclair (ジョン・シンクレア)」だったのかもしれない.この曲は1971年12月10日にミシガン州アナーバーのミシガン大学クリスラーアリーナ (the Crisler Arena) で開催されたジョン・シンクレア自由集会 (John Sinclair Freedom Rally) で初演された[8].この集会はジョン・シンクレアがマリファナ所持で投獄されたことに対する抗議コンサートであった.そして,この集会の3日後にミシガン州最高裁は州の大麻の法令を違憲とする判決を下して彼は釈放されたのだ.

ちなみに「John Sinclair」の楽曲は単調なメロディの繰り返しで,この単調さは演歌の特徴を踏襲したもので,ボブ・ディランが1963年に発表した「Masters of War (戦争の親玉)」にも通ずるものだ[9].ジョン・レノンの「John Sinclair」もボブ・ディランの「Masters of War」も政治的なメッセージを主体とするものであり,ヒットソングとして世に広まることはなかった.なお,ジョン・レノンは1972年に「Woman is the Nigger of the World (女は世界の奴隷か)」を発表したが,歌詞に「Nigger」が含まれているとの理由でアメリカのラジオ局では放送されず,ジョン・レノンの作品の中では最も売れない曲となった[10].

Billie Holiday (ビリー・ホリデイ) が1937年にリリースした「Strange Fruit (奇妙な果実)」のレコードはヒットソングになった.奇妙な果実とはリンチにあって虐殺され,木に吊りさげられた黒人の死体のことで,当時は黒人の虐殺が日常茶飯事であったのだ.この楽曲はプロテストソングの一種であるが,その政治的な影響は限定的であった.1863年の奴隷解放宣言によってアメリカでは黒人奴隷制の廃止が実現したが,新たに始まったのは人種差別だ.その黒人分離政策のもとで,黒人が黒人差別法 (ジム・クロウ法) を遵守することを強要されていた時代の歌である.黒人の虐殺がなくなった年を特定するのは困難だが,1964年の公民権法 (Civil Rights Act of 1964) 成立によって黒人差別法は廃止され,これで法の上での人種差別は撤廃された.なお,投票時の人種差別の禁止は1965年に成立した1965年投票権法 (Voting Rights Act of 1965) による.

演歌は演説が弾圧されたために発生したのだが,街頭での歌唱からラジオやテレビといったマスメディアが活動の中心となると放送業界の自主規制が始まり,官憲の弾圧から放送禁止への規制方式の変化が起こった.商業的なコンサートでも規制されるので,1970年頃には自由集会での発表が演歌の精神を披露する唯一の場となったのだが,ジョン・レノンのような有名人が出演しなければ,その影響力は限定的であったようだ.最近はインターネットでの楽曲の公開が行われるようなり,寿ガールズバンドが政治的な主張を含む楽曲をネット公開している[11].彼女らは日本保守党と高市早苗を応援する歌を披露しているのだが,自分のことを「僕ら」とか「俺たち」と歌の中では呼んでいる.政治的発言に対する弾圧はまだ行われていないようだが,まだテレビやコンサートに姿をみせたこともない.

寿ガールズバンド 「財務省ブルース」
寿ガールズバンド 「おどれ!国会議員!」
寿ガールズバンド 「がんばれ!石破さん!」
寿ガールズバンド 「僕らは立ち向かう!」

[注1] 森有礼らが1873年 (明治6年) に結成した明六社は,学術総合雑誌・明六雑誌を1874年に創刊した.福澤諭吉と初期の慶應義塾入門生が三田演説会を組織して一般に公開を始めたのも1874年であった.演説に関する刊行物の発刊については,1877年に発行された尾崎幸雄の公會演説法が嚆矢となり,1882年には最も多くの出版物が刊行された[12].しかし,自由民権論の演説が行われるようになると弾圧が強まり,1878年には演説集会取締令が発布され政談演説会の弁士は刑罰に処せられた. 1879年に入ると演説はますます盛んになって自由民権論と国会開設を望む論が勃興した.そこで取締令を発布して弁士を捕らえて監禁したのだが,それでも収まらなかったので取締令を強化して1880年の集会条例の発布に至った.集会の自由を規制する法律である.その後,1889年に発布された大日本帝国憲法第29条の条文 (日本臣民ハ法律ノ範圍內ニ於テ言論著作印行集會及結社ノ自由ヲ有ス) には,集会の自由などが保証されると記されているが,それには法律の範囲内という制限がある.法律の制定によって憲法の文言を骨抜きにする工夫が施されていたのである.

文献
1.添田知道,演歌師の生活,雄山閣 (1994).
2.添田知道,演歌の明治大正史,岩波書店 (1963).
3.添田唖蝉坊,演歌の明治ン大正テキヤ,社会評論社 (2016).
4.例えば,Uta-Netのんき節:https://www.uta-net.com/movie/222912/
5.例えば,(a) 土取利行添田唖蝉坊・知道を演歌する:https://meta-company.store/?product=rg-9
 (b) 添田唖蝉坊・知道を歌う土取利行さん:https://ameblo.jp/takeshi2393/entry-12475034764.html
 (c) 添田唖蝉坊と革命歌および労働歌:https://tsuchino-oto.hatenablog.com/entry/20131115/1384504857
 (d) 添田唖蝉坊の「ああ踏切番」:https://tsuchino-oto.hatenablog.com/entry/20111202/1322837582
6.例えば,Uta-Net 受験生ブルース:https://www.uta-net.com/movie/2519/
7.例えば,Uta-Net くそくらえ節:https://www.uta-net.com/movie/265998/
8.例えば,John Sinclair:https://denihilo.com/john-sinclair/
9.例えば,Bob Dylan Masters of War:https://protestsongs.michikusa.jp/english/dylan/mastersofwar.htm#takaishi
10.例えば,Woman is the Nigger of the World:https://lyriclist.mrshll129.com/johnlennon-woman-is-thengr-of-theworld/
11.寿ガールズバンド:https://www.youtube.com/@kaxtoshi9
12.宮部外骨,明治演説史,有限社 (1926).

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