生麦事件の現場を訪ねる
生麦駅からさほど遠くない住宅地に生麦事件発生場所の説明板がある.そこには1862年9月14日 (旧暦では文久2年8月21日) に江戸から京都に向かう薩摩藩主の父・島津久光の約400名の行列に,横浜から来た馬に乗った4人のイギリス人と遭遇したと書かれてある.列を乱された薩摩藩士が4人に切りかかり,1人が死亡し2人が負傷した事件が起きた現場だ[1, 2].




生麦の旧道を横浜方向に約800メートル進んだところ (キリンビール横浜工場の近く) に,生麦事件碑がある.イギリス人が落命した場所に1883年に建てられた遭難碑だ.そこには1862年の生麦事件が1863年の薩英戦争を引き起こしたと書かれてある.生麦事件で死亡したのはリチャードソン氏 (Charles Lenox Richardson) だ.クラーク氏 (Woodthorpe Charles Clark) とマーシャル氏 (William Marshall) は負傷,そしてボロデール夫人 (Margaret Watson Borradaile) は帽子を切り飛ばされた[1].マーシャルとクラークはアメリカ領事館のある本覚寺に飛び込んで,成仏寺に住むアメリカ人の医者・ヘボン (James Curtis Hepburn) の治療を受けた.ボロデール夫人は横浜の居留地へ駆け戻り救援を訴えた.
事件翌日の「ジャパン・ヘラルド」には生麦事件の生存者3名の陳述が記され,薩摩藩の説明は1875年にE・H・ハウス氏の書いたパンフレットで知られるようになった[2].これらの陳述は大筋では一致しているものの殺害に至ったときの状況には多少の食い違いがある.
クラーク氏によれば,先頭にいたのはボロデール夫人とリチャードソン氏であり,リチャードソン氏はボロデール夫人の反対側を進んでいた.行列の中心部に近づいたときに2人は止められ,神奈川方向へ馬首をめぐらしたときに斬りつけられた.マーシャル氏によれば行列の12人目位のところまで進んだときに,道をふさがれ馬が向きを変えようとするときに斬りつけられた.ボロデール夫人によれば,神奈川の方向へ馬首をめぐらせたときに斬りつけられた.
薩摩藩の説明では,身分の高いものが道路を通過する際には出会った通行人は馬から降りることが礼儀作法だ[注1].そして,左手に寄って一列になって通れば危害を加えられずにすんだとも述べているのだが,殺害されたリチャードソン氏は道を譲ろうとせず藩主の駕籠に道を譲らせようとの態度を取っていた.
そして3人の生存者および治療に当たった人々の回想談は,リチャードソン氏による主君に対する侮辱行為によって生麦事件は誘発されたのだとする薩摩側の話に有利だとハウス氏は結論している.
島津久光の行列の通過に際して,日本のルールに即した行動規範を遵守するように各国公使館には予め奉行所から警告していたのだから,生麦事件は傲慢なイギリス人の招いた災禍だったのだ[3].しかし,事件後にイギリス外相ラッセルからニール代理公使への12月24日付の調令は幕府に賠償金10万ポンド,薩摩藩には賠償金2万5,000ポンドと犯人の処刑の要求だった.そして,横浜にイギリス艦11隻を集め,拒絶の場合は江戸を焼き払うと幕府に通告した.アメリカ公使は艦隊を連ねて日本を脅すイギリス公使に,イギリスが日本に開戦するならばアメリカが苦心惨憺して日本を開国させた努力も水泡に帰すであろうと忠告した[3].
幕府は老中の小笠原長行が独断で賠償金を支払った[3].生麦事件に際して幕府が行った賠償金の支払いは,日本に非があることを認めたことではなく不当な恫喝に屈したのだ.アヘン戦争やアロー戦争の開戦の経緯を鑑みて,イギリスによる開戦の口実を封じるような政治的な判断である.正義を盾にした話し合いによる交渉ではなく軍事力を背景にした恫喝が重要であった時代に幕府は金で平和を買ったのだが,薩摩藩は賠償金を支払わずに薩英戦争に突入した.
[注1] 大名行列を横切るといった無礼な行為を続けたものを切り捨てて構わないという無礼討ちの特権が武士にはあった.ただし,これは客観的にやむを得ないと認められるほどの無礼があったときのみに認められるものであり,その正当性が認められなければ殺人罪に問われて打ち首となる.1858年に締結された日米修好通商条約 (日英修好通商条約も同年に締結) によれば,アメリカ人の治外法権を認めた第6条に,アメリカ人に対して法を犯した日本人は日本の法律によって裁かれることが明記されている.締結した条約の規定によれば,生麦事件で殺人罪が成立するかどうかは,日本の法律に委ねられるのだ.
文献
1.宮澤眞一,「幕末」に殺された男,新潮社 (1997).
2.J・R・ブラック,ヤング・ジャパン1横浜と江戸,平凡社 (1970).
3.柴田俊三,日英外交裏面史,秀文閣 (1941).